「本当に主は復活された」
2014年04月27日 聖書:ルカによる福音書 24:13~35
イースターおめでとうございます。
今朝は、ルカによる福音書24章に記された、エマオ途上における、復活の主と、二人の弟子との出会いの出来事を通して、御言葉から教えられたいと思います。
主イエスが復活された日の午後のことです、二人の弟子が、エルサレムから12キロほど離れた、エマオという村に急いでいました。
二人の弟子の内の一人は、クレオパという名であった、と記されています。
では、クレオパと共にいた、もう一人は誰だったのでしょうか。
昔から、様々な推測がなされてきました。しかし、近年になって、このもう一人の弟子は、女性であったのではないか、という見方が有力なってきています。
エマオに着いてから、二人とも同じ家に行き、そこで、主イエスに、「ここに泊ってください」とお願いしています。同じ家に住んでいる男と女と言えば、夫婦です。
ですから、クレオパとその妻が、エマオに向かって旅をしていたのだ、とする見方です。
もしそうであるなら、この二人は、エマオの村にあって、夫婦揃って、主の弟子となった人たちであった、ということになります。
そして、過ぎ越しの祭りの時に、主イエスに遭うために、大きな期待をもって、エルサレムに行ったのではないか、と推測されます。
しかし、そこで、全く思ってもみなかった、主イエスの死に出会ってしまったのです。
しかも、それだけではありません。その主イエスが復活されたという、信じられないような知らせも聞いたのです。
彼らは、あまりにも思いがけない出来事が、僅か三日間の内に、次々に起こったために、きっと混乱していたと思います。
これらすべてのことを、どう捉えて良いのか分らずに、途方に暮れていたと思います。
主イエスを深く愛していたこの夫婦は、失望と、不安と、驚きの入り混じった、複雑な気持ちで、自分たちの村に帰って行く途中であったのです。
17節によれば、この時、「二人は暗い顔をして」いた、とあります。
この「暗い顔」という言葉は、聖書の他の箇所では、「沈んだ顔」と訳されています。
二人は、暗い、沈んだ顔をしていたのです。
そして19節以下に、この二人が、なぜ暗い、沈んだ顔をしていたか、その理由が書かれています。
ナザレのイエスが、十字架につけられて殺されてしまった。私たちは、その人に望みをかけていた。その人は、行いにも、言葉にも、力のある預言者であった。だから、きっとイスラエルを解放してくださる、と望みをかけていた。だが、その方が殺されてしまった。
しかも、その後で、その方が復活したという知らせを受けた。事実、誰も遺体を見つけることが出来なかった。二人は、暗い、沈んだ顔で、そう語ったのです。
この二人は、復活の知らせを確かに聞いたのです。しかし、喜びに溢れて、その知らせを聞いたのではありませんでした。クレオパの言葉を、改めて読んでみましょう。
「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちが、わたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
十字架につけられた主イエスが、復活されて、墓が空になり、「イエスは生きておられる」という言葉が告げられた。
これこそ、教会が繰り返して告げてきた、主の復活の喜びのメッセージです。
「ハレルヤ、主は復活された」と、張り裂けるばかりの喜びを持って、叫んできた、救いのメッセージです。大いなる希望のメッセージです。
ところが、クレオパ夫妻は、キリストの復活の出来事を、はっきりと語りながら、そこに喜びがないのです。
心が躍りあがるような喜びをもって、その知らせを聞いた訳ではないのです。
むしろ、戸惑っているのです。不安になっているのです。だから、暗い、沈んだ顔をしているのです。
復活の出来事を聞きながら、なぜ暗い、沈んだ思いになるのだろうかと、不思議に感じます。このクレオパの言葉の最後の部分を、原文に忠実に直訳しますと、こうなります。
「私たちの仲間のある者たちが、墓に行った。そして、婦人らの言った通りであることを発見した。しかし、あの方を見なかった」。
弟子たちは、墓に行ったのです。そして、婦人たちの言うとおりに、墓が空であることを発見したのです。しかし、あの方を見なかった、というのです。
或いは、「あの方にお会いしなかった」、と言っても良いと思います。
このことから分かるのは、ただ、墓が空であったとか、御使いが「イエスは生きておられる」と告げただけでは、人の心には、復活の喜びは、湧き起こってこない、ということです。
大切なことは、今、生きておられる主イエスを、自分自身が見ることなのです。
復活の主イエスに、実際にお会いすることなのです。
婦人たちの言う通り、墓が空であることは、確かめた。その事実は確認した。
けれども、そこから出て来られた主イエスに、まだお会いしていないのです。
だから、復活が喜びとならないのです。救いとならないのです。希望とならないのです。
いくら、墓が空っぽであることが、証明されても、それが喜びとならない。希望に繋がらない。力を与えられないのです。
今、生きておられる、復活の主イエスにお会いして、初めて、喜びが、希望が、力が与えられるのです。復活の主に、個人的にお会いしなければ、復活は、何の意味もないのです。
さて、そこで、思い起こして頂きたいことがあります。
