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ベー・チェチョルの祈り

「ベー・チェチョルの祈り」

2020年10月25日

音楽プロデューサーの輪嶋東太郎さんがこんな文を書いています。『韓国のテノール歌手ベー・チェチョル。アジアのオペラ史上最高のテノールと称されたが、甲状腺のがんにより人間が声を発するために必要な神経のすべてを切断するという悲劇を経験しながら、人類の歴史上でいまだかつてないような奇跡を体現し、舞台に復帰。多くの人にその歌を通して、愛と祈りを伝えている。演奏会で、必ず歌う前に後ろを向いて短く祈りをささげる彼に、「何を祈っているのか」と尋ねたことがあった。「一音たりとも、自分をひけらかすということがなくなりますように。すべての音を、あなたのために歌う自分でいられるように、私を縛ってください」と神様に祈っている。彼は私にそう答えた。その彼と共に歩く道を与えられた私は、その過程で主に出会い、そして「音楽の最も美しい部分は、耳には聞こえない」という、宝のような気づきを得た。それは、愛や祈りのような、一種の周波数のようなものなのかもしれない。』状況は異なりますが、私も説教の前に同じような祈りを献げます。「どうか、一言たりとも自分をひけらかすことがありませんように。ただ主の栄光のみが輝きますように。」

「御言葉に忠実に生きる勇気」

2020年10月21日

NHKの朝ドラ「エール」が戦争のさなかを生きる人々の姿を伝えています。国を愛する気持ちと平和を愛する気持ちの葛藤に悩み苦しむ人々の姿が悲しみを込めて映し出されています。キリスト教会に対する弾圧の様子も僅かですが伝えられています。Y姉を通して茅ヶ崎恵泉教会と交わりのある膳所教会を設立した矢部喜好牧師は日本最初の良心的兵役拒否者として知られています。矢部牧師は日露戦争の時召集を受けましたが、人を殺す戦争には参加できないこと、平和は戦争による方法ではもたらされないことを理由に兵役を拒否しました。そのため逮捕され禁固刑に付されました。その矢部喜好牧師から洗礼を受けた岡田實牧師も、第二次大戦に召集されフィリピン戦線に出征しましたが、敵であっても人を殺すことはできないと、所持していた銃を捨てました。当然、軍法会議にかけられ重罪になるところ、アメリカ軍の捕虜となり終戦を迎えました。国を挙げて戦争に突き進んでいた時に、兵役を拒否したり、銃を捨てたりすることが、どれほど勇気のいることであったのか想像すらできません。このように御言葉に忠実に生きた信仰の先輩を与えられていることを感謝したいと思います。

「主に接ぎ木されたお互いとして」

2020年10月11日

今朝の説教で接ぎ木の話をさせていただきました。生まれながらの私たちは良い木ではありません。ですから主イエスという木に、接ぎ木されなければ良い実を結ぶことはできない、と語らせて頂きました。私たちが主イエスに接ぎ木される出来事。それが洗礼です。そこで、覚えておかなければいけないことがあります。それは自分の人生に、主イエスを接ぎ木したのではないということです。自分の願いが叶うように、自分の人生が祝福を受けるように、自分の幸せが実るように、自分の人生に主イエスを継ぎ足したのではないです。私たちが主イエスという樹に接ぎ木されたのです。接ぎ木された私たちは、それぞれの特性を持っています。しかしこれから先、その特性を生かしてくれるのは、主イエスという樹からいただく恵みの養分です。その特性が神に喜ばれる方向へと実をつけて行くことを私たちは願っています。それが信仰者の生き方です。教会に集う私たちの性格はそれぞれです。私たちの賜物も才能もそれぞれです。でも、私たち一人一人の内には、皆、同じように主イエスという樹の命が流れ込んでいるのです。教会はそのような共通の樹の命を土台とした者たちの群れなのです。

「一人一人に寄り添う伝道」

2020年10月4日

コロナ禍によって、人を集めての集会や伝道が出来なくなっています。そのため一人から一人への伝道に立ち帰らされています。身近にいる一人一人に神様の恵みを丁寧に証ししていく。この伝道の基本に立ち帰ることの大切さを示されています。また、この世界的な未曾有の危機に際して、「共に生きる」ということの大切さが、改めて問われています。「共に生きる」とは、当たり前のことなのに、殊更のように、今それが言われるのは、普段、如何にそのことが軽視されていたかを示しています。しかし、「共に生きる」という言い方にも、一種の気負いがあって、上から目線の言葉に聞こえなくもありません。むしろ、自分を下に置いて、「相手から学ぶ」生き方を、心掛けたいものです。自分を下に置いておかないと、いつまた上から目線に戻ってしまうか、分からないのが私たちなのです。「共に生きる」は、「相手から学ぶ」に置き換えて使わなければならないと思わされます。「支える」には「私が支えてあげる」という気負いがあり、「寄り添う」は横からそっと手を差し伸べるイメージであるのと似ています。一人一人に対する伝道に際して心に留めたい大切なイメージだと思います。