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疫病と受難劇

「疫病と受難劇」

2020年4月26日

1633年ヨーロッパ全土に拡がったペストは、人口の1/3の人が亡くなるという大災害をもたらしました。南ドイツの小さな村、オーバーアマガウにもこの疫病が迫ってきました。村人たちは「もしこの病から村が救われたら、10年に一度キリストの受難劇を上演します」と誓いました。その祈りは聞かれて疫病は収まりました。翌年の1634年のペンテコステの日、村人たちは受難劇を上演しました。そしてその後も、休むことなく10年に一度上演されてきました。受難劇は村の野外劇場で上演され、2千人以上の村人が出演します。5月から9月にかけて100回以上も上演され、途中休憩をはさみながら、朝から夕方までになるという大掛かりなものです。今や、この受難劇を見るために全世界から人々が集まって来ています。この受難劇がペスト大流行の恐怖の中で、ひたすら祈った村人たちの純粋な信仰から生まれたことを、改めて覚えたいと思います。今年は10年に一度の上演の年でしたが、新型コロナウイルス感染症のため2022年に延期されることになりました。400年前と同じような熱心な祈りがささげられ、2年後には感染症が終息したことへの感謝を込めて、受難劇が上演されることを祈り願っています。

「最悪でも天国だ」

2020年4月19日

主の復活が、単にキリスト教の教理ではなく、今の自分を生かす力となる。それが真の復活信仰であると、イースター礼拝にて語らせていただきました。教会で時々聞かれる言葉に「最悪でも天国だ」という言葉があります。困難な病に罹った時、私たちは癒しを切に祈り求めます。しかし最後は「主の御心に委ねます。最悪でも天国なのですから」と結ぶのがキリスト者の祈りだというのです。でも私は、この祈りをなかなか祈れませんでした。本音を隠して、やせ我慢をしているように感じられたからです。「最悪でも天国だ」と心から言い切ることは容易いことではありません。しかし今回、説教準備の黙想をしていた時、復活の希望に生きるということは「最悪でも天国だ」と素直に言えるようになることだと示されました。ダニエル記3章に出てくる3人の少年たちは、偶像礼拝を拒否したため火に焼かれることになりました。しかし「神は必ず私たちを救ってくださいます。たとえそうでなくても私たちは偶像を拝みません」と宣言しました。これは「最悪でも天国だ」という信仰に基づいた言葉だと思います。建て前でもやせ我慢でもなく、この言葉を心から語れますようにと祈っています。

「聖餐の恵みを慕い求める」

2020年4月12日

茅ヶ崎恵泉教会では、毎月の第一聖日、イースター、ペンテコステ、クリスマス、受難日の礼拝において聖餐に与っています。プロテスタント教会の礼拝は「神の言葉」による礼拝です。具体的には、見える神の言葉である聖餐と、見えない神の言葉である説教を中心にした礼拝であるということです。ですから本来は、毎週聖餐式を行うことが望ましいのですが、時間の関係もあって現在の形を採っています。聖餐式を行わない礼拝でも、説教によってその恵みに与れるという信仰に基づくものです。しかし今、新型コロナウイルス対策のため、その限られた回数の聖餐さえも守れなくなっています。これは教会にとって大きな試練であり、深い痛みです。教会の戒規に「陪餐停止」という処分があります。教会を汚す大きな罪を犯した人が、聖餐に与ることを禁止するという戒めです。聖餐に与れないことが、どれほど辛く苦しいことであるかを、身をもって味わい、悔い改めに導くための処置です。今私たちは、戒規処分を受けている訳ではないので、状況は全く異なりますが、この時、聖餐の恵みを改めて心に深く覚え、聖なる飢え渇きをもって、聖餐に与れる時を待ち望んでいきたいと願います。

「人を変えるまことの美しさ」

2020年4月5日

ある人が「本当の美しさとは、その人の内に変化を呼び起こすような美しさだ」と言っています。そのような美しさは、人の目に「きれいだ」とは必ずしも映らないかもしれません。ドストエフスキーは「十字架の上にぶら下げられたキリストの姿より美しいものは他にない」と言いました。あの時、弟子たちが見たのは、殴られ、唾をかけられ、鞭打たれ、弱り果てたイエス様でした。何度も倒れながら十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエス様。十字架の上でも全く無力で、苦しみの中で息を引き取られたイエス様。そのお姿には、メシアとしての麗しさのかけらも見られませんでした。その弟子たちが、復活の主に出会って力を与えられ、聖霊の導きによってあの十字架の意味を知らさました。その時、弟子たちの目には、嘲られ、苦しめられ、弱り果てたイエス様のお姿が、限りなく美しいものに見えた筈です。あの十字架の上で惨めな死を遂げたイエス様のお姿が、この上もなく尊い救い主のお姿として迫ってきた筈です。それは、その出来事の中に、人の命を得るためにご自分を献げ尽くしていく、愛の美しさを見たからです。これが私たちを変えずにはおかない、まことの美しさです。