すべての福音書の伝える、主の復活の記事に共通するのは、いつも復活された主イエスの方から、弟子たちに近づいて下さった、という事実です。
主イエスの方から近づいて来てくださり、主ご自身が、復活の事実を証ししてくださったのです。弟子たちが、自分たちで、復活信仰への道を、切り開いたのではありません。
主ご自身が近づいて来てくださり、ご自身を示してくださり、一緒に歩いてくださったのです。
いえ、今も、私たちと、一緒に歩いて下さっているのです。
大切なことは、一緒に歩いて下さっている、主イエスを見ることです。
今、生きておられる主イエスを見ていることです。
今、ここにおられる主イエスに、お会いしていることです。
この二人の弟子は、肝心の主イエスが近づいて来られて、一緒に歩き始めても、それが主イエスだと分かりませんでした。
その訳は、彼らの目が「遮られていた」からだ、と御言葉は説明しています。
それは肉体の目のことでなく、心の眼のことです。心の目が塞がれていたから、主イエスが分からなかったのです。
ご自身のことを見分けられなかった弟子たちに対して、主はこう言われました。
25節、26節です。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。
ここで、心が鈍い、と訳された言葉は、面白い言葉です。
本来は、ゆっくりした心、更に言えば、のろい心、遅い心、を意味する言葉です。
遅いのです。遅すぎるのです。主の御心に追い付くのに、遅すぎるのです。
でも、主イエスは、この物分かりが悪く、心が鈍い者たちを、捨ててはおられませんでした。
のろまな者と共に、歩調を合わせて、丁寧に聖書を説き明かされました。私たちの主は、私たちの遅い、たどたどしい歩みに、どこまでも歩調を合わせてくださるお方なのです。
聖書を読みなさい。聖書には、神様の御心が、明らかに示されているではないか。
神様の確かなご意志が、記されているではないか。
主イエスは、そう言われて、聖書全体に亘って、優しく説き明かしてくださいました。
聖書全体が、ご自身のことを証ししていることを、明らかにしてくださいました。
その時、既に、弟子たちの心は、静かに燃え始めていたのです。
しかし、彼らが、そのことに気が付いたのは、後になってからでした。
32節に、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と、語り合ったことが記されています。
やっと後になって気が付くほどに、穏やかな燃え方をする火でした。しかし、この穏やかな火は、まことに確かな火でした。
主が共にいてくださり、御言葉を示してくださる。それは、穏やかな、しかし、一生燃え続けるような、確かな恵みの火なのです。
私たちが、自分の気持ちを必死に駆り立てて、「あぁ、私は燃えている、燃えているんだ」、などというのではなくて、自分でも気付かないほどに穏やかに、しかし確かに心が燃える。
自分自身の気持ちや感情ではなく、御言葉の恵みによって、私たちの心が燃え始めるのです。二人の弟子たちの心が、知らず知らずのうちに、穏やかに燃やされ、主イエスの語られる聖書の御言葉が、分かり始めたのです。
そして、その御言葉の恵みが、彼らも気がつかないうちに、彼らの心に浸みとおり始めたのです。
その穏やかに燃える思いに促されて、二人は、なおも先に進まれようとされる主イエスを、強いて引き止めました。
先に進まれようとしていた主イエスには、他に目的地があったのかも知れません。
他の苦しむ人々のために、なすべき御業があったのかも知れません。
しかし、二人は、心の内に穏やかに燃える思いに迫られて、どうしても主イエスと共に、もう少しいたいと思ったのです。ですから、無理に引き止めて、家に迎え入れたのです。
わがままと言えば、わがままです。しかし、これは、彼らにとって、どうしても必要な、わがままであったのです。
二人は、何とかして、この穏やかに燃える思いを、確かなものとして、握り締めたかったのです。
そして、驚いたことに、この二人のわがままを、主は聞き入れてくださったのです。
それが、主の御心に沿った、わがままであったからです。
こうして二人は、主イエスを無理に引き止めて、家に迎え入れました。そして、その時、復活の主イエスの恵みを、自分たちのものとすることが出来たのです。
私たちも、ここぞと思う主イエスとの出会いを、逃すことがないようにしたいと思います。
遠慮しなくてよいのです。主は、私たちのために、喜んで時間を割いてくださいます。
私たちも、この二人の弟子のように、「主よ、今日はぜひ、私のために時間を割いてください」、と祈ることが許されているのです。
29節にはこう書かれています。「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。
ここにある、「もう日も傾いています」、という言葉は、同じルカによる福音書の9章12節にも出てきます。主イエスが、5千人の人たちを、5つのパンと2匹の魚で養った時、弟子たちが主イエスに言った言葉です。
「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。群衆を解散させてください」。
ガリラヤ湖畔で弟子たちが、主イエスに言った、「日が傾きかけた」という言葉。それと全く同じ言葉を、エマオでは、二人の弟子が主イエスに言っているのです。
