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大いなる「しかし」

「大いなる「しかし」」

2020年11月22日

榎本保郎牧師はこう言っています。「現実と神の言葉との間にはずれがある。だから私たちは、それら二つを『しかし』という言葉で埋める。その『しかし』には二つある。一つは、神が私を愛すると言われる。しかし、こんな暗い現実の中にあって、どうしてそれが信じられようかという『しかし』である。もう一つの『しかし』は大いなる『しかし』と呼ばれるもので、自分の現実は暗く悲しい、しかし神の言葉だから信じようという『しかし』である。人間の側に立って神の言葉を裁く『しかし』と、神の側に立って人間の現実を超えていく『しかし』である。そして、そのどちらの『しかし』に立つかが、私たちの信仰態度を決定するのであるが、聖書はいつも大いなる『しかし』に立って語っている」。聖書の『大いなるしかし』の中で最もよく知られているのはローマの信徒への手紙3章21節だと思います。新共同訳では「ところが今や」と訳されていますが原語では「しかし今や」となっています。律法によれば誰も義とされない。しかし今や、主イエスの十字架の贖いによって、誰もが無償で義とされると語っている箇所です。この『しかし』の故に私たちは救われているのです。感謝!