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主は私の魂の憧れ

「主は私の魂の憧れ」

2020年2月23日

先週「聖書を学ぶ会」で詩編143編を学びました。その8節はこう語っています。「あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです」。この御言葉は私の愛唱聖句の一つです。特に最後の「あなたに、わたしの魂は憧れているのです」という言葉に心が惹かれます。人は皆、憧れる対象を持っています。では私たちは誰に憧れているでしょうか。この御言葉を黙想していた時、旧讃美歌の527番を想い起しました。「我が喜び、我が望み 我が命の主よ 昼たたえ、夜歌いて なお足らぬを思う/慕いまつる 飼い主よ いずこの牧場に その群を 主は導き 養い給える」。主よ、あなたは私の喜び、私の望み、私の命です。心から慕う飼い主です。あなたの牧場へと私を導いてください。この曲の作者も、主に憧れています。主を慕っています。主を喜んでいます。そして主に信頼しています。私たちは、素晴らしい新会堂を与えて下さった主を喜び、主に心からの憧れをもって、「行くべき道」を歩んで行きたいと思います。他のものに憧れるのではなく、私たちの祈りに恵みをもって応えてくださった、主に全幅の信頼をもって歩んでいきたいと思わされます。

「会堂は変わっても主は変わらない」

2020年2月16日

先週、新会堂への入堂礼拝を献げながらハガイ書の御言葉を想い起しました。バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰った預言者ハガイは、あの壮大なソロモンの神殿が破壊され荒れ果てている様子を見ました。そのハガイに神様は新しい神殿を立てて礼拝を回復することを命じられました。ハガイはこの神様の言葉を民に伝えました。民は貧しかったのですが、この神様の言葉を受けて立ち上がり、神殿建設を始めたのです。幾多の困難を経て完成した神殿は、かつてのソロモンの神殿と比べると、とても小さい粗末な神殿でした。こんな神殿では建てても意味が無いのではないかと呟く人たちもいました。しかし神様はハガイを通して言われました。最も大切なことは神殿の姿かたちではない。その神殿でまことの礼拝が献げられるかどうか、ということだ。あなた方はこの神殿の主人である私を見ないで、神殿の建物だけを見ている。私の目にはこの新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる。そうなのです。会堂の姿かたちは変わっても、会堂に臨在される主は変わることはないのです。会堂での礼拝は変わることがないのです。新会堂に主の栄光が満ち溢れることを祈りつつ歩んでいきましょう。

「神に導かれた奉仕」

2020年2月9日

この1週間余り、私が改めて感動していることがあります。それは、新会堂完成の際に献げられた多くの方々の尊いご奉仕の姿です。1月31日に新会堂の椅子100脚が4トン積みのトラックで運ばれてきました。トラックには運転手さんが一人いるだけです。そして椅子は2脚一組で大きな段ボールに厳重に梱包されています。「この梱包を解くだけでも大変な作業だ、どうやって」と思っていたら、集まってくださった奉仕者の方々は直ぐにその大きな段ボールに取り組まれ、椅子を取り出し、会堂の中に次々と運んでくださいました。私は、椅子がきれいに並べられた会堂の姿にも感動しましたが、奉仕者の方々の熱い思いに激しく感動しました。先週の礼拝後も、多くの方々が重たい金庫やキャビネ、オルガン、ベンチなどを次々に運んでくださいました。また残ったベンチを遠くの教会に輸送してくださった兄弟もおられます。私は、立派に完成した新会堂が与えられた恵みに加えて、教会員の皆様を、このような奉仕と献身へと導いて下さった主を崇め感謝いたしました。「神のために働く思いと熱意があるだけでは、十分ではない。その働き自体が神のものでなければならない。」(A.W.トゥザー)

「大工を信じて委ねる」

2020年2月2日

アメリカの牧師A.W.トゥザーがこのようなことを言っています。「金槌というのはとても役に立つ道具だ。しかし、もし私たちを釘の側においてみれば、こんなに厄介な相手はいません。自分の頭をいつもガツンガツンと叩くのですから。でも釘は金槌のことだけを考えてはなりません。釘は金槌を握っている大工の手を思い出すべきです。もし釘が金槌ではなく、それを握っている大工の手を思い出すなら、釘は大工が立派な家を建てるために自分が用いられているということが分るでしょう。でも私たちは、往々にして金槌のことばかりを考えて、どうしてこれほどの試練が?どうしてこれほどのストレスが?なぜ私は叩かれるのか?ということばかりに気持ちを持って行ってしまう。」トゥザー牧師の言っていることはよく分かります。しかし現実には、これを受け入れるのが非常に難しいのです。なぜなら、私たちは金槌を握っているのは大工(神)であることは分かっても、その大工が一体どのような家を建てようとしているのか分からないからです。自分には分からないけれども、この大工(神)はとても腕のいい大工だからきっと善い家を建ててくれるに違いないと信じて委ねる他ありません。