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「主から与えられるものとは」

2021年11月28日 聖書:マタイによる福音書 19:23~30

先週ご一緒に聴きました御言葉には、主イエスと金持ちの青年の会話が記されていました。
一人の青年が、主イエスに近寄ってきて、「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいでしょうか」、と尋ねました。
主イエスは、この人に対して、命を得たいのなら、掟を守りなさい、と答えられました。
するとこの人は誇らしげに、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているものがあるでしょうか」、と更に尋ねました。
これに対して、主イエスは、大変厳しいお言葉を返されました。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。
このお言葉を聞いて、この人は悲しみながら、立ち去りました。
永遠の命を得るためなら、何でもしようと思っていたのです。何でもできると思っていたのです。
でも、主イエスから、そのためには財産を捨てなさいと言われて、自分にはそれが出来ないことを、初めて知らされました。
主イエスは、立ち去って行く青年をご覧になりながら、「金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」、と仰いました。
このお言葉をきいて、弟子たちは非常に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」、と互いに言い合いました。
この「非常に驚いて」という言葉は、「びっくり仰天して」というような、とても強い言葉です。
でも、どうして、そんなに驚いたのでしょうか。
弟子たちは、全てを捨てて、主イエスに従って来ました。
ですから、あの青年とは違って、自分たちは大丈夫だ、と思ったとしてもおかしくない筈です。
むしろ「イエス様、よくぞ仰ってくださった」と、我が意を得た思いになっても良かった筈です。
ところが実は、そうではなかったのです。びっくり仰天して、「金持ちが、神の国に入れないなら、一体誰が入れるのだろうか」。
そう言って不安に駆られたのです。
何故、弟子たちは、驚いたり、不安に駆られたりしたのでしょうか。
それは、この当時、こういう考え方があったからです。
金持ちであるというのは、神様の祝福を受けている、ということだ。
長生きをして、子供にも恵まれ、財産も豊かであるということは、神様から祝福されている徴だ。
そして、地上でそのように祝福されている者は、天の祝福も豊かに与えられるに違いない。
そう考えられていたのです。
ですから、あれほど地上で神様に神様に祝福されている人が、神の国に入れないとしたら、一体誰が入れるのだろうか。自分は入れるのだろうか。
弟子たちはそう思って、不安になったのです。
あの人が駄目なら、自分たちも救われないに違いない。そう思ったのです。
主イエスは、そんな弟子たちを、慈しみの眼差しを持って、じーと見つめられました。
主イエスは、弟子たちの不安を、しっかりと受け止めてくださったのです。
一体誰が救われるのだろうか。あなたがたは、そのことを思って不安になっているのだね。
そのような憐みの眼差しで、弟子たちを見つめられました。そして、続けてこう仰いました。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。
この言葉を直訳すると、「それは人間に関して言えば不可能なことだ。しかし、神に関して言えば、全てが可能だ」、となります。
これは、採り様によっては、当たり前のことである、とも言えます。
人間に出来ないことも、神にはできる。そんなこと当り前だ。神が全能だというのは、そういうことではないか。
そんなこと位、私たちでも分かっている。そのように思われる方もいるかもしれません。
しかし、この主イエスのお言葉は、そういう常識的なことを、言っているのではありません。
もっと深い意味を、持っているのです。
確かに、神様は全能のお方です。何でもお出来になられるお方です。
でも、その何でもお出来になられるお方が、どんなことをしてでも、人間を救いたい、と思われたら、一体何が起こるでしょうか。
どんなことをしてでも、人間を罪から救いたい。
全能の神様が、それだけの決意をされて、人間を救おうとされたら、一体何が起こるのか。
あの富める青年のように、私たちが、自分の善い行いによって、救いに与ることは、らくだが針の穴を通るように、不可能なのです。
神様が、その全能の御力を用いられる時にのみ、それが初めて可能となるのです。
では神様は、どのようにして、その全能の御力を使われたのでしょうか。
十字架において、最愛の独り子の命を犠牲にすることによって、不可能を可能とされたのです。それしか、人間を救う道はなかったのです。
背き続ける者のために、最愛の独り子の命をささげる。そんなことは、全能のお方でなければ、決してできません
「人間にできることではないが、神は何でもできる」。
この御言葉は、主イエスの十字架によって実現する、救いの御業のことを言っているのです。
間違えてはいけないのは、人間の力だけでは、救いを得るのに不十分だから、足りない所を、神様の力によって補ってもらう、ということではない、ということです。
