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柏牧師:過去の礼拝説教

「信頼して神を待つ」

2013年11月17日 聖書:詩編 62:1~9

芥川龍之介は、「我々の運命を司るものは、遺伝、環境、偶然、この三つである」、という有名な言葉を残しました。

私たちの運命は、自分の意志や努力で決まるのではなく、もって生まれた遺伝や、外部の環境、そして思いがけない偶発的な出来事によって、決定されるというのです。

この言葉を聞いて暗い気持ちになったある大学生が、「所詮すべては運命によって決まってしまうなら、一体何のために生きているのか」、と呟いたそうです。

このような呟きから生じるのは、悲観的な運命論です。

そして、それは、東洋的な諦めの思想へと繋がっていきます。どうせ何をしても、所詮は運命によって決まっているんだから、諦めるしかない、という考え方です。

また、一方では、運命によってすべてが決まるのなら、自分の運命を知っていないと不安だ、ということで、相変わらず占いが盛んです。

21世紀の現代に至っても、昔ながらの占いに頼ろうとする人は後を絶ちません。

人々を引き付ける新興宗教の多くが、多少なりともそのような占いの要素を持っています。

先祖を敬わないと、きっと不幸が訪れる。だから、今の内に、これこれのことをしなさい。

そのように、恰も運命を先読みするかのように語って、その人の不安を煽り、恐ろしい運命を変えるために、何がしかの行いをするように勧める。

多くの新興宗教は、そのように人々の運命に対する不安に漬け込み、恐怖心で人々を縛り付けようとします。

しかし、運命に過度に頼るのも、またその逆に、すべて運命だと諦めてしまうのも、いずれも消極的な生き方であると言えます。

大切なことは、自分の運命がどうであるか、ではありません。

運命という言葉が古めかしく感じられるなら、ここでは運命という言葉を、将来という言葉に置き換えても良いと思います。将来というのは、未来とは違います。

未来とは、漠然とした不確かなものです。しかし、将来というのは、その字が示す通り、「将に来たらんとする」ものです。自分の身に、必ず実現することがらです。

大切なことは、その自分の将来がどうなるか、ではありません。

そうではなくて、その将来に向かって、どう生きるか、ということなのです。

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「人はその運命を選ぶことは出来ないが、その人生を選ぶことは出来る」、と言っています。

素晴らしい言葉だと思います。私たちが、長く心に留めておくべき言葉だと思います。

「人はその運命を選ぶことは出来ないが、その人生を選ぶことは出来る」。 そして、その人生は、何を基盤として生きるか、何に信頼を置いて生きるか、によって決定されます。

先程読んで頂きました詩編62編の御言葉は、困難に満ちた現実の中にあっても、神様に絶対の信頼を置いている、一人の詩人の確かな信仰を歌い上げています。

詩編の中には、神様に対する純粋な信頼を詠った詩が多くありますが、この詩はそれらの中でも、最も美しいものの一つとされています。

1節で、この詩の説明がされています。『指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩』とあります。

「エドトン」というのは、もともとは神殿の聖歌隊の創始者の名前でした。しかし後に、この名前が、聖歌隊自体を言い表す言葉になりました。

ですから、この詩は、神殿の聖歌隊の調べに合わせて、歌われた賛歌なのです。

「ダビデの詩」と訳されていますが、この言葉は、「ダビデ自身が歌った詩」とも訳せますし、「ダビデのための詩」、或いは「ダビデを想っての詩」、とも訳すことができます。

