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祈られている幸い

「祈られている幸い」

2019年6月30日

S牧師の母上が危篤になりました。その時、S牧師の3歳と4歳の子が祈りました。それはまことに純粋な祈りでした。S牧師は「この祈りは聞かれる」と確信しました。しかし、母上は召されました。その次の聖日の説教箇所は、祈りについての御言葉でした。「主よ、私たちは祈っていなかったのですか」。叫ぶような思いに捕らわれつつ説教を準備しました。S牧師はこう言っています。「いつも祈りが聞かれるなら楽だが、聞かれないことがある。これは、信仰を持つが故の戦いである。信仰を持っていなければ、こんな戦いをしなくても良い。それでも、信仰に留まっている。教会につながっている。それは、祈られている自分がいるからである。私たちは祈られている。家族の祈り、信仰の友の祈り、同労者の祈り。それにもまして、主イエスの祈りがある。「シモン、シモン…わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。(ルカによる福音書22:32)」これにまさるものはない。この執り成しの祈りによって、私の信仰は支えられている。」私たちが信仰を失わないのは、私たちが強いからではありません。主イエスが祈ってくださっているからなのです。主に感謝します。