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過去の礼拝説教

「主イエスの家族となる幸い」

2021年05月09日 聖書:マタイによる福音書 12:46~50

ある人が、世界に共通する最も平凡で、でも最も困難で、だからこそ、教会が最も真剣に取り組まなければならないのは、家族の問題だと言っています。
言うまでもなく、私たちにとって、家族は、最も近い隣人です。
その家族に対する、真実の愛を失っていることから、様々な問題が生じているというのです。
普段、私たちは、家族であることを、ごく自然のこととして捉えています。
親が子を愛することは自然のこと、子が親を愛することは自然のこと。そう思っているために、ちょっとした行き違いで、家族の間の愛が崩れてしまって、挫折することが多いのではないでしょうか。
しかし、実は、親として生きること、子として生きること、家族として生きることは、誰でもが、自然にできる、簡単なことではありません。
家族なのだから、親子なのだから、理解し合うのは当たり前、という訳ではありません。
むしろ親だからこそ、他の誰よりも、理解し合うことに、心を配らなくてれはならないのです。
真実な愛に生きる努力を、怠ってはならないのです。
親子だからこそ、兄弟だからこそ、夫婦だからこそ、家族という最も近い隣人を、自分を愛するように愛する努力を、常に心掛けることが、求められているのだと思います。
血の繋がりは大切です。しかし、血の繋がりを過信して、これがあるから大丈夫だと、安易に思い込んではいけないのです。
家族に対する愛を、真実に保ち続けるためには、一人一人が、先ず、真実の愛に満たされていることが必要です。神様の真実の愛の中に、いつも浸されていることが、必要なのです。
家族が、まことの家族であるためには、真実の愛であるお方の許に立ち続け、そのお方の慈しみの御翼に、いつも覆われていることが、求められているのだと思います。
今朝の御言葉で、主イエスは、そのような真実の愛によって繋がれた、新しい家族の姿を、示しておられます。
血筋によるのではなく、天の父に繋がる、新しい神の家族に加わるように、招かれています。
46節に、主イエスが、群衆に語っておられると、そこに、主イエスの母と兄弟たちが、話をするために、会いに来たと書かれています。
主イエスの母と兄弟たちのことは、この先の13章55節に書かれています。
そこには母マリア、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟の名前が紹介されています。
この母マリアと弟たちが、主イエスに会いに来たのです。ナザレからカファルナウムまで、わざわざやって来たのです。一体、何をしに来たのでしょうか。
マルコによる福音書には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」、と書かれています。
主イエスがなさっている、数々の奇跡や、福音宣教の御業を、主イエスの家族は、理解できなかったのです。きっと、気が変になってしまったのだ、と思ったのです。
家族の人たちは、自分たちは肉親だから、主イエスのことを、誰よりも良く知っている、と思っていました。
でも、身近な家族で、あればあるほど、ここで、主イエスが、なさっておられることや、語っておられることを、理解できなかったのです。
彼らが知っていたのは、我が子としての、主イエスでした。或いは、我が兄としての、主イエスでした。
ですから、自分たちの思いや、自分たちの手から、はみ出してしまった、救い主としての主イエスのお姿を、理解することができなかったのです。
主イエスが、来られたことによって、神の国がもう来ている、ということなど、考えも及ばないことだったのです。
ですから、主イエスの家族は、会堂の外に立って、主イエスを呼びに行かせたのです。
46節と47節に、「外に立って」という言葉が、続けて出てきています。
主イエスの母と弟たちは、外に立っていたのです。自分からは、中に入らなかったのです。
母であり、兄弟である私たちが、話したいと言っているのだから、主イエスが出てくるのは、当然のことだと考えていたのだと思います。
でも、ここで、会堂の「内と外」では、大きな違いがありました。
会堂の中では、主イエスの御業と御言葉によって、神の国が、もう始まっていたのです。
でも外にいる限り、たとえ肉親であっても、主イエスの恵みに、触れることはできません。
外にいる限り、神の国の現実に、触れることはできないのです。
主イエスは、当然出てくると思っている家族に対して、あなた方の方から、中に入ってきなさいと、招かれました。
