「何を求めているのか」
2014年08月17日 聖書:ヨハネによる福音書 1:35~42
先週は、バプテスマのヨハネが、「世の罪を取り除く神の小羊」として、主イエスを証しした、という箇所から、ご一緒に御言葉に聴きました。
そのヨハネの言葉に導かれるように、今日の箇所では、初めて主イエスのお姿が記されています。 いよいよ、主役である、主イエスの登場となります。
その最初に、主イエスは、何をされたかと言いますと、弟子をお召しになりました。
ただ、これは、特別なことではありません。
当時、高名なユダヤ教の教師、ラビと呼ばれていた人たちは、皆、弟子を持っていました。
恐らく、弟子の数が、その教師の地位を、示していたのではないかと思います。
そういう意味では、弟子の数は、多ければ多いほど良い、ということになります。
しかし、主イエスは、そうはされませんでした。
今日の箇所で、主イエスは3人の弟子をお召しになられました。次の箇所では、2人をお召しになっています。合計で5人です。
最終的には、主イエスは、12人の弟子をお召しになられました。
この12人という数は、主イエスが、この地上で活動されている間、ずっと変わりませんでした。勿論、その周囲には、様々な人たちが集まっていました。しかし、中心となる弟子たちは、12人で変わらなかったのです。
主イエスの評判が高まって、大勢の群衆が、付いて来るようになっても、主イエスは、弟子の数を、増やそうとはされなかったのです。
ですから、主イエスが、弟子を召されたのは、ご自分の力を示すためとか、ご自分の地位を高めるためではなかった、ということは明らかです。
では、主イエスは、一体何のために、弟子をお召しになったのでしょうか。
その理由の一つは、私たちが救われるとは、どういうことであるかを、示すためであったのだ、と思います。
主イエスの弟子になった人たちは、特別な人たちではありませんでした。ごく普通の人たちです。言わば、私たちの代表です。
主イエスに救われるとは、どういうことなのか。そのことを、弟子たちが、身をもって、教えてくれているのです。
救われたら、あなたも、この人たちと同じになるのですよ。そのことを示すために、主イエスは、弟子たちを、お召しになったのです。
救われるということは、主イエスの弟子になる、ということです。
そして、弟子になるということは、その人に従う、ということです。
ですから、主イエスの弟子になれば、主イエスだけに従えば良いのです。
しかし、現実には、私たちは、このお方の弟子になっても、尚も、色々なものに、影響されて生きています。本当は従いたくないものに、不本意ながらも、従って生きています。
以前よりは少ないとしても、尚も、人の目を気にして生きています。世の中の流れに、流されざるを得ない現実があります。私たちは、皆、そうです。
しかし、たとえ私たちの現実が、そうであってとしても、このお方が、私の主である、という事実は変わらないのです。
このお方が、私の救い主である、という事実は、変わらないのです。
だから、私たちは、本当は、他のものに、従わなくても良いのだ。この事実は変わらないのです。常に、そこに帰っていけるのです。帰る場所があるのです。
従う必要がないのに、それに動かされてしまう。たとえ、そういうことがあったとしても、そういうものは、私たちを最終的には、拘束しないのです。
いざとなった時に、「いえ、私は主に従います」、と言うことができるのです。
私たちが、そのような弟子となるために、主イエスは、この世に来てくださったのです。
私たちの主になるために、来てくださったのです。
主イエスが、最初に弟子をお召しになられたのは、道を歩いておられた時でした。
歩いておられる主イエスを見て、ヨハネが、「見よ、神の小羊だ」と言ったのです。
そして、ヨハネは、自分の愛する、二人の弟子の、背中を押すようにして、「あなたがたが行くべきところは、あの方のところだ」と言って、主イエスに従うように、勧めたのです。
「これからは、私にではなく、あのお方に従って行きなさい。あのお方こそ、神の小羊だ」。
そう言って、弟子たちの背中を押して、彼らを、主イエスの弟子にしてしまったのです。
このバプテスマのヨハネという人は、旧約聖書の締め括りの役を、果たしている人だ、と言われています。
では、旧約聖書とは何でしょうか。それは、救い主を指し示す役目を果たす書物です。
ヨハネは、まさに、救い主をはっきりと、具体的に指し示しました。
ですから、このヨハネにおいて、旧約聖書の果たすべき役割は、全うされているのです。
