「交励の恵み」
2013年09月08日 聖書:イザヤ書 46章1節~13節
今朝は、80歳以上の方々を覚えて、ファミリー礼拝を献げています。
信仰の先輩方が、これまで歩んでこられた、信仰の歩みに思いを馳せて、共にその恵みを分かち合い、先輩方をここまで守り、支えてくださった神様に感謝する時を、持たせていただいています。後ほど、お祝いの対象となる方々をご紹介し、祝福のお祈りを献げさせて頂きたいと思っています。
103歳の祝福に与っておられる中村正義さんを筆頭に、次に100歳の武信正子さん、更に98歳の柘植幸子さん、97歳の佐渡山正子さん、96歳の三橋フミ子さんと続いておられます。本当に素晴らしいですね。私など、「もう歳だから」なんて、とても言えなくなります。
今朝お祝いする信仰の先輩方すべてが、茅ケ崎恵泉教会の宝です。
教会の豊かさとは、財政的に恵まれていることではありません。また、立派な会堂があることでも、立派なパイプオルガンがあることでもありません。
教会の豊かさとは、その教会に、主のまことの証人がどれだけいるか、ということによって計られるものだと思います。
そうであるなら、こんなに素晴らしい先輩方に恵まれている茅ケ崎恵泉教会は、大変豊かな教会である、と言えるのでないでしょうか。
教会はキリストの体です。教会は主のものです。
ですから、先輩の皆様方が、茅ケ崎恵泉教会の宝である、という事は、とりもなおさず、皆様方がキリストの宝、神様の宝である、という事です。
旧約聖書の申命記で、神様はイスラエルの民を、ご自身の宝の民であると言われています。しかも、それは、イスラエルの民が、立派であったからではなく、ただ神様が、イスラエルを愛したが故に、その一方的な愛の故に、宝の民とされたと言っているのです。
神様に背いてばかりいたイスラエルの民でさえ、宝とされているのです。
そうであれば、これまで忠実に信仰の旅路を歩まれてきた先輩方は、間違いなく神様のかけがえのない宝です。
さて、神様は、イスラエルの民を、ご自身の宝とされましたが、宝とされたイスラエルの民と、神様との関係は、一体どのようなものであったのでしょうか。
先ほど、読んでいただきましたイザヤ書46章から、その中でも特に、1節から4節を中心に、御一緒に聴いてまいりたいと思います。
このイザヤ書46章には、バビロン捕囚から解放された直後のイスラエルの民に対して、神様が一人の預言者を通して語られた御言葉が記されています。
強大な軍事力を誇ったバビロニアも、やがて新しく興ったペルシアによって滅ぼされてしまい、イスラエルの民はようやく捕囚から解放されました。
しかし、捕囚から開放されたからといって、イスラエルの人々は、直ぐにバラ色の生活に戻れたわけではありません。イスラエルの人々の苦難は、なおも続いたのです。
ですから、この言葉が語られた時代というのは、イスラエルの栄光の時代ではありません。
そうではなくて、悩みと苦しみの時代なのです。
遠い異国の地に連れて来られ、そこで悩みと苦しみの日々を送っているイスラエルの民に対して語られた言葉なのです。
第二イザヤと呼ばれる、この無名の預言者の素晴らしさは、彼が、このような苦難の中にあっても、強い意志をもって民を指導した、ということではありません。
そうではなくて、この預言者の偉大さは、民族の挫折と破れの中にあっても、なお共にいてくださる主を、信じ抜いていったところにあります。
民族が栄えていて、その栄光の中で、神様が共にいることを信じるということは、難しいことではないかもしれません。
しかし、民族の苦難の中で、その挫折と屈辱の中で、なおも共にいます神を信じ抜いていくことは、決してたやすいことではありません。
しかし、私たちが、本当に神様の愛の深みに触れるのは、このような苦難の中にある時ではないでしょうか。苦難の中にあっても、なお私を背負い続けていてくださる神様。
私の挫折を、私の屈辱を、私の悲しみを、黙々と背負ってくださる主に、出会った時ではないでしょうか。この預言者は、まさしく、そのような苦難の中で、主に出会ったのです。
主の、限りなく大きな愛に、出会ったのです。
そして、バビロンの人々が礼拝している偶像の神々と、まことの主なる神様とが、どんなに違うかを、深く思わされたのです。
今日の箇所の冒頭の46章1節に、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」、と書かれています。ベルとかネボというのは、バビロンの代表的な偶像の神々です。
これらの神々は、本来は、守護神として、町や人々を守るために存在している筈でした。
しかし、バビロンの町が滅びようとしている時、人々は逆に、これらの偶像を背負って、逃げ回らなければなりませんでした。
自分たちを守ってくれる筈の神が、自分たちの重荷となって、のしかかってきたのです。
彼らは、その重荷に耐えることができずに、家畜や獣に、その偶像を負わせました。
