「あなたはどなたですか」
2014年07月27日 聖書:ヨハネによる福音書 1:19~28
私たちは、今、聖日礼拝において、ヨハネによる福音書を少しずつ読みながら、主イエスとは、どのようなお方なのか、ということを、御言葉から聴いています。
今日の箇所は、1章19節から28節までですが、この19節から、ヨハネによる福音書は本論に入ります。
福音書というのは、主イエスを紹介するものですから、本論に入ったところで、当然、主人公である主イエスが、登場してくる、と私たちは思います。
しかし、今日の箇所でも、まだ主イエスご自身は、直接には、登場していません。
今日の箇所で、登場しているのは、バプテスマのヨハネです。
ヨハネによる福音書は、主イエスが、どのようなお方であるかを、証明するために、様々な証言者を登場させています。
ある人が、誰であるかを、証明するためには、証言が必要です。
例えば、私が牧師であることを、証明するためには、皆さん方が、「この人は、茅ヶ崎恵泉教会の牧師です」、と証言してくださることが、必要です。
ヨハネによる福音書は、主イエスが、神の子・救い主であることを証明するために、様々な証言者を登場させていますが、その最初が、バプテスマのヨハネです。
他の福音書によれば、バプテスマのヨハネは、ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べるという、禁欲的な生活をしていた、と記されています。少し前にはやった、お笑いタレントの言葉を借りれば、「ワイルドだぜー」、といったイメージです。
このヨハネは、ヨルダン川において、人びとに、悔い改めの洗礼を、授けていました。
多くの人々が、ヨハネのことを、神が遣わされた、預言者であると信じて、彼のもとに集まり、続々と、悔い改めの洗礼を受けました。
このヨハネのバプテスマ運動は、ユダヤ全土に広がり、大きな影響を与えていました。
バプテスマのヨハネは、ユダヤ教の中の、エッセネ派と呼ばれる教団の出身である、と考えられています。
このエッセネ派と呼ばれる人たちは、一般の人たちから遠く離れて、死海の西側の、ユダの荒れ野のクムランと呼ばれる地域に集まって、禁欲的な、共同生活をしていました。
ヨハネは、このエッセネ派に属していましたが、ある時期から、彼らと別れて、一般の人々の中に、入っていくようになりました。
そして、人々に、悔い改めの洗礼を、授ける運動を始めたのです。
それまで、ユダヤの人たちは、洗礼というのは、異邦人が、ユダヤ教に改宗する時に、受けるものである、と考えていました。
その洗礼を、ヨハネは、ユダヤ人たちも、受けるように、と勧めたのです。
いや、ユダヤ人こそ、受けるべきだ、と言ったのです。
悔い改めが必要なのは、異邦人ではなくて、あなた方なのだ。
あなた方は、そのままで、やがて来る神様の裁きに、耐えられるのか。
あなた方こそ、悔い改めの洗礼を、受けるべきなのだ、と言ったのです。
ヨハネは、なぜ、エッセネ派の人たちと、訣別したのでしょうか。
エッセネ派の人たちは、社会から隔離されたところで、共同生活をして、自分たちだけが救われれば良い、と思っていました。一般の人たちには、希望を持っていなかったのです。
あの人たちはだめだ、と思っていたのです。でもヨハネは、そうではありませんでした。
勿論、一般の人たちの信仰が、そのままで良い、という訳ではありません。
一般の人たちの生き方には、問題が多かったのです。
でも、そうだからと言って、あの人たちを見捨てて、自分だけが救われれば良い。
ヨハネは、そのようには考えなかったのです。
ですから、ヨハネは、荒れ野での共同生活を捨てて、人々の所に来たのです。
なぜヨハネは、このような活動をするようになったのでしょうか。彼は、民衆を深く愛していた。もちろん、それもあったでしょう。でも、それだけが理由ではない、と思います。
ヨハネは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と言っています。
そして、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」、と付け加えています。