もし、作者がダビデ自身であるのなら、ダビデがサウル王によって命を狙われ、転々と逃亡生活をしていた、苦難の時代に詠ったものであるかも知れません。

作者がダビデであろうと、あるいは他の詩人であろうと、いずれにしても作者は、極めて困難な状況の中で、この詩を詠んでいます。

恐らく、この詩の作者は、昔からの友人や仲間から見捨てられ、迫害されて、命の危険にすら晒されていたと思われます。

4節、5節で、詩人はそのような悩みの叫びを挙げています。

人々は詩人に一団となって襲いかかり、詩人を殺そうと図っている。

それらの人々のことを思う時、自分はまるで「傾き倒れそうな壁」であり、「今にも崩れ落ちそうな石垣」のように思われる。

しかも、自分を押し倒そうと迫る敵は、ずる賢くて、偽善的で、口先では如何にも親切そうに祝福しつつも、腹の底では自分を呪い、罠にはめようとしている。

しかし、このような窮地に追い込まれているにも拘らず、4節、5節における詩人の言葉には、なぜか心の余裕のようなものが感じられます。

「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか」、と語る詩人は、押し迫る敵を前にして、うろたえている様子を見せていません。

何故でしょうか?その答は、2節、3節にあります。

『わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。』

「沈黙して、ただ神に向かう」。以前の口語訳聖書では、「もだしてただ神をまつ」と訳されていました。「沈黙して待つ」、これは信仰の極めて大切な要素です。

それは、「何もしないで、ただボーとして神を待っている」というような、消極的な生き方を言っているのではありません。

確かな思いもなく、ただ漠然と川に釣糸を垂らし、偶然のように魚が喰い付いてくれるのをただ待っている。そんな生き方ではありません。

もしそうであるなら、そのような生き方は、「人生は、所詮は運命によって決められているのだから、何をやっても無駄だ」、という運命論者の諦めの生き方となってしまいます。

そうではなくて、ここで言う「沈黙して待つ」というのは、もっと積極的な生き方なのです。

『神様が必ず行動を起こされる。最終的には神様がすべてを最善に導いて下さる』。

そのことを信じ、神様の約束にどこまでも信頼していく生き方なのです。

詩編119編68節の御言葉はこう詠っています。

「あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください」。

神様は善なるお方だから、必ず善をなされる。たとえ、今は困難の中に置かれていようとも、最後には必ず、私を最善へと導いてくださる。

この御言葉は、善にして、善をなされる神様に、全幅の信頼を置いています。

しかし、私たちはそのことが出来ずに、しばしば自分の思いで、先走った行動を起こしては、失敗を繰り返してしまいます。

イスラエルの初代の王であったサウルも、そのような失敗を犯してしまった人物でした。

彼は、戦いに出る際に、預言者サムエルを通して献げなければならないと命じられた献げ物を、サムエルの到着を待ち切れずに、自分の思いで勝手に献げてしまいました。

サムエルの到着を待ち切れなかったということは、神様の約束を待ち切れなかった、ということです。その結果、サウルは神様からの祝福を失ってしまったのです。

困難な状況の中でも、「神の約束を、沈黙して、ひたすら待ち望む」。

これは、神様に絶対の信頼を置いていなければできません。

神様は、絶対に私を見捨てず、絶対に私を裏切らない。善にして、善をなされる神様は、私に最善をなしてくださる。

そのことに対する揺るぎ無い確信がなければ、沈黙して神様を待つことは出来ません。

私が、子供たちによく話す例話ですが、アメリカの綱渡りの名人の話があります。

ある綱渡りの名人が、ナイアガラの滝の上にロープを張り、その上を渡るというので、テレビ局や新聞社の人たち、そして大勢の見物人が詰め掛けてきました。

名人は、いともたやすく渡って見せたので、皆が彼を称賛しました。

するとその名人は、『皆さんは、私が、人をおぶって滝を渡ることが出来ると思いますか』、と尋ねました。そこにいた人たちは、口々に、「あなたなら絶対できるよ」と答えました。

すると、その名人は、傍にいた人に、「では、あなた、私の背中に乗ってください」、と頼みました。するとその人は震えながら、「いや、とんでもない」といって逃げました。

そこで他の人に、「それではあなたはどうですか?さっき、絶対できる、と言ったでしょう」と頼みますと、その人も「いや、それはちょっと」と言って尻込みしてしまいました。