そして、主イエスは、言うまでもなく、新約聖書の中心にいるお方です。
ということは、今、ここで起こっているのは、人間の救いの御業が、旧約聖書から、新約聖書に、手渡されている、ということです。
旧約聖書の中で生きてきた、二人の弟子たちが、ヨハネに押し出されて、新約聖書の世界に引き渡される。そういうことが、今、ここで起こっているのです。
旧約聖書には、神様が、イスラエルの人々を、神の民として選ばれて、彼らに律法を与えられた、ということが書いてあります。
あなた方は、この律法に定められた通りに生きなさい。そうすれば、私は、あなた方を、神の民として受け入れます。そして、あなた方は、救われます。
神様は、そのように言われて、イスラエルの民に律法を与えられたのです。
しかし、旧約聖書が、明らかにしていることは、私たちは、その律法を守ることが出来ない、ということです。
イスラエルの民は、何とかして、律法を守ろうとしましたが、出来なかったのです。
人間は、与えられた律法を守ることが出来ない。それが明らかになった時に、神様は、本当に大きな決断をなさいました。そして、こう言われたのです。
あなた方は、律法を守ることが出来ない。あなた方は、自分の力で私の所に来ることが出来ない。そうであるなら、私が、あなた方の所に行ってあげよう。
このような、大きな決断を、してくださったのです。
旧約聖書では、神様は、あなた方は、私の所に来なさい、と言っておられたのです。
しかし、新約聖書では、私が、あなた方の所に行くから、待っていなさい、と神様は言っておられるのです。
そのように、神様は、戒めを守れない、ダメな私たちのために、救いの御業を、変更なさってくださいました。そして、私たちの所に、主イエスを、遣わしてくださったのです。
これは、本当に大きな神様の、恵みの決断です。
神の独り子が、私たちの罪を取り除く、神の小羊として、十字架に死んでくださった。
この、主イエスの十字架の贖い、という出来事は、神様が、考えに考え抜いた末の、究極の決断です。神様に残された、最後の愛の業だったのです。
この素晴らしい神様の御業を、なされるために、主イエスは、来てくださいました。
ヨハネは、そのお方に従いなさい、と言って、弟子たちを押し出したのです。
そうやって、主イエスに付いて行った、二人の弟子たちの一人は、ペトロの兄弟のアンデレであった、と記されています。
このアンデレが、自分の兄弟のペトロを、後から主イエスの所に、連れて行ったのです。
ここで、誰でもが、聞きたくなるのは、では、もう一人は誰だったのかということです。
このもう一人の人こそ、この福音書を書いたとされている、使徒ヨハネであった、と言われています。
ペトロが、どのようにして、主イエスの弟子になったのか、ということについては、四つの福音書が、それぞれ違った書き方をしています。
その中でも、マタイとマルコは、比較的似ています。大筋は同じです。
このペトロとアンデレが、ガリラヤ湖で、網を打っていたところに、主イエスが、やって来られて、「わたしについて来なさい」と言われて、そのままついて行ったと書かれています。
ルカによる福音書では、ペトロが、ひと晩中漁をしたけれども、ちっとも魚が採れなかった。
そこに主イエスが来られて、舟を沖に漕ぎ出して、網を降ろしなさいと言われた。
そこでペトロは、御言葉通りにしたところ、今までにないような、大漁の奇跡を体験した。
その時、ペトロは、自分の罪深さと、主イエスの尊さを、深く知らされた。
ペトロは、そのようにして、主イエスの弟子になった。
それらに対して、ヨハネが記しているのは、ペトロは、ただ兄弟のアンデレに、主イエスのところに、連れて行ってもらっただけだ、と言うのです。
それぞれ、記している出来事が、異なっています。
しかし、これはどれが正しくて、どれが間違っている、ということではないと思います。
私たちが、弟子にしていただける時の、色々な場面を、示しているのだと思います。
私たちも、様々な仕方で、主イエスに出会い、主イエスの弟子に、していただきました。
偶然のような、思いがけない出会いをした人。一生、忘れられないような、劇的な出会いをした人。或いは、誰かに誘われて、言われるままに教会に行って、主イエスに出会った人。
一人一人、皆、違っています。違っていてよいのです。
どのような出会いが良いとか、どの出会いが立派だとか、ということはありません。
全ての出会いが、主イエスの憐れみによって、整えられていたのです。
一人一人に、最も相応しい出会いが、用意されていたのです。