「履物のひもを解く」というのは、奴隷の仕事です。私は、その方の、奴隷になる資格もない。それほど偉大なお方が、他でもない、あなた方の中におられる、と言っているのです。
これは、勿論、神様がお遣わしになる、救い主のことを言っています。
その救い主が、荒野で共同生活をしている、エッセネ派の人たちの中にではなく、あなた方の中におられる、と言っているのです。
ということは、民衆を見捨てていなかったのは、ヨハネではなかったのです。
神様が見捨てておられなかったのです。神様が、民衆を見捨てておられないのです。
そして、その人たちの中で、救いの出来事を、起こそうとしておられるのです。
神様は、不正や、不平等や、不合理が渦巻いている、この世を、決して見捨ててはおられないのです。
また、そのような世の中にあって、傷つき、疲れ果てている、私たち一人一人をも、見捨ててはおられないのです。そして、その私たちの中に、救いの出来事を、起こしてくださるのです。私たちの信じる神様は、そういうお方なのです。
ヨハネは、そのような信仰に、導かれたのだと思います。ですから、荒野の生活を捨てたのです。
さて、今日の箇所では、エルサレムから来た人たちと、ヨハネが色々と問答をしています。
エルサレムにいる祭司やレビ人たちは、群衆が続々と、ヨハネのもとに、引き寄せられて行くのを見て、心穏やかではいられませんでした。
彼らは、エルサレム神殿に仕えている人たちで、当時のユダヤ社会においては、支配者階級に属する人たちでした。
彼らも、メシア・救い主が来られることを、一応は望んではいました。
しかし、一方では、メシアが来ることによって、現状が大きく変わって、今の自分たちの、特権的な立場が、崩れるのは困る、と考えていました。
でも、自分の中に、神様を迎え入れたなら、必ず、自分の中に、変化が起こります。
神様は、迎え入れたい。でも、今の自分は、全く変わらずにいたい。
そんなことは、出来ません。
ですから、彼らは、メシアを待ち望む一方で、メシアの到来に、不安を覚えていたのです。
ヨハネを慕う人々の中には、このヨハネこそが、待ち望んでいるメシア・救い主ではないか、と期待する人も多くいました。
これは、エルサレムの支配者たちには、見過ごせないことでした。
ですから、人を遣わして、確認しに来たのです。
彼らは先ず、「あなたは、どなたですか」、と質問しました。
この「あなたは、どなたですか」、という訳は、少々穏やか過ぎると思います。
実際には、「お前は誰だ」、「お前は何者なのだ」。そのような厳しい言葉です。
許しもなく、人々に洗礼を授けているお前は、一体何者なのだ。そう言って、詰問しているのです。これは、氏素性を聞いているのではありません。
そうではなくて、ヨハネと神様との関係を聞いているのです。
お前は誰か。神様との関係において、お前は誰なのか、と聞いているのです。
この問いは、私たちにとっても、非常に大事な問いであると思います。
普段、私たちは、あまりそういうことを、突き詰めて考えません。
私は誰か、などとあまり考えないと思います。
でも、私が神様を信じているということと、私は誰か、という問い。この二つは、深い繋がりがあります。神様を信じるということは、新しい自分を見つけ出すということです。
ですから神様を信じたなら、「私は誰か」という問いに、新しい答えが与えられる筈なのです。アメリカの長老教会が出している「みんなのカテキズム」という本があります。
この本は、中高生向けに、やさしく書かれた信仰問答書です。
その第一問は、大変面白い問いです。
問い1.「あなたは誰ですか」。いきなりこう問い掛けているのです。
「あなたは誰ですか」。そして、その答えが直ぐ下に書かれています。
「わたしは神様の子どもです」。たった一言です。
このカテキズムが言いたいこと。それは、信仰を持っているとは、どういうことか。
それは、「あなたは誰ですか」、と問われた時に、「わたしは神様の子どもです」、と答えられるということ。それが、信仰を持っている、ということなのだ。そう言っているのです。
私たちは、自分のことを、色々と言い表します。
けれども、本当は、「あなたは誰ですか」と問われた時に、真っ先に言わなければいけないことは、「私は、神様の子どもです」、という答えなのです。
