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愛に傲慢な人、謙遜な人

「愛に傲慢な人、謙遜な人」

2021年2月28日

アシュラムセンター主幹の榎本恵牧師が次のようなことを書いておられます。主イエスは、栄光の座につくとき、羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての人々を右と左に分けられる。そして右側にいる人々に「あなた方は私が困っている時に訪ねてくれて、助けてくれた」と言われる。また左側の人たちに「あなた方は訪ねてもくれず、助けてもくれなかった」と言われる。ところが右側の人々は「いつ私はそんなことをしたでしょうか」と答え、左側の人々は「いつ私はそんなことをしなかったでしょうか」と主張する。この譬え話の中の「いつしたでしょうか」と答えた人は、「私の愛には限りがある」と言う人で、彼は愛の前に謙遜なのだ。一方、「いつしなかったでしょうか」と主張する人は、「私の愛には限りがない」と自負する人で、彼は愛の前に傲慢なのだ。私たちは社会正義の実現と愛の実践に熱心になる余り、「いつしなかったでしょうか」と口答えする者になってはいないだろうか。「私の愛には限りがある。」それを悲しい気持ちで素直に認める時、私たちは暖かい場所を見つけるのではないだろうか。「いつそんなことをしたでしょうか」と驚き応える。そんな暖かい場所を。

「成功の定義と成し遂げる方法」

2021年2月21日

会社の面接試験では「あなたの成功を定義し、それを成し遂げる方法を述べてください」という質問がしばしば問われるそうです。その人の成功に対する動機付けを知れば、その人の心の芯の部分や価値観を知ることができるからだというのです。ではキリスト者にとっての成功の定義とは何でしょうか。色々な言い方ができると思いますが、私は「主の御心に適う生き方を生きる」ということではないかと思います。なぜ主の御心を大切にして生きることが、成功につながるのでしょうか。むしろ逆に、そのために損をすることの方が多いのではないでしょうか。ある人が「自分はキリスト者であるために損をしている。しかし、この損な生き方を大切にし、誇りに思っている」と言っています。確かに、キリスト者として生きることは、この世にあって損をすることが多いかもしれません。しかしまた、これほど得な生き方はありません。なにしろ、永遠の命の救いという、とてつもなく高価で尊い恵みを、ただで頂けるのですから。ですから、主の御心に適う生き方を生きる。これを成功の定義とし、それを成し遂げるために祈っていくことを第一とする生き方を、心掛けていきたいと思っています。

「棘のないサボテン」

2021年2月14日

19世紀のアメリカにルーサー・バーバンクという植物育種家がいました。彼は棘のないサボテンを作ったことで有名です。アメリカの砂漠にあるサボテンは大きくて荒々しい棘を持っています。バーバンクはこのサボテンに水や栄養を十分与え、毎日声を掛けてかわいがりました。そうしていく内に荒々しい性格が変わり、遂に棘のないサボテンになったそうです。バーバンクは、植物たちにより良い姿に変わってほしいと願うときには、いつもひざまずいて植物たちに語りかけたそうです。棘のないサボテンを開発した時も、彼はいつもこう言ったそうです。「お前たちには恐れるものなど何もないんだよ。身を守る棘はいらないよ。私がお前たちを守ってあげるから」。彼は、愛と祈りが植物を変えると言っています。愛に囲まれているなら身を守る棘は必要ないのです。ですから次第にサボテンから棘が消えていったのです。彼は、植物ですら変わるのなら、より高い感受性を持っている人間が変わらない筈はないと言っています。神様は、いつも私たちに語り掛けています。「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」。この御声を聴き続けているなら、人間も必ず変わる筈です。

「嘆きを賛美に変えられる主」

2021年2月7日

ある政治学者が。コロナという危機の中で真のリーダーに通じるのは「弱さ」であると言っています。ドイツのメルケル首相がなぜ多くの共感と信頼を得たのか。それは「私も心配。私も弱い」という視点から、連帯を訴えたからだというのです。人は天災に遭うと、これは何かの警告ではないか、というような納得できる理由を探したくなります。しかし、ある聖書学者は、今、キリスト者に必要なことは、苦しむ世界と共に嘆くことだと言っています。聖書の奥義は、「神も嘆かれる」ということなのだ。神は人間の悲惨な状態を心から悲しまれた。その神が人となって来られて、私たちの間に宿られた。そして、愛する友ラザロの墓の前で涙を流された。パウロは、聖霊が「うめく」と語っている。主イエスの涙と、聖霊のうめきにおいて、神の嘆きは一つとなっている。こう言っているのです。しかし、神は嘆かれるだけで終わってしまわれるお方ではありません。涙の死が、喜びの復活につながったように、うめきが賛美に変えられたように、神は必ず今の暗闇の先に希望の光を用意されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ書11:1)」