ここで、主イエスは、ついてきた二人に、「何を求めているのか」、と問い掛けられました。
この福音書に記されている、主イエスの最初のお言葉です。
この言葉に、私たちは、驚きと感謝を、覚えるのではないでしょうか。
登場して来られた主イエスは、「私こそ世の罪を担う神の小羊だ」とも言わず、また「私こそ世の光だ」、とも言われなかったのです。
そのような、ご自分の権威を示すようなことは、一言も仰らなかったのです。
そうではなくて、まず、「何を求めているのか」と、私たちの願いを、尋ねてくださったのです。私たちの心の飢えに、目を注いでくださり、私たちの願いに耳を傾けてくださったのです。
何という、憐れみに満ちたお言葉でしょうか。私たちの救い主は、このようなお方なのです。
もし、私たちが、主イエスと出会った時、主イエスから、「あなたは何を求めているのか」、と尋ねられたら、果たして、何と答えるでしょうか。
「あなたは何を求めて生きているのですか」。「何を求めて教会に来ているのですか」、と聞かれたら、どう答えるでしょうか。
「何を求めているか」。この問いは、私たちの生き方を、決定する問いである、と言えます。
私たちは、一体何を、求めているのでしょうか。何を求めて、生きているのでしょうか。
主イエスに尋ねられた時に、うろたえることがないように、答えをいつも、しっかりと持っていたいと思います。 主イエスは、二人に、そういう問いを、尋ねられました。
この時の二人の答えは、興味深いものです。「先生、どこに泊まっておられるのですか」。
「何を求めているのか」と尋ねられて、「自分たちが求めているのは、先生がどこに泊まっておられるかを、知ることです」、と答えているのです。不思議な答えです。
でも考えてみれば、その人が泊まっている所には、その人の生活がある筈です。
その人の住んでいる所を見れば、その人のことが分かる筈です。
ですから、「先生、あなたはどこにお泊りなのですか。どこに、あなたの生活の基盤はあるのですか」、と聞いたのです。
言い換えれば、二人は、「先生、私たちは、あなたのことが知りたいのです。先生、あなたは何者ですか。その事を知りたいのです」、と答えているのです。
この二人の弟子たちは、世界中の人たちを代表して、「先生、どこにお泊りですか」、と尋ねているのです。
「先生、私たちは、あなたのことが知りたいのです」。「あなたは、本当に神の独り子ですか」。「あなたは、本当に神の小羊なのですか。本当ですか。私たちはそれを知りたいのです」。
二人は、そう言っているのです。
それに対して、主イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」、と言われました。
「従ってみれば、分かるよ」、と言われたのです。
遠くの方から、いくら質問しても駄目ですよ。外側からいくら眺めていても、駄目ですよ。
私と一緒に、私が生きている、その場所に、来て見なさい。そうしたら分りますよ。
従ってみなければ、分かりません。だから、従って来なさい、ついてきなさい。
そう仰ったのです。大変単純な答えです。
しかし、このお言葉は、信じるとはどういうことか、を見事に教えてくれています。
私たちは、往々にして、分かってから信じるのが、本来の筋道だと思い込んでいます。
しかし、そうではないのです。分からないけれど、このお方には、何かある。
私の生き方を、決定する何かを、このお方は持っている。このお方に、従ってみよう。
そう決心して、歩き出してみるのです。その時、このお方と、共に歩む人生とは、こういうものなのだ、ということが分かってくる。そして、そのお方を、信じることが、できるのです。
このお方は、私に、こういうことを、してくださるお方なのだ、ということが分かってくるのです。旅行に行く時もそうです。時刻表を調べたり、旅館を選んだり、ルートを決めるために、一生懸命に資料を読んでも、その土地のことは、本当には分かりません。
実際に、自分の足で、その土地を歩いてみて、初めて分かるのです。
結婚するときもそうです。相手を、すべて分かってから結婚する人などいません。
決心して、結婚し、一緒に暮してみて、その人が、分かってくるのです。
ただ人間の場合は、結婚した後で、こんな筈じゃなかった、と思うこともあるかもしれません。でも、主イエスの場合は、逆です。こんなに素晴らしいお方だとは、知らなかった、という思いが、日毎に、年毎に、深まるという経験を、必ずします。
私は、洗礼を受けてから、57年経ちましたが、未だに、毎日のように、主イエスの愛の深さを、改めて、教えられています。