「外にいては、神の支配に入ることはできないのです。どうか、中に入ってきてください」、と招かれたのです。
でも、家族の人たちは、入っていこうとしませんでした。自分たちが、中に入っていくのではなく、主イエスを、外に連れ出そうとしたのです。
これは、私たちにも覚えがあることかもしれません。
親が、我が子に会うために、子供たちが大勢集まっているところに行きます。
そこでは、子供たちが、楽しそうに、ワイワイ、ガヤガヤと盛り上がっています。そして、その中心に我が子がいます。
その時、その子供たちの輪の中に入って行って、仲間の中から、我が子を連れ出すことは、難しいと感じるのではないでしょうか。ですから、誰かに、呼び出して貰おうとするのです。
どうして、中に入れないのでしょうか。自分たちは、家族であっても、仲間ではないからです。
ですから、仲間の中に入ることができないのです。
この時、中にいる弟子たちは、主イエスを、「我が主」と呼んで、話を聞いていました。
そういう仲間たちの群れであったのです。
しかし、家族の人たちは、主イエスのことを、「我が子イエス」、「我が兄イエス」とは呼べましたが、「我が主イエス」とは呼べなかったのです。
主イエスのことを、「我が主イエス」と呼べなかったので、仲間として、中に入ることができなかったのです。
主イエスは、そのような家族を、決して退けていた訳ではありません。主イエスは、勿論、母マリアを愛しておられました。深い愛をもって、ご自分の母を、顧みておられました。
また、ご自分の兄弟たちをも、愛しておられました。
だからこそ、主イエスは、母マリアも、そして兄弟たちも、今、ここで、ご自分が造っておられる、新しい神の家族に、加わって欲しかったのです。
この世の血筋ではなく、天の血筋による家族の中に入ることを、切に求められたのです。
私を、身内として、誰よりも、身近に感じるのであれば、なぜ「私の外に」、立つのですか。
なぜ、中に入ろうとしないので、私を外に連れ出そうとするのですか。
中に入ろうとしない、家族の姿を見られて、主イエスは、深い悲しみを、覚えられたのではないかと思います。
入ってこようとしない家族を見つめつつ、主イエスは、驚くような言葉を語られました。
「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
何という冷たい言葉だと思われるでしょうか。もし、私たちが、自分の子供や兄弟から、このような言葉を投げ掛けられたら、立ち直れないほどの、ショックを覚えるかもしれません。
しかし、これは、家族を冷たく突き放す言葉ではありません。
主イエスの、心の底から出た、悲しみの叫びなのです。
主イエスは、家族の人たちに、言われています。どうして、あなた方は、この世の血筋に頼るだけで、天の血筋による、神の家族に繋がろうとしないのですか。
「我が子イエス」、「我が兄イエス」と言うだけで、それを超えて、「我が主イエス」と告白する、天の血筋に繋がる者とならないのですか。
是非、そうなって欲しい、と主イエスは、叫ばれているのです。
そして、本当に感謝なことに、神様は、この時、悲しみながら立ち去った、主イエスの家族を、救ってくださいました。
使徒言行録1章14節には、こう書かれています。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと、心を合わせて熱心に祈っていた。」
この御言葉は、主イエスが復活され、昇天された直後の、ある日の出来事を告げています。
ここにある「彼ら」と言うのは、弟子たちのことです。この日、主イエスの母マリアと、兄弟たちは、弟子たちと共に、熱心に祈っていたというのです。
かつて、弟子たちの輪の中に入れなくて、外に立っていた母と弟たちが、今や、弟子たちの中に入っているのです。中に入って、共に、主イエスを、「我が主」と、呼んでいるのです。
そして、他の弟子たちと一緒に、熱心に祈っているのです。
主イエスの家族も、弟子たちも、ここに来るまでに、大きな挫折を、味わった人たちでした。
でも神様は、これらの人たちを、救ってくださったのです。
それは、主イエスが、家族の人たちから、「我が子」、「我が兄」と呼ばれることを拒否されて、誰に対しても、たとえご自身の肉親に対しても、「我が主」であることを、貫かれたからです。
どこまでも、救い主としての使命を全うされ、十字架に命を献げて下さったからです。
その救い主イエス様を、「我が主」と呼ぶことのできる幸いを、心から感謝したいと思います。