それを負わされた動物たちも、やがて疲れ果てて、偶像と共にかがみ込み、倒れ伏してしまいます。ベルやネボに代表される偶像の神々は、人々を背負い、救い出すどころか、人々の重荷となってしまったのです。
それらは、人々が背負って、運ばなければ、どこにも行くことが出来ず、人々が起こしてくれなければ、倒れたままでいるのです。そんな神々が、人を救える筈がないではないか。
預言者は声を大きくして、そのことを伝えています。
続いて、この預言者がどうしても伝えたかったことが、3節後半から4節で語られています。
「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」。
主なる神様は、ベルやネボのような偶像とは全く違って、その民に担がれるのではなく、ご自分の民を担ってくださるお方なのだ。
しかも、それは、あなたたちが、生まれた時から、ずっと続いているのだ。あなたたちが、気づこうと、気づくまいと、そんなことにはお構いなしに、ずっと担ってきてくださってきた。
主なる神様とは、そういうお方なのだ。預言者は、このように語りかけています。
更に、4節です。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
神様が、担ってくださるのは、生まれた時から、現在まで、そして、更に、年老いる日まで、白髪になるまで、絶えることなく続くのだ、と御言葉は語っています。
個人的なこだわりで、敢えて言わせていただければ、この「白髪になるまで」という言葉には、白髪にならずに、毛が抜けてしまった人も、当然含まれています。
人間は、赤ん坊の時には、母親に抱かれていますが、成長すれば一人歩きするようになります。しかし、神様との関係においては、人間は、年老いるまで、白髪になるまで、神様に運ばれていくのです。いえ、もっと正確に言えば、神様が運んでくださるのです。
それでは、そのようにして、背負われる私たち人間とは、一体どのような者なのでしょうか。3節の「胎を出た時から」という言葉に注目してください。この言葉は、原語では、ただ「胎から」としか書かれていません。「胎」という名詞に、前置詞の「~から」がくっついただけです。
私たちは、生まれる前から、つまり「胎から」担われてきたのです。
この同じ「胎から」、という言葉が、イザヤ書の48章8節にも出てきます。2ページほど、ページを先にめくっていただけると出てきます。イザヤ書48章8節は、こう語っています。
「お前は聞いたこともなく、知ってもおらず/耳も開かれたことはなかった。お前は裏切りを重ねる者/生まれたときから背く者と呼ばれていることを/わたしは知っていたから」
ここで、「生まれたときから」と訳された言葉。これも、元の言葉では、「胎から」です。
神様は、私たちを「胎から」担ってきてくださいました。しかし、そうやって担われてきた私たちは、実は、「胎から」背く者である、というのです。
「胎から」裏切りを重ねる者である、と御言葉は言っています。
46章でも、同じことが語られています。5節から7節には、神様から与えられた大切な金や銀を注ぎだして、偶像を作ろうとするイスラエルの人々のことが語られています。
自分では動くこともできず、まして民を救いだすことなど到底できない偶像を、イスラエルの民は作っている。
しかし、神様はそのような民を嘆きつつも、なおも背負い続けると言われるのです。
また、8節では、「背く者よ、反省せよ」、と戒められています。
更に12節でも、「わたしに聞け、心のかたくなな者よ」、と呼び掛けられています。
わたしたち人間は、「胎から」背き続け、裏切り続け、心をかたくなにしてきました。
その人間を、いえ、そのような私を、神様は、「胎から」ずっと担い続け、背負い続けてくださってきたのです。
私たちは、成長すると、かつて母親の背に背負われていたことを、忘れてしまいます。
そのように、神様にずっと背負われ続けていることも、忘れてしまうことが多い私たちです。
新共同訳聖書では3回しか訳されていませんが、原語では、46章の4節だけで、神様を示す「わたし」という代名詞が、5回も繰り返して使われています。
背き続ける私たちを救い出すために、額に汗して、私たちを背負い続けてくださる、神様のお姿が、強調されているのです。
かつて東京神学大学の学長をされていた左近淑先生は、4節を次のように訳しています。
「君たちが、年をとっても、わたしは、いつも同じわたし/君たちが白髪の老人となっても、わたしは背負い続ける/わたしが事をはじめた以上、わたしが負う/わたしが背負って、救い出す」。
主は、「私は、いつも同じ私だ」と言われています。しかし、私たち人間は、そうではありません。私たちは、移り変わりやすい者です。困難に出会うと、すぐに右往左往します。
神様は、そのような私たちを、母の胎にいる時から、変わることなく支え、背負い続けてくださっているのです。
この「背負う」という言葉を味わっていた時に、心に浮かんだ詩があります。
