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気付かされた恵み

「気付かされた恵み」

2020年6月28日

先日アレセイア湘南中学・高校の礼拝で次のようなことを生徒に語らせて頂きました。「ある人が『生きがい』という言葉を『朝起きる理由』と定義しています。コロナのために自宅に閉じ籠っていた時、朝起きて、何をすべきか分からない、という日もあったかもしれません。それは、辛く苦しい時であったと思います。今、学校に戻って来て、皆さんは感じているのではないでしょうか。一生懸命にやることがある。それは幸せなことなのだと。今まで『何でこんなことしなくてはならないの』と思っていたことも、堪らなく懐かしく思えるのではないでしょうか。友達が普通にいてくれる。先生が自分を待っていてくれる。部活で練習ができる。それが本当に嬉しく思えたのではないでしょうか。聖書はそういうものを「神様の恵み」と言っています。聖書の中にこういう言葉があります。『わたしの恵みはあなたに十分である。』実は、神様の恵みは私たちの周りに溢れているのです。ただ私たちは、普段、それに気付くことが少ないのです。コロナは今まで気づかなかった恵みに気付かせてくれました。今まで気づかなかった神様の恵みを発見すること、が私たちの人生を豊かにしてくれます。」

「神様がじゃんけんに加わると」

2020年6月21日

聖書には逃げた人たちがたくさん出て来ます。モーセは、ユダヤ人を虐待するエジプト人を殺して、荒れ野に逃げました。ヨナは神様の命令から逃げて、海の中に投げ込まれました。主イエスの弟子たちも主イエスを一人残して逃げました。しかし、逃げても皆、結局は神様によって捕らえられてしまっています。モーセやヨナや主イエスの弟子たちを見ていきますと、人生は勝ち負けではないということが分かってきます。常に自分は相手よりも上か下かで、世の中を判断する人がいますが、聖書はそのような生き方を勧めていません。二人でじゃんけんをしていると考えてください。自分がグーで、相手がパーを出したなら自分の負けですが、そこに誰かが参加してチョキを出したら、「あいこ」になってやり直しになります。神様は私たちが勝ち負けにこだわって、グーやパーを出している時に、そこに入り込んでくださりチョキを出されるお方です。このお方が現れると勝ち負けは無くなり、いつも「おあいこ」、引き分けになります。教会でのじゃんけんは、いつも神様が加わって下さり、永遠に「おあいこ」でありたいものです。神様の御前では、誰でもが等しく赦された罪人であるからです。

「賛美休憩の恵み」

2020年6月14日

新型コロナウイルスのため自宅にいる毎日が続き、生活にメリハリがつけにくくなっています。聖日礼拝も自宅で守るようになったため、曜日の感覚が薄れているという声も聞きます。そのような中で、携帯にアラームをセットしておき、賛美や祈りのための時を、定期的に聖別することにした人がいます。それが思いがけない恵みの時となったとのことです。それぞれが、様々な工夫を凝らして、この試練の時を、神様により近づく時に変えようと努めておられます。そのために様々なご奉仕がなされてきました。ユーチューブを利用して礼拝のライブ配信を、自発的に申し出てくださった方がおられます。何度も試行錯誤を繰り返し、色々な器具を買い揃えて、配信を可能にしてくださいました。また役員の有志の方々が週報と説教原稿を事前に配布してくださっています。このご奉仕が始まった時に、たくさんの切手を教会に送ってくださった方がおられます。ご奉仕に対する、その方なりの感謝の気持ちを、切手を送ることで表されたのだと思います。このようなことを通して、苦難の時は、神様が働かれる機会でもあり、また思いがけない神様の恵みを体験する機会でもあると思わされています。

「沈黙は歌に変えられる」

2020年6月7日

5月26日に和田扶實子姉の告別式が、ご家族・近親者のみの家族葬として、会堂においてしめやかに、しかし慰めに満ちて執り行われました。式の中で扶實子姉の愛唱讃美歌が3曲歌われました。その中の1曲は讃美歌21の575番でした。生前、扶實子姉は「見えないものの中に働いている神様の力に気付く者でありたい、という願いを持ってこの讃美歌を歌っています」と言っておられました。その歌詞はこう歌っています。『①球根の中には 花が秘められ/さなぎの中から いのちはばたく/寒い冬の中 春はめざめる/その日、その時をただ神が知る。②沈黙はやがて 歌に変えられ/深い闇の中 夜明け近づく/過ぎ去った時が 未来を拓く/その日、その時をただ神が知る。③いのちの終わりは いのちの始め/おそれは信仰に、死は復活に/ついに変えられる 永遠の朝/その日、その時をただ神が知る。』今、訪れる人もなく会堂は静かです。しかし、今の沈黙が喜ばしい高らかな歌に変えられる。恐れは信仰に変えられる。深い闇の中、夜明けは近づいている。球根から花が咲くように、神様のご計画は着々と進められています。そのことを信じて、会堂における礼拝再開の日を待ち望みたいと思います。