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主に接ぎ木されたお互いとして

「主に接ぎ木されたお互いとして」

2020年10月11日

今朝の説教で接ぎ木の話をさせていただきました。生まれながらの私たちは良い木ではありません。ですから主イエスという木に、接ぎ木されなければ良い実を結ぶことはできない、と語らせて頂きました。私たちが主イエスに接ぎ木される出来事。それが洗礼です。そこで、覚えておかなければいけないことがあります。それは自分の人生に、主イエスを接ぎ木したのではないということです。自分の願いが叶うように、自分の人生が祝福を受けるように、自分の幸せが実るように、自分の人生に主イエスを継ぎ足したのではないです。私たちが主イエスという樹に接ぎ木されたのです。接ぎ木された私たちは、それぞれの特性を持っています。しかしこれから先、その特性を生かしてくれるのは、主イエスという樹からいただく恵みの養分です。その特性が神に喜ばれる方向へと実をつけて行くことを私たちは願っています。それが信仰者の生き方です。教会に集う私たちの性格はそれぞれです。私たちの賜物も才能もそれぞれです。でも、私たち一人一人の内には、皆、同じように主イエスという樹の命が流れ込んでいるのです。教会はそのような共通の樹の命を土台とした者たちの群れなのです。