それが、私たちの存在の根底を、支えている事実なのです。
そして、その事実を与えるために、主イエスが、救いの出来事を、起こしてくださったのです。私たちを、神の子とするために、十字架において、ご自身の命を、献げてくださったのです。
さて、この時、ヨハネは、「あなたは誰ですか」、との問いに対して、「わたしはメシアではない」、とはっきりと答えています。
神様との関係は何だ、と問われて、「わたしはメシアではない」と、真っ先に言ったのです。
私たちは、この言葉を、何気なく、読んでいます。
しかし、実際の光景を、思い浮かべて見ると、この言葉の重要性が、よく分かります。
たとえば、誰かが私に、「あなたは誰ですか」、尋ねたとします。
そこで、私が真っ先に、「私はメシアではありません」、と言ったとしたら、どんな反応が返って来るでしょう。尋ねた人は、きっと、びっくりするでしょう。
そして、なんとうぬぼれた返事だ、と思うでしょう。
誰も、そんなことを聞いていないよ、と言うでしょう。ですから、普通であれば、「あなたは誰か」と聞かれて、「私はメシアではない」、と答えるのは、おかしなことです。
でも、この当時、ヨハネこそが、メシア、救い主ではないか、と思っていた人々が、たくさんいたのです。ですから、ヨハネは、「わたしはメシアではない」と、真っ先に言ったのです。
そして、エルサレムから来た人たちは、ヨハネが、「わたしはメシアではない」、と言ったのを聞いて、ホッとしたのです。
どうやら、現状が大きく変わることはなさそうだ。そう思って、安心したのです。
しかし、そうなりますと、ヨハネという人物が、誰なのか、ますます分らなくなります。
それで、色々な質問をしていきます。「あなたはエリヤですか」とか、「あなたは、あの預言者なのですか」と、次々に問い続けました。
なぜ、彼らが、「あなたはエリヤですか」と尋ねたかと言いますと、旧約聖書の最後の言葉、マラキ書の3章23節、24節が、彼らの頭にあったからです。
マラキ書3章23節、24節は、こう言っています。 『見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。/彼は父の心を子に/この心を父に向けさせる。/わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。』
ここで、預言者マラキは、終末における、神様の最後の審判の時に、その先駆者として、預言者エリヤが再び来る、と言っています。
そのことを想い起しながら、この人たちは、聞いているのです。
「ヨハネよ、あなたは、来るべき神の裁きに耐えられるように、悔い改めのバプテスマを受けよ、と人々に勧めている。それでは、あなたは、マラキが預言している、エリヤの再来なのか。神様が、最後の審判に先駆けて、あなたを遣わされたのか」。そう聞いているのです。或いは、「あなたは、あの預言者なのですか」、と質問しています。
ここで、彼らが尋ねた、「あの預言者」とは一体誰のことでしょうか。
私たちには、直ぐには、分かりませんが、当時のユダヤ人には、「あの預言者」と聞けば、ピンとくる人物がいたのです。
もし、誰かが、「私は、茅ヶ崎の桑田です」、と自己紹介したとします。すると、「えっ、では、もしかして、あの桑田さんの御親戚ですか」、と聞かれるかもしれません。
この場合、「あの桑田さん」、というのは、サザンオールスターズの桑田佳祐さんのことだと、誰もが分かります。
そのように、当時のユダヤ人は、「あの預言者」、と聞くだけで分かったのです。
「あの預言者」というのは、申命記18章15節に出てくる、預言者のことです。
『あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。』
これは、モーセが語った言葉です。モーセは、いつの日か、自分と同じような預言者が、神様によって、再び遣わされる、ということを、ここで預言しています。
終末に再び来るエリヤも、そして、偉大なモーセの再来である「あの預言者」も、いずれもユダヤ人にとっては、極めて重要な役割を果たす人物です。
ですから、ヨハネの働きの、驚くべき広がりを見て、エルサレムから来た人たちは、「あなたはエリヤの再来なのですか」、「あなたは、モーセの再来なのですか」と、聞いたのです。
