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信じて祈ることの大切さ

「信じて祈ることの大切さ」

2020年12月27日

アメリカらしいジョークをご紹介します。ある町で一人の男が酒場の建設を計画しました。ところがその場所が教会の真向かいです。教会は反対運動を起こしましたが、男は無視して工事を進めました。教会員は「どうか酒場建築を止めさせて下さい」と熱心に祈りましたが酒場は完成してしまいました。ところが開店の前夜に、完成したばかりの酒場に雷が落ちて建物が燃えてしまったのです。酒場の主人は裁判を起こしました。「教会の祈りが雷を起こして8千万円の損害を出した」として損害賠償を求めたのです。裁判の場で教会側の弁護士は「とりなしの祈り」の成果についてはなんら現実的な根拠はない、というある大学教授の論文を提出して対抗しました。これは何とも皮肉な光景です。酒場の店主は「祈りは神の手を動かす」と主張して損害賠償を起こし、教会は「祈りは神を動かすことなどあり得ない」と反論しているかのように聞こえます。これは勿論ジョークですが考えさせられる話です。祈りという信仰上の霊的な事柄を、この世の事件を裁く裁判に持ち込むこと自体が間違っているのです。ともあれ、私たちは祈りに応えて下さる神様の御力を信じ抜く教会でありたいと思います。

「小さな声を感じ取る心」

2020年12月20日

前カンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズ師がこう語っています。「聖歌隊指揮者にとって最も大切な任務は、大声を出して歌う人や音を外している人に注意を与えることではない。その任務とは、声の出ていない人、聞き取れないほどの小さな声の人の存在を敏感に感じ取ることだ。そして『あなたの声が聴こえなければ、この聖歌隊は無い方が良いのです』と語りかけることなのだ。」私が洗礼を授けられた目黒の碑文谷教会の聖歌隊に一人の脳性麻痺の女性がいました。この人は上手く歌えません。音が取れないのです。そもそも言葉をきれいに発音することすらできません。ですから聖歌隊のハーモニーはめちゃくちゃになります。しかしこの方は、本当に嬉しそうに心から賛美します。その楽しそうに歌っている姿に皆が感動し、美しいハーモニー以上の尊いものをそこに見るのです。主イエスが、弱く小さな幼な子として飼い葉桶に生まれて下さったのは、聞き取れないような小さな声を聴くためです。めちゃくちゃなハーモニーに込められた心からの賛美を喜んで聴いて下さるためです。そのことを忘れて、表面的な美しさだけを求めていくならクリスマスは意味を失ってしまいます。

「ルターと疫病」

2020年12月13日

ルターが宗教改革を進めていた16世紀にヨーロッパにペストが大流行しました。治療薬がなかったこの時代には、地域を閉鎖して一切の交通手段を断つか、住民が疎開する以外には方法がありませんでした。当時ルターは重い病気から回復した直後であり、妻のカテリーナは二番目の子の出産を控えていたので、友人たちはしきりに疎開を勧めました。しかしルターは教会のことを思って留まりました。その時ルターは手紙の中でこう言っています。「求められているのは信仰というより愛なのである。隣にいる人が困っていたらそこに行ってお祈りをすることである」。また、その手紙の中でルターは、「薬を飲みなさい。助けになることは何でもしなさい。家や通りを消毒しなさい。必要もないのに人に会ったり、不必要な場所に出入りすることはやめなさい」とも書いています。ルターは、今の時代にも通じる言葉を500年も前に書いていたのです。ローマでキリスト教が爆発的に広がっていったのは、人々が疫病を恐れて避難する中、クリスチャンたちが病気の人たちを看護したことに始まったそうです。今、感染を防止しつつどのような愛の業が可能なのか、祈りの中で尋ねていきたいと思います。

「泣くことのできる幸せ」

2020年12月6日

日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の機関誌にバングラディシュのマイメイシンという町のラルシュ共同体で働いている岩本直美看護師の報告が紹介されています。そこに書かれているのはサルマという女性の物語です。サルマは首都ダッカにある大きなゴミ捨て場に裸で捨てられていた女の子でした。彼女は知的障害を持っていました。ラルシュに引き取られたサルマは初めのうちはまるで動物のように人を警戒し逃げ回っていました。岩本さんたちラルシュのスタッフは何も話さないサルマの傍に忍耐強くずっと寄り添い続けました。サルマはゆっくりと少しずつ変わっていきました。そしてある日、テープレコーダーから流れる音楽を聞いていたサルマが突然大声で泣き出しました。初めて涙を流したのです。誰からも大切にされず路上で犬のように逃げ回って生きてきたサルマは、悲しいとはどういうことか分からないほど心が傷ついていたのです。岩本さんは「泣くことができるってどんなに幸せなことでしょう」と書いています。涙を受け止めてくれる人がいるから泣けるのです。主イエスは私たちの涙を受け止めてくださるお方です。「流れ星 神持ちたもう 涙壺」(武信正子)。主に感謝。