次々に周りの人に声をかけましたが、誰も背中に乗ろうという人は現われません。

するとその時、一人の少年が、「ぼくがやる!」と元気よく手を挙げました。

そして、名人はその少年を背負って、見事にナイアガラの滝を渡り切ったのです。

レポーターは、早速その少年にインタビューしました。「ネェ、坊や、怖くなかったかい?」

すると少年はにっこり笑ってこう答えました。「うぅん、ちっとも怖くなかったよ。だってあの人は、ぼくのお父さんだもの」。

この少年は、自分のお父さんは、絶対に自分を滝壺に落とすようなことはしないという、強い信頼を持っていました。だから背中に乗れたのです。

詩人が神様に対して持っているのも、このような信頼、いや、これを上回る堅い信頼である、と言うことができます。

ですから詩人は、窮地にあっても決して動揺することの無い、魂の平安を得ているのです。

神様に信頼するとは、自分の可能性に掛けるのではなく、どこまでも神様の可能性に掛けていく、という事です。

それは、主イエスが言われたように、『人にはできないが、神にはできる』ということを本気で信じ、その神様の可能性に委ねていく事です。

モーセがホレブの山で、神様から召命を受けた時、神様はモーセに、『足から履物を脱ぎなさい』、と命じられました。

イスラエルの民を、エジプトからカナンの地に導き上るという困難な使命を与えるに際して、神様はモーセに先ず、『足から履物を脱ぎなさい』と言われたのです。

これはとても象徴的な言葉です。モーセが先ずしなければならなかった事、それは履物を脱ぐことでした。

言い換えれば、モーセが、今まで立ってきた基盤である、人間の力、人間の可能性をすっかり捨て去り、代わって神様の可能性、神様の岩の上に立ちなさい、ということだったのです。しかも、片足ではなく、両足で立ちなさい、ということは、全身でそこに立ちなさい、ということだったのです。

神様に全き信頼を置くとは、神様に全身を掛けることである、と言い換えても良いと思います。チイロバ牧師として親しまれた榎本保郎先生が、よく「損をしない程度の信仰」はいざという時の力にならない、と言われていました。

損をしない程度の信仰とは、片足しか踏み入れていない信仰のことだと思います。

神様に全身を掛けてしまうのは、ちょっと不安だ。だから、片方の足は神様の可能性に掛けているけれども、もう片方の足は人間の可能性に掛けている。そんな信仰です。

モーセの場合で言えば、片方の履物は脱いでも、もう一方の履物は、まだ履いているようなものです。

思いがけないことから、信仰とは全身を委ねることである、ということを発見した人がいます。福音を伝えるために、南太平洋の小さな島に渡ったジョン・ペイトンという宣教師がいました。その島で、ペイトン宣教師は、ヨハネによる福音書を現地の言葉に翻訳しようと試みました。

翻訳を始めて直ぐに、困ったことがおきました。実は、その島には「信じる」という言葉がなかったのです。

途方に暮れていると、そこに畑仕事から帰ってきた一人の男が、椅子にどかっと腰掛けて、両足を机に乗せてこう言いました。「私はいま、この椅子に全身の重みを掛けているのさ」。これを聞いたペイトン宣教師は、「これだ!この言葉だ!」と叫びました。

『全身の重みを掛ける』、これが島の言葉では一言で言い表せる言葉なのです。

ペイトン宣教師は、この言葉を『信じる』という言葉の翻訳として使いました。

『全身の重みを掛ける』。私たちは、神様に全身の重みを掛けているでしょうか。

片足は、どこか違うところに置いて、いざとなったら直ぐに逃げ出せるような信じ方をしていないでしょうか。信じる、という事は、全身の重みを掛けることです。委ね切ることです。