神様は、人間の力の、足りないところを、補ってくださる存在ではありません。
神様は、人間にはできない救いを、ただ恵みによって、成し遂げて下さるお方なのです。
ですから、神様の救いに与るためには、自分の正しさや立派さに、しがみついている手を離して、神様の恵みに、身を委ねることが必要なのです。
その時、そこに、神様の全能の御力による、救いの道が開かれて行くのです。
この主イエスの御言葉を聴いて、ペトロがこう言いました。
「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。
財産を捨てられずに、悲しみながら立ち去った青年と比べて、自分たちは何もかも捨てて、あなたに従いました、と言ったのです。
そういう思いをもって、「私たちは、何を頂けるでしょうか」、とペトロは尋ねました。
私たちは、すべてを捨てて、あなたに従ってきた。だから、あなたから、何か頂けるものがある筈だ。それなら、「何が頂けるのでしょうか」、と尋ねたのです。
でも、この問いは間違いです。明らかに、主イエスのお言葉を、受け損ねています。
主イエスは、人間には出来ない、と仰ったのです。出来ると思っていることが間違いだ、と仰ったのです。
それなのに、ペトロは、「私たちはやりました」、と逆のことを言っているのです。
主イエスが、「これは神にしか出来ないことなのだ」、と言われたことに対して、「違います、人間にも出来るのです。私たちはやりました」、と言っているのです。
恐らく、こんなことを言ってしまったことを、ペトロは後になって、深く後悔したと思います。
何故かと言いますと、ここで、自分たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました、と言ったにも拘らず、この後直ぐ、ペトロは、主イエスを見捨てて、逃げてしまったからです。
従い切ることが、できなかったのです。
主イエスは、この時既に、そうなることを存知でした。
それにも拘らず、主イエスは、「すべてを捨ててあなたに従ってまいりました」、というペトロの言葉を、否定されておられません。
その言葉を、そのまま受け止めておられます。「そうだね」と仰っています。あなた方は私に従って来た、そして、これからもそうだ。
「誰でも、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」、と仰ったのです。
これはどういう意味でしょうか。
この時、主イエスは、目の前のペトロだけを、見ておられたのではありません。
ずっと先の先までの、ペトロの姿を見ておられたのです。
復活の主イエスに出遭って、全く造り変えられ、殉教をも恐れなくなるペトロを、見つめておられたのです。
ペトロ自身は、この時は未だ分かっていません。自分は、あの青年とは違うと思っています。
自分はすべてを捨てて、主イエスに従って来た。そして、これからも、ずっと従い通せると思っているのです。
でも、そのペトロは、やがて自分の現実を、思い知らされることになります。
従い通せる、と思っていたことが、どんなに甘い見通しであったかということを、骨身に沁みて分かる時が来るのです。
あの青年は、永遠の命を得るためだったら、どんなことでもします、と胸を張った。
けれども、すべてを捨てて従いなさいと言われて、悲しみながら立ち去った。
その同じ思いを、その同じ悲しみを、ペトロ自身が味わう時が来るのです。
ペトロにも、そういう時が来るということを、主イエスはご存知でした。
しかし、主イエスは、そんなペトロを、尚も捕らえて離しませんでした。
ご自分を見捨てて、逃げて行った弟子たちを、主イエスは、捕らえて離しませんでした。
だからペトロは、主イエスの許に留まり続けることが出来たのです。
そして、最後は、主イエスに従って、殉教の死を遂げるに至ったのです。
ペトロは、逆さ十字架に付けられて、殉教したと伝えられています。
その殉教の死の時に、ペトロは、「私は、あなたのために、こうして命を捨てました。さぁ、あなたは私に何をくださいますか」などという、傲慢な問いは尋ねなかったと思います。
「私はこんなに大きな恵みを頂いています。こんなに大きな恵みに生かされています。
この貧しい命をもってしても、その恵みにお応えすることは出来ません」。
恐らく、そう言いつつ、天に帰ったと思います。
主イエスは、この時、そのようなペトロの、生涯全体を見ておられたのだと思います。
ずっと先までも、見つめておられたのだと思います。
そして、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました、という言葉を、最終的には、そうなる言葉として、受け止めてくださったのだと思います。
主イエスは仰いました。「だれでも、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。
恐らく、ペトロを始め、初代教会の人たちの中には、この言葉を、その通りに経験した人が、大勢いたと思います。
迫害の中で、信仰を保っていくために、こういうものを、全部捨てなければならなかった人たちが、実際にいたと思います。
そういうものを、全部捨てて、主イエスに従う決心をして、教会に繋がった人たちがいた。
でも、その人たちは、教会の中で、それらを取り戻したのです。
家を捨てた自分を迎えてくれる、神の家があった。家族を捨てた自分に、新しい神の家族が与えられた。