今朝、ここに招かれた、皆さんの中に、洗礼をお考えになっていても、今一歩踏み出せずにいる、という方がおられるでしょうか。
もしおられるなら、今朝の、主イエスのお言葉、「従って来なさい。そうすれば分かる」を、ご自分に対して、語られたお言葉として、受け取っていただきたい、と切に願います。
二人の弟子は、主イエスのお言葉に従って、主イエスについて行きました。そして、その晩、そこに、一緒に泊まったのです。
そして、二人は、こう言いました。「わたしたちはメシアに出会った」。
あのお方が、神様から遣わされたお方だ、ということが分かった。バプテスマのヨハネが、言っていたことが、本当だと分かった。
アンデレは、そう言って、兄弟のペトロの所に行って、ペトロを主イエスのもとに連れて行ったのです。
そして、もう一人の弟子は、そのことを伝えるために、この福音書を書いたのです。
罪のために、神様のもとに近付くことのできない、私たちのために、神様ご自身が、私たちの所に来てくださった。このことは、本当なのだ、と書き記したのです。
この弟子にとって、この体験は、生涯忘れることの出来ない、大きな出来事でした。
ですから、それは「午後四時ごろのことである」と、その出来事の起こった時間を、記さずにはいられなかったのです。
この時から、主イエスと共に生きる生活が、始まったのです。
それは、小さな、密かな、人知れずに起こった出来事でした。しかし、この弟子にとっては、まことに大きな出来事だったのです。
そして、それはまた、世界の歴史を揺り動かす出来事の、始まりでもあったのです。
フランスの思想家であり、優れた科学者でもあったパスカルは、研究と信仰の両方に行き詰まって、八方塞の状況にあったある夜、火のようなものに包まれるという、体験をしたそうです。パスカルは、この時、彼を襲った火のようなものを、神の来臨として受け取っています。
そして、この時が、彼にとって生涯忘れることの出来ない、回心の時となったのです。
彼は、この時の体験を、羊皮紙に書き記し、そのメモを胴着に縫いつけて、死ぬまで離さなかったそうです。
彼の死後、胴着に縫い込んだ、羊皮紙のメモが発見されました。
それには、そのときの時刻が、1654年11月23日夜10時半頃、ときちんと記されています。
そのような大きな体験をしたとき、人は、その時刻を記さない訳にはいかないのです。
この福音書を書いた、もう一人の弟子にとっては、あの日の午後4時ごろが、生涯忘れることのできない時刻となったのです。
ですから、時間を書き記さない訳には、いかなかったのです。
皆さんも、そのような、生涯忘れられない出来事を、いくつかお持ちだと思います。
私にとっては、2013年3月31日、午前10時15分。初めて、この教会の牧師として、皆様と共に、礼拝を献げた時刻は、間違いなく、生涯忘れることの出来ない、時刻となると思います。
さて、ペトロは、アンデレに連れられて、主イエスのもとに行きました。
ペトロは、そこで、何を体験したのでしょうか。
ペトロがそこで体験したのは、主イエスに見付けて頂くと言う事でした。
主イエスに、「見つめられる」、ということでした。
見つけられ、見つめられ、そして、新しい名前を頂く、ということでした。
「ケファ、―岩という意味―」という言葉には、この岩の上に教会を建てるために、主イエスが、ペトロをお選びになった、という意味が込められています。
こうしてペトロが、兄弟アンデレと、また、もう一人の弟子と一緒に、教会建設の業に着くようにと、既に、ここで、主イエスに命じられているのです。
そのようにして始まった、教会の歴史が、今、この茅ケ崎の地にいる、私たちのところにまで、続いているのです。
教会の歴史の第一歩が、ここに記されているのです。
神様が、本当に大きな決断をされて、主イエスを遣わしてくださった。
その主イエスが、振り返って、二人の弟子を見つめてくださり、一緒に生活することを許してくださった。
このように、主イエスの眼差しによって、捕えられた者たちが、鎖のように繋がりながら、教会は広がっていったのです。
そして、その鎖の一番端に、今、私たちも加えられているのです。
私たちも同じように、主イエスの眼差しによって、捕えられた者として、教会の歴史の一こまに、加えられているのです。
そのことを感謝しつつ、教会に、そして主イエスに、繋がっていきたいと思います。
「何を求めているのか」という主イエスの問いに、「主よ、あなたと共に生きることです」、と答えていくお互いでありたいと願います。