片足だけ踏み入れて、もう一方の足は別の所に置いている。

そんなことではなくて、全身を神様に委ねるのです。それが、信じるということです。

しかし、その時、神様が倒れてしまったら共倒れになります。ですから、全身の重さを掛けるということは、絶対に神様は倒れないということを信じることでもあります。

その信頼に立った詩人は、沈黙して、ただ神様を待ちました。そして、その沈黙の中で、神様から新たな力を与えられ、平安を得ることができたのです。

6節、7節は2節、3節の繰り返しですが、細かい部分が微妙に異なっています。

2節、3節では、詩人の魂の中で起きた戦いや怒り、そして、それを乗り越えようとする心の葛藤が感じられます。しかし、6節、7節では、詩人の心は、神様に対する全き信頼によって、怒りの波が静まり、平安に包まれています。

「わたしは決して動揺しないぞ」と必死になって戦っていた詩人は、今や平安に満たされ、「もはや、わたしは動揺していない」と静かに語っています。

そのような、神様のもたらす平安に満たされた詩人は、それを心の内にしまっておくことができず、他の人々にもそのような信頼に生きるようにと呼び掛けます。

9節で、詩人は、信仰の仲間に対して、自分と同じように、どのような時にも神様に信頼し、神様に心を注ぎ出して祈ることを勧めています。

心を注ぎだして祈るとは、自分の中にある苦しみ、悩み、様々なわだかまり、更には自分でも認めたくないような自分の心の中にある醜さ、それらすべてを、祈りの中で神様にさらけ出すことです。これも、神様に対する全幅の信頼がなければ出来ません。

先日もお話ししましたが、私たちは、ともすると自分の中にある最も汚い部分を、神様にさえ隠そうとします。神様の前でさえも、自分を取り繕うと、もがきます。

しかし、これは愚かな試みです。神様はそれらすべてをご存知の方なのですから。

逆に、このように汚れに満ちた、弱い自分を神様にさらけ出し、「神様、わたしを憐れんでください」と祈る時、「良いのだよ、お前はそのままで生きていって良いのだ。そのお前の汚さ、弱さは、全部私が代って負って、十字架に架かったのだ。だからお前はそのままで生きていって良いのだ」という、細きみ声を聞くことが出来るのです。

この62編は、私にとって、大変思い出深い詩編です。23年前のちょうど今頃、私は、初めてアシュラムに参加しました。その時の主題聖句が、この62編の2節だったのです。

そのアシュラムにおいて、私は、沈黙してただ神に向かい、御言葉を静かに聴くことの大切さを教えられました。沈黙して、ただひたすらに神様の御言葉を聴くことに専心する。

そのような時として、朝毎のディボーションを守ることの大切さを教えられたのです。

それから3年後、私は、勤めていたイギリス系の投資銀行から突然解雇され、6ヶ月ほど失業しました。その失業期間中に、私を絶えず支え続けてくれた御言葉が、この詩編62編でした。何度も何度も、繰り返して読んだため、ほとんど暗記してしまったほどです。

その時は、沈黙して神様の約束を待つことの大切さを、教えられました。

「どの様な時にも神に信頼せよ」。失業期間が長引き、就職活動が行き詰まった時、この力強い御言葉に、どれ程励まされたか知れません。

そして、本当に心を注ぎだして祈り、その中で、神様の御声を聞かせて頂きました。

詩編62編は、私にとっては本当に、何物にも勝る宝でした。

黙って、ただ神様の約束を待つ。それは、決して容易いことではありません。

神様に対する全き信頼なくしてはできない事です。

しかし、困難に出会ったとき、あれこれと人間的な解決に走る前に、まず沈黙し、善にして、善をなされる神様、万事を益としてくださる神様の約束に、全身の重みを掛けていきたいと思います。

「どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」。

愛する茅ヶ崎恵泉教会の兄弟姉妹。

私たちは、この御言葉が指し示す信仰を目指して、共に励まし合い、共に支え合って、歩んでいこうではありませんか。