主の食卓を共にし、必要なものを分かち合う家族が与えられた。
そして、何よりも、永遠の命という、救いの恵み、かけがえのない宝を頂いた。
それは、自分が捨てたものの、何倍もの価値があった。
心から、そう思った人たちがいたと思います。
ペトロを始め、初代教会の人たちは、そういう恵みの経験を、共有したのだと思います。
確かに、教会において、私たちは、新しい家を与えられ、新しい家族を与えられます。
ただ、この御言葉は、そのことだけを、言っているのではないと思います。
私たちが、信仰を持った時、つまり、神様を第一とする生活を始めた時、それまで第一であった、家や家族はどうなるのでしょうか。第二、第三になるのです。
では、それは、家や家族を、今までより軽んじ、今までより愛さなくなる、ということなのでしょうか。全く違います。その逆なのです。
ナルニア国物語の著者のC.S.ルイスという人が、こういうことを言っています。
「もし私が、この世で一番愛するものよりも神を愛するようになったら、この世で一番愛するものを、今よりももっとよく愛せるようになるでしょう。…
第一のものを第一にする時、第二のものは抑えつけられるのではなく、むしろ、さらに拡がっていくのです。」
神様を第一とする生き方を始めた時、それまで第一としていたものに対する愛は、更に深まり、更に拡がっていくのだ、とC.S.ルイスは言っています。
私たちが、救われて、神様を第一とする時、私たちは、今までよりも、もっと深い愛をもって、家族を愛することが、出来るようになる。そのことを、発見するのです。
偶然出会って、自分で選んで結婚したと思っていた夫や妻が、実は神様が、私の生まれる前から、最良のパートナーとして選んでくださって、与えてくださった人であった。
そのことを知った時、私たちの愛は、どんなものにも、揺らぐことのないものへと、深められていくのです。
神様を第一とする時、私たちは、今までより、何倍も深く、家族を愛することができる者とされます。
29節の御言葉は、そのことをも語っているのではないでしょうか。
今朝の箇所の最後で、主イエスはこう言われています。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
ここで、主イエスが言われている、先にいる者とは誰でしょうか。
誰よりも、主イエスご自身ではないでしょうか。主イエスこそ、先頭に立つべきお方です。
しかし、先頭に立つべき主イエスが、一番後の者になってくださいました。
一番高い所におられるべきお方が、一番低い所に降りて来てくださいました。
そして、十字架の上で、命を投げ出してくださいました。
その結果、一番後ろにいた者が、先頭に立つようになったのです。
では、その一番後ろの者とは誰でしょうか。それは、私たちではないでしょうか。
天国から、一番遠い所にいた私たちが、先頭に立つようになった。
なぜなら、自分の前にいた人たちが皆、後ろに行ってしまったからです。
ですから、私たちのような者が、天国に入れるようになったのです。
らくだが針の穴を通るよりも難しいと思っていた私たちが、天国に入れるようになったのです。何と感謝なことでしょう。
ここで私たちは、悲しみながら立ち去った青年のことを、もう一度見つめたいと思います。
悲しみながら立ち去ったこの青年は、この後、どうなったでしょうか。
悲しみながら、という言葉から、私たちは第二コリント7章10節の御言葉に導かれます。
そこにはこう書かれています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせます」。
もし、この青年の悲しみが、神様の御心に適ったものであったなら、この人は、この後、悔い改めに導かれた筈です。
そして、自分の善い行いではなく、十字架の恵みによる、取り消されることのない救いに、導かれたのではないでしょうか。
ですから私は、この人も、弟子たちと同じ恵みを、受けることが出来たのではないか、という思いに導かれています。
なぜなら、後の者が先になると、主イエスが仰っておられるからです。
自分は神の国から、一番遠い所にいると思って、悲しみながら立ち去っていったこの人。
自分は、一番後ろにいる、と思っていたこの人こそが、先頭の者になるのだ、と主イエスは仰っているのではないでしょうか。
ですから、私たちは、この人についても、希望を持つことが出来ます。
そして私たちもまた、この人と同じように、希望に生きることが、許されているのだと思います。
教会の片隅で、語り伝えられている、ある伝説によれば、この人は、イスカリオテのユダに代わって、十二使徒に加えられたマティアではないか、と囁かれています。
この伝説の信憑性は、極めて疑わしいとされています。
恐らく、この人に同情する人たちが、後になって作り出した話であろうと思います。
しかし、私は、この伝説に心惹かれます。
神様に従えない自分を悲しみ、自分の弱さをよく知っている人。そういう人を、神様は、決して見捨てられることはない、と信じるからです。
そのことを知った時、私たちは、希望を持つことが出来ます。
ですから、私たちは立ち去りません。主イエスの許に留まるのです。望みがあるからです。
神様が、必ず私たちを、救われるに相応しい者に、してくださるという望みです。
それは、私たち人間には不可能です。でも神様はお出来になります。
そこに私たちの希望があります。