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柏牧師:過去の礼拝説教

「敵をも愛する愛」

2014年08月03日 聖書:マタイによる福音書 5:43~48

8月に入りました。この8月は、特に、平和について、考える機会が多くなります。

8月6日、広島の原爆記念日、9日、長崎の原爆記念日、そして15日、終戦記念日と、大切な記念日が続きます。

この時期、多くの人が、「もう二度と戦争を繰り返すまい。平和を大切にしたい」、という思いを新たにします。しかし、現実の世界は、そのような思いとは逆に、各地で戦争や紛争が相次ぎ、憎みや、争いが絶えません。

イスラエルとパレスチナの、終わることなき報復合戦、ウクライナ、シリア、アフガニスタン、イラクなどにおける、出口の見えない内戦、日本を取り巻く、中国や北朝鮮による脅威。

これらの現実に目を向ける時、あのクリスマスの夜に、天使たちが高らかに歌った、「天には栄光、地には平和あれ」、との賛美の歌声が、切実な願いとして、胸に迫ってきます。

そして、天の栄光の座におられる主が、涙を流して、悲しんでおられるお姿が、目に浮かんできます。なぜ神様は、泣いておられるのか。「地に平和」が、実現していないからです。

「天に栄光」と「地に平和」とは、ワンセットです。人が争っている限り、天の栄光が、どんなに素晴らしくても、その輝きが、地上に届き、褒め称えられることはありません。

神様が、極めて良いものとして、お造りになった、この世界が、破壊されている。

神様が、一人一人を、愛の対象として、造ってくださった人間が、お互いに殺し合っている。

私は、お互いが愛し合うために、あなた方を造ったのだ。それなのに、なぜ、あなた方は、お互いに殺し合うのか。

私は、あなた方が幸せに暮せるようにと、豊かな自然の恵みを、あなた方に与え、その管理を、あなた方に委ねたのだ。それなのに、なぜ、あなた方は、私が与えた、その自然の恵みを用いて、武器を造り、殺し合うのか。神様の、悲痛な叫びが、聞こえてきます。

この人間の愚かな行為が、天の栄光を曇らせています。

このような現実に対して、聖書は私たちにどのような御言葉を語っているでしょうか?

真っ先に、思い浮べたのは、先程読んで頂きました、マタイによる福音書5章44節の御言葉、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』、でした。

この御言葉の直前には同じような御言葉が語られています。『だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』

『汝の敵を愛せよ』。『右の頬を打たれたら、左をも向けよ』。

これらの御言葉は、聖書を読んだことのない人にも、広く知られています。

しかし、また、これらの言葉は、しばしば、皮肉を込めて、引用されることがあります。

『汝の敵を愛せよ』。「そんな事が出来たら、まことに結構だが、現実の世の中はそんなに甘いものではない。クリスチャンとは、まことにおめでたい人種だ」。

このように、クリスチャンを揶揄する言葉として、用いられることも、多いのではないかと思います。

それでは、私たちキリスト者は、この御言葉を、どうのように聴くべきなのでしょうか。

確かに、主イエスの教えは、私たちの常識を、超えています。

この世の常識は、敵と戦って、勝利するように、最善を尽くすことを、勧めます。

『敵を愛し、迫害する者のために祈る』。

これは、私たち人間の世界では、例のないことです。

もし例があるとすれば、父なる神様が与えられる、太陽や雨に例がある、と御言葉は語っています。

45節の御言葉は、『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである』、と教えています。

このように、神様にしか例がないこと。そういう「通常でない」生き方をするのが、天の父の子として生きることなのだ。そのように、御言葉は語っています。

そんなことは、不可能だ、非現実的だ。反射的に、私たちは、そう思います。

ある人が、この主イエスの御言葉は、私たち人間にとっての努力目標であって、現実には実行不可能なものである、と言っています。戦う前から、ギブアップ宣言をしています。

しかし、私達は、主イエスの御言葉を、そのようなものとして、片付けてしまって、良いのでしょうか?

もし、私たちが、主イエスの御言葉を、人間の常識の枠の中に、閉じ込めてしまうなら、人間社会の様々な問題も、決して解決しないのでないでしょか。

人間の常識が生み出す、様々な問題。それらを、本質的に解決するには、人間の常識の枠が、破られなければならないと思います。

主イエスは、聖書の中で、私たちに、「実行出来るかどうか考えなさい」、とは言われていません。人間にはできないことだ、と最初から結論を出してしまって、御言葉を真