主イエスは、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」、と言われました。
ここに、私の新しい家族がある、と宣言されたのです。新しい家族の誕生を、宣言されたのです。主イエスは、血の繋がりに拠らない、新しい神の家族を造られました。
皆さん、それは、実は、私たちのことなのです。教会に繋がる、私たち一人一人のことなのです。
主イエスは、今、この礼拝の場に臨んでおられます。そして、私たち一人一人を、指差して言われています。
「ここに、私の母がいる。ここに、私の兄弟がいる。ここに、私の姉妹がいる。」
そのように、主イエスは、呼んでくださっているのです。教会は、そういう神の家族なのです。
教会は、さまざまな言葉で、言い表されていますが、昔から言われているのが、この「神の家族」という言葉です。神のファミリーです。
「神の家族」という言葉を、ある人は、「主イエスの親戚」と、言い換えています。
キリスト者になる、ということは、主イエスの親戚に、なることだというのです。
私たちは、主イエスの親戚とされているのです。何という喜び、何という幸いでしょうか。
今は、いろいろなマスコミが発達していますから、身近な親戚が、一躍有名人になる、ということも、稀ではなくなってきました。
ですから、有名になった人がいると、「あれはうちの親戚だ」と、ちょっと自慢してみたくなる。
そんな思いがするのではないかと思います。
けれども、どんな人にもまさる、偉大なお方を、私たちは、親戚として持っているのです。
私たちの親戚の中の筆頭に、主イエスがいてくださるのです。
教会で、信仰を分かち合って生きる、ということは、そういうことなのです。
主イエスは、更に言われました。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
この主イエスの御言葉は、誤解されやすい言葉です。
天の父の御心を行う。それは、完璧な信仰者になることだ、と捉えられ易い言葉だからです。
もし、そうであるなら、誰も、神の家族となることはできません。
私たちは、神様の御心を行うどころか、御心を悲しませてばかり、している者です
でも、そんな私たちに対する、主イエスの愛は、変わらないのです。
主イエスは、そのような私たちを、神の家族として、最後まで、愛し抜いてくださいます。
そして、そういう私たちを赦すために、十字架に上られたのです。
私たちを、神の家族として迎え入れるために、その尊い命を、献げて下さったのです。
なぜ、そこまでされたのでしょうか。それが、父なる神様の、御心であったからです。
父なる神様の御心とは、主イエスの十字架によって、私たちの罪を赦し、私たちを神の家族としてくださることであったのです。
主イエスは、ゲツセマネにおける激しい祈りの戦いを通して、その父なる神様の御心を、改めて確認されました。そして、敢然として、十字架に上って行かれたのです。
それによって、私たちのような者さえも、神様を、「天の父」と呼ぶことが、できるようになったのです。
父なる神様の御心。それは、私たちが、この十字架の救いを受け入れて、神様を、「天の父」と呼ぶ者となることです。神様は、何よりも、それを願っておられるのです。
神様は、「私を、あなた方の天の父としてもらいたい」、と願っておられるのです。
そのために、私は、最愛の独り子を、あの苦しい十字架につけたのだ。
だから、私を、天の父と呼んでもらいたい、と言っておられるのです。
私たちが、そのことを、感謝して受け入れ、神様を、「天の父」と呼んで、喜んで生きていくなら、神様にとって、これ以上嬉しいことはないのです。
私たちが、神様のことを、「天の父」と呼んで、感謝して行うなら、どんな小さなことでも、神様は喜んでくださいます。天の父の御心を行うとは、そういうことなのです。
私たちは、主イエスの十字架によって罪赦されて、初めて、神様を「天の父」と呼ぶことができます。その時、初めて、御心に生きることができるのです。
主イエスが、十字架において、私たちに代わって死なれるということは、激しい痛みの伴う、神様の大いなる決断でした。
神様は、背き続ける、私たちの現実を知りつつも、救いの御計画を、成し遂げられたのです。
ですから、父なる神様の御心を行うとは、父なる神様の御心の結晶である、主イエスの十字架を、受け入れることです。
そして、十字架の救いに、与ることです。主イエスの弟子になるということです。
教会は、この父の御心を行うことにおいて、一つの家族になるのです。
その御心を、第一にして生きる者の群れが、教会という新しい神の家族なのです。
この家族に入れられている幸いを、心から感謝したいと思います。