MENU

切実で率直な祈り

「切実で率直な祈り」

2020年7月26日

まだキリスト教の布教が禁止されていた江戸時代の末期に、多くの宣教師が日本に来て伝道開始の時を待ちました。その中にジョナサン・ゴーブルというアメリカ人宣教師がいました。ゴーブルは、マタイによる福音書を分かり易い言葉に翻訳して印刷しました。これが日本で出版された最初の聖書です。ゴーブルは日本の庶民のことをよく考えていたので、この聖書も読み易いように全部平仮名で書きました。また神様のことを「だんなさん」と言ったり、賛美歌を三味線の伴奏で歌ったりしたそうです。病弱な人のために人力車を発明したとも伝えられています。ゴーブルは、今朝の御言葉、マタイによる福音書6章11節をこのように訳しています。「われらのひびのめし(飯) きょうもわれらにあたえたまえや」。日毎の糧を「めし(飯)」と訳しているのです。この言葉に貧しい庶民の切実な思いが込められているとみることもできます。「日々の糧を 今日与えたまえ」。この祈りは、その日の飯を切実な問題として祈っている、人間の率直な願いを表しています。主の祈りの後半、人間に関する願いの最初に、「飯を今日与えたまえ」、と祈ることを許してくださった主に感謝したいと思います。

「ヤベツの祈りと主の祈り」

2020年7月19日

主の祈りは「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、私たちの正直な思いは「私の縄張りを大きくしてください」という願いなのではないか、と言った人がいます。「私の縄張りを大きくしてください」。この厚かましいような祈りを、あからさまに祈った人が聖書に出てきます。歴代誌4章10節に出て来るヤベツという人です。ヤベツは「どうかわたしの領土を広げてください」と祈っています。しかしこの自分勝手とも思えるような祈りを、神様は受け入れられたと御言葉は言っています。10数年前、ブルース・ウィルキンソンという人が「ヤベツの祈り」と言う本を出版し、世界中でベストセラーになりました。多くの人がその本を読んで「自分の領土を広げてください」という、正直であからさまな祈りが神様に受け入れられたことを知って、大いに喜びました。しかしヤベツの祈りは、自分が神様により大きく用いていただけるために、自分の活躍する場を広げてくださいという祈りなのです。神様のために、より大きな働きをするために、自分の領土を広げてくださいと願っているのです。そうであればヤベツの祈りは、御国を来たらせたまえ、という祈りと重なって来るのではないでしょうか。

「主よ、何のためですか」

2020年7月12日

2018年4月に召天された榎本てる子牧師は、召される5日前にこのような言葉を書いておられます。『神様は残酷です。まだやりたいことがいっぱいあります。何でこの時期に…と思う毎日です。でも私の父(榎本保郎牧師)は「何でですか」ではなく「何のためですか」と問え、と言っていました。今の私にはその答えはすぐには見つかりません。でも視点が大切な事は忘れないでいたいと思います。引き続きお祈りください。』私たちも、「神様なぜですか」と問うことが多いと思います。しかしそのような時に、「神様、何のためですか」と問い直すことが出来るなら、その時私たちは、自分中心から神様中心になり、神様の御声を聴こうとしているのではないでしょうか。てる子牧師が言われた「視点が大切だ」ということは、神様中心に生きなさいということではないかと思います。「神様なぜですか」ではなく「何のためですか」と問い直すことが出来る者とならせて頂きたいと思います。ある人が『イエスが「ついてきなさい」と語られるとき、イエスがどこで呼んでおられるのか、あれこれと考えるのはやめなさい』と言っています。これも「なぜですか」という問いを止めた人の言葉です。

「言葉の定義」

2020年7月5日

以前、アメリカのある新聞で言葉の定義のコンテストがありました。選ばれた定義の中には「なるほどなぁ」と思うようなものが多くありました。例えばお金とは、「天国以外のすべての所に連れて行き、幸せ以外のすべてのものを買うことができる手段」だそうです。友だちとは、「全世界があなたから離れて行った時、一人駆け寄ってくれる人のこと」だそうです。では、愛とは一体何でしょうか。選ばれた定義の一つは、「あなたの存在を喜ぶこと」だそうです。これは聖書が伝える神様の愛にかなり近い定義だと思います。一般に人間は、相手の人の持っている財産や、容姿の美しさや、才能を喜ぶことができます。しかし、相手が無一文になり、年老いてその人の美しさも枯れ果てて、寝たきりになり何も貢献できなくなった時、どうなるでしょうか。「私にとってあなたはもう何の価値がない。もうあなたには用はない」と言って、離れ去ってしまう人もいるかも知れません。本当の愛は、その人の持ち物ではなく、どんな時も、その人の存在そのものを喜ぶ心です。「私の目にはあなたは高価で尊い。あなたは私の自慢の人です」と言える心です。神様の愛は、まさにそのような愛なのです。