それに対して、ヨハネは、はっきりと「違う」、「そうではない」、と言いました。
それでは、あなたは一体誰なんですか、と聞かれた時に、ヨハネは、イザヤ書40章3節の御言葉を引用して、「わたしは『主の道をまっすぐにせよ』と、荒れ野で叫ぶ声だ」、と自分のことを言い表しています。
私は荒れ野で叫ぶ声なのだ。神様の道を、まっすぐにするために、叫ぶ声なのだ、と言ったのです。
神様が、あなた方の中で、出来事を起こされる。その道を、私が、真っ直ぐに整えるのだ。
それが、私に与えられた務めなのだ。私は、道を整える声としての務めを、果たしているのだ。ヨハネは、そう言っているのです。
ヨハネは、私は、声なのだ。言を伝える声なのだ。言、そのものではない、と言っています。
これは、私たちに、大切なことを教えてくれています。私たちは、しばしば言と声とを、混同します。そして、言よりも、声を、大切に思う過ちを犯します。
どんなに立派な牧師であっても、牧師は声です。神の言を伝える、声に過ぎません。
大切なのは、声ではなく、その声が伝えようとしている言です。
私たちにとって、大切なことは、言に、しっかりと繋がることであって、声に繋がることではありません。
チイロバ牧師として親しまれた、榎本保郎先生は、ご自身が心血を注がれて、建て上げた京都の世光教会を、突然辞任しました。多くの教会員が、泣いて引き止めましたが、辞任の決意を変えませんでした。なぜ、突然辞任したのか。
ある教会員が、こう言っているのを聞いたからです。「私は、榎本先生がおられるから、教会に来ているのです。もし、先生がいなくなったら、教会には来ません」。
これを聞いて、榎本先生は、深く悔い改めたそうです。私は、言よりも、声を大切にする教会を作ってしまった。何という愚かなことをしたのか。これを正すには、私が去るしかない。
そう思って、断腸の思いをもって、愛する世光教会を、去って行ったのです。
ヨハネは、自分は、声に過ぎない。言ではない、ということを、よく自覚していました。
これは、本当に立派なことです。
でも、この時ヨハネは、これから神様が、どういうことをなさろうとしているかを、正確には知らなかったと思います。神様が、何か新しいことを起こされる、ということは言いました。
でも、実際に、それが、どういうことであるかは、知らなかったのです。
恐らく、彼は、予想もしていなかったと思います。
私は、その方の、履物のひもを解く資格もない。それほど偉大なお方が、私の後からいらっしゃる、とヨハネは言いました。
でも、その偉大なお方が、何と私たちの足元にひざまずいて、身をかがめて、私たちの履物のひもを解くどころか、汚れた私たちの足さえも、洗ってくださる。そして、遂には、私たちに代わって、十字架についてくださる。
ご自分の命を投げ出されて、私たちを罪から救い出してくださる。
そんなこと、ヨハネは、想像も出来なかったと思います。
ヨハネは、予告はしました。しかし、その予告したヨハネですら、想像もできない形で、新しいことが起こったのです。
誰もが、想像も出来なかった、新しい出来事を、神様は起こしてくださいました。
そして、その出来事によって、私たちは、神の子とされました。
「あなたは誰ですか」、と問われた時に、「私は、神の子です」と喜んで答えることが出来る。
主イエスは、私たちを、そういう者にしてくださったのです。
ヨハネは、この時、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」、と言いました。この言葉は、今でも真実です。主イエスは、今も、私たちの中におられます。
でも、今や、私たちにとっては、知らないお方ではありません。私たちは、そのお方を、よく知っています。私たちの良く知っている、そのお方が、私たちの中におられる。
そして、今も、そのお方は、私たちを生かすために、命懸けで働いていてくださる。
礼拝において御言葉を与え、聖餐の恵みを与え、そして、私たちが神の子として生きることが出来るように、私たちに命を注いでくださっているのです。
その恵みを感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと思います。