「もう日も傾いています」。福音書記者ルカは、明らかに、エマオでこれから持たれようとしている、3人だけのささやかな晩餐と、あの5千人の食事を重ね合わせています。
ですから、あのガリラヤ湖畔で、5千人を養われた時の、主イエスのお姿と、全く同じお姿が、ここに描き出されているのです。
主イエスは、ガリラヤ湖畔でされた時と、全く同じように、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡されたのです。
クレオパ夫妻は、十二弟子ではありませんから、恐らく、最後の晩餐には、参加していなかっただろうと思います。
しかし、5千人の食事の時には、そこに居合わせていたかも知れません。
また、それ以外にも、主イエスと、幾度か一緒に、食事をしたことがあったと思います。
その時の、主イエスのしぐさ、パンを割いて、弟子たちに渡す手つき、或いは、祈りの言葉を、今、鮮やかに思い起こしたのです。
そして、「アッ、このお方は、主イエスだ」と、分かったのです。
主は、パンを裂くお姿を通して、御自身であることを分からせてくださったのです。
すると、「その姿は見えなくなった」と記されています。
心の目が塞がれ、肉の目で主イエスを見ていた時には、主イエスだとは、分からなかった。
しかし、心の目が開かれ、主イエスだと分かった時に、肉の目では、もはや主イエスが、見えなくなったのです。けれども、ある人はこう言っています。
「お姿は、見えなくなった。そう書いていることに、よく気を付けて欲しい。主イエスの存在がなくなった、とは書いていない。主イエスのお姿は見えなくなった。しかし主は、そこに居続けておられる。彼らと共に居続けてくださった。そして、今も、私たちと共に、居続けてくださっているのだ」。
そうなのです。主イエスは、目で見える存在、手で触れることのできる存在ではなくなった。
しかし、目には見えないけれども、手で触れることはできないけれども、いつでも、どこでも、私たちと共にいてくださるお方となって、存在してくださっているのです。
二人の弟子は、そのことが分かったのです。その時、二人は、言葉に言い表すことのできない、大きな喜びに包まれたと思います。
そして、すぐに立って、エルサレムに帰ったと、記されています。
夜です。夜道です。寝るのも忘れて、夜道をひたすら急いだのです。
エマオへ向かうときは、明るい日の光の中で、しかし、その日の光を見ることもできずに、暗い思いで歩いた12キロの道。その同じ道を、夜には、光り輝く思いで、エルサレムに走り帰って行ったのです。
一刻でも早く、この喜びを知らせたいと思って、エルサレムに急いだのです。
主イエスに出会う前と、出会った後では、これほど違うのです。
着いてみると、既に、そこには十一人の使徒と、その仲間が集まっていました。
そして、「本当に主は復活して、シモンに現れた」、と言っていたのです。
「本当に主は復活して」。ここでルカは、ただ単に「主は復活して」、と書かずに、わざわざ「本当に」という一語を加えて、主イエスの復活を伝えています。主イエスが復活された。
その素晴らしい出来事が、紛れもない事実であることを、強調しているのです。
実は、この「本当に」と訳されている言葉は、新約聖書には珍しい言葉なのです。
ルカによる福音書では、僅か二回しか使われていません。
もう一回は、23章47節です。こういう御言葉です。「百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した」。
主イエスの十字架の死を、目の当たりにした百人隊長が、思わず言った言葉です。
「本当に、この人は正しい人だった」。
最も重罪人を処刑する十字架の下で、主イエスの無実が証言されているのです。
そこにも、「本当に」、が使われているのです。
十字架で死なれた主イエスは、罪のないお方であった。それは紛れもない事実なのだ。
本当のことなのだ。そのことが力強く語られているのです。
ルカ福音書で、僅か二回しか使われていない、「本当に」という言葉。
それが、使われているのは、主イエスの十字架と、復活の場面だけなのです。
福音の中心は、十字架と復活です。
この最も大事な、二つの出来事を伝える場面に、「本当に」、の一語が使われているのです。この言葉に促されて、十字架と復活の出来事を、紛れもない事実として、深く心にとめるように、と教えられているのです。
御言葉は伝えています。「本当に、この人は正しい人だった」。
主イエスは、罪のないお方でした。それは、本当なのです。
その罪のないお方が、私たちの罪を代わって負ってくださって、十字架にかかって死なれた。それによって、私たちの罪は赦された。それは本当なのです。
そして、御言葉は、更に伝えています。「本当に、主は復活した」。
主イエスは、復活されて、死に勝利されました。それは本当なのです。
ですから、復活の主を仰ぐ時、私たちは、希望を抱いて、生きることが出来るのです。
罪と死の縄目から、解放されるのです。
何と喜ばしいことでしょうか。なんと感謝なことでしょうか。私たちは、この喜びの知らせに押し出されて、恵みの内を歩んでいきたいと思います。
主は、暗い、沈んだ顔をしている私たちに、ご自分の方から近づいてくださり、一緒に歩いてくださり、分からせてくださいます。
その主イエスが語ってくださる御言葉を聞き、裂いてくださるパンを頂き、主の命に満たされたいと願います。
そして、「本当に、主は復活された」と、力強く証ししていく、お互いでありたいと、願います。