皆様も良く御存知の、「あしあと、 Footprints」という詩です。
週報の裏表紙にも記してありますので、ご参照ください。詩を、朗読させていただきます。
「あしあと」
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
わたしはとまどい、主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」 何度読んでも、新たな感動を覚える詩です。
私は、今朝のイザヤ書の御言葉を黙想していた時、「もしこの預言者がこの詩を読んだなら、きっと、こう書き換えるのではないかな」と、ふと思いました。
彼はきっと、こう言うのではないかと思うのです。
神様は、「胎から」ずっと担い続け、負い続けて下さってきたのだ。
だから、あしあとは、二つではなく、初めからずっと一つの筈だ。
一つのあしあとが、ずっと砂浜に続いていた筈だ。
しかし、最も苦しかった時に、その一つのあしあとさえも、消えて無くなっていた。
「主よ、なぜですか?」と尋ねる私に、主は答えてくださった。
「私の愛する子よ、その時は、激しい荒波が押し寄せていて、私はその荒波に、腰までつかりながら、あなたを背負っていたのだ。だから、あしあとは残っていないのだよ。」
人生の激しい荒波の時にも、決して見捨てず、いや、そのような時にこそ、しっかりと背負ってくださる主と、共に歩んで来られた信仰の先輩方。
主は、皆様方に、「よく一緒に歩いて来てくれたね」、とねぎらいの言葉をかけてくださっておられると信じます。
いや、今朝の御言葉に従うなら、「よく、私の背に負われ続けてくれたね」、と褒めてくださっておられると思います。
母親は、赤ちゃんが、おとなしく背負われていると、「いい子だったね」と言って褒めます。
主も、皆様方を、そのように褒めてくださっておられるに、違いありません。
しかし、主は、褒めておられますが、また同時に、皆様方に、なおも期待を持っておられるのではないか、とも思うのです。
詩編71編18節にも、白髪が出てきます。 旧約聖書の1046ページ或いは905ページをお開きください。17節から読ませていただきます。
「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください」。 この詩人は、ただ一つのことを願っています。
それは、主の御業を語り伝えることを、これからも続けさせていただきたい、という事です。老いて白髪になっても、信仰を持ち続け、その信仰を、来るべき世代に語り伝えさせてください、と祈っているのです。
先輩の皆様方の生きておられるお姿、そのものが、若い世代に力を与えます。
皆様方の存在そのものに、そういう力があるのです。
始めに、皆様方は、茅ケ崎恵泉教会の宝だと、申し上げました。
なぜなら、皆様方のお姿に、神様の祝福が豊かに現れているからです。
主は、その宝を、しまっておかずに、見せなさいといっておられるのです。
私があなたに与えた祝福を、皆の前で輝かしなさい、と言っておられるのです。
信仰を語り伝えるというような、大げさなことでなくても、良いのです。
次の世代のために、祈っていただきたいのです。
若い人たちに、一言語り掛けていただきたいのです。
語り掛けられることが出来なければ、微笑んでいただきたいのです。
先輩の皆様方のお祈り、皆様方の一言、皆様方の微笑み、皆様方の存在そのものが、若い世代に、どれほどの励ましになるか分かりません。
「私はもう歳だから、何も出来ません」など言わないでください。
以前の口語訳聖書の伝道の書、今のコヘレトの言葉の12章1節は、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」、と語っています。
これは、若い日に主を覚えたから、今はもういいのだ、ということではありません。
今は、もう若くないから、自分には関係ない御言葉だ、という事ではありません。
どんな人も、今日の自分は、明日の自分よりも若いのです。
これから先の人生を考える時、今の自分は、一番若いのです。
スコットランドの西の沖に浮かぶ小さな島、アイオナ島。そこにある聖堂の入口にこういう言葉が掲げられています。
『今日という日は、あなたの残された人生の第一日目である』。
その通りなのです。これからの人生における最初の日が今日なのです。
どうか、これからも、まだまだ「お若い教会の宝」として、ますます輝き続けてください。
「胎を出た時から」背負ってくださっている主は、今も変わらない力強い御手で、支えてくださっています。
私たちを、背負ってくださる主は、年老いて、弱ることはありません。いつも同じです。
その主に、背負われ、担われている恵みを、ご一緒に喜び、ご一緒に伝えてまいりましょう。
最後に、もう一度、主の御言葉を聴きましょう。
「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。