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神様から与えられている武器

「神様から与えられている武器」

2020年5月31日

「ナルニア国物語」の著者C.S.ルイスがこのようなことを言っています。「医者が行うのは、体内の自然の機能を刺激するか、障害を取り除いてやることなのです。われわれは便宜上傷を治すと言いますが、ある意味で、傷はすべて自分で治るのです。死体の傷にどんな薬を塗っても、新しい皮膚ができることはありません。天体を動かす引力と呼ばれる力、それは体を癒す時には生物学的力と呼ばれるのですが、それが、すべての回復を実際に起こす原因なのです。そして、もし神が存在するならば、その力は、直接にしろ、間接的にしろ、神の力なのです。癒される人は皆、神が内なる癒し手として働くことによって、癒されるのです。」今、新型コロナウイルスの治療法が熱心に研究されています。そういう中で、免疫力を高めることの大切さが改めて認識されています。神様は私たちの体に細菌やウイルスと闘うための免疫力を備えて下さっています。そして、私たちの心にもサタンの誘惑と闘うために信仰という武器を与えて下さっています。細菌やウイルスに打ち勝つ体の免疫力とサタンの誘惑に勝利する心の信仰。私たちはこの二つを強めていただけるように神様に祈っていきたいと思います。

「私たちを訪ねてくださる主」

2020年5月24日

今、私たちは、教会に集うことができず、寂しさや心細さを感じながら、部屋に閉じ籠ることが多くなっています。それは、主イエスが十字架にかかられた後、部屋に鍵をかけて閉じ籠っていた弟子たちの姿と似ています。弟子たちも、恐れと不安の中で、家の戸に鍵をかけて閉じ籠っていました。しかし、復活の主イエスはその弟子たちの家を訪ねられて、弟子たちの前に御姿を顕してくださいました。主イエスは、私たちがどこにいようとも、私たちのもとを訪ねてくださいます。今、私たちが、置かれているそれぞれの場こそが、主イエスとの出会いの場なのです。主イエスは、弟子たちのもとを訪ねてくださり、「平和があるように」と祝福してくださいました。弟子たちが心の平和を失っていたからです。弟子たちはその主を見て喜び、力に満たされて立ち上がりました。今、主イエスは私たち一人一人の家を訪ねてくださり、「あなた方に平和があるように」と御言葉を与えてくださっています。教会に集まれないことは堪らなく寂しく悲しいことですが、私たちの家を訪ねてくださる主イエスを見上げ、夫々の家を主イエスとの出会いの場として頂きましょう。そこに主の平和が実現します。

「今こそ教会は」

2020年5月17日

清水ヶ丘教会の月報に掲載された中島聡牧師の文を引用させて頂きます。『新聞のコラムに、「宗教行為が集団感染をもたらす…共に祈りをささげる営みが、むしろ悲しみを生んでいる」とあり、何と耳が痛いことと思わされました。しかし続きがありました。「その皮肉を指摘するのは簡単だが、それで済むのか。元より、人間の生と死を見つめ、人々に救いや癒しを与えてきたのが宗教だろう。…宗教が力になることもあるのではないか。」と期待の言葉で締め括られていたのです。今こそ、教会は、私たちにしかできない祈りを、それぞれの場でささげるべき時なのです。』まさにアーメンです。神様は、この時を祈りの訓練の時として与えて下さっているのかもしれません。皆さん、私たちは祈りましょう。感染症の苦しみの中にある人のために。愛する者を失って悲しみの中にある人のために。過酷な状況で働いている医療関係者の方々のために。福祉・介護・保育の現場で働いている人たちのために。ライフラインや公共機関を維持するために尽力されている人たちのために祈りましょう。『主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。』(サムエル記下24:25)

「今日もリンゴの木を植えよう」

2020年5月10日

宗教改革者のマルティン・ルターは「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、私は、今日、リンゴの木を植える」と言いました。この言葉は、重い病のため、この地上での生命が限られた人に、なお今日という一日を精一杯生きよう。与えられた一日には大切な意味があるのだから。そうした励ましを与える言葉となっています。このルターの言葉がいつごろから人々の口に上るようになったかを調べた人がいます。1930年代の終わり頃から、ドイツでナチスの弾圧に苦しむ人々の中で語られるようになったというのです。特に第二次大戦の末期に、この言葉で互に励まし合うようになったそうです。戦後も冷戦が激化した時、この言葉がドイツの教会で語られました。平和が望み得ないような現実の中で、尚も平和への希望を持ち続けようと、この言葉で励まし合ったそうです。神様が、終わりの日に全き平和を実現してくださる。そのことを信じて、今日なすべきことを誠実になしていこう。そうした励ましの言葉となったというのです。 新型コロナウイルスの大流行によって先の見えない閉塞感の中にいる時、この言葉を想い起こし、今できること、今なすべきことを、誠実に行っていきたいと思います。

「福音と疫病の感染力の違い」

2020年5月3日

新型コロナウイルスという疫病の怖さは、その感染力の強さです。聖書の中に新型コロナウイルスの様な人間だと言われた人物がいます。使徒パウロです。パウロはユダヤ人の指導者から「この男は疫病のような人間だ」と言われました(使徒24:5)。ひどい蔑みの言葉です。しかしパウロは、内心ではこのように呼ばれたことを喜んでいたかもしれない、と私は思っています。パウロという疫病にかかると、家全体、いや町全体がキリスト教徒になってしまう。そんなに感染力を恐れられていたなら伝道者としては本望かもしれません。しかし福音は、本来、新型コロナウイルスよりも格段に強い感染力を持っている筈です。そうであれば、私たちは「福音」の感染症患者にならなければならないと思います。新型コロナウイルス感染者ではなくて、福音の感染者となって、ウイルスをまき散らすのではなくて、福音の恵みをまき散らす者にならければいけないと思います。疫病も福音も強力な伝播力を持っています。しかし両者の違いは、疫病は人と人とを切り離しますが、福音は人と人とを結び付け一つの体(教会)とします、また、疫病は死をもたらしますが福音は永遠の命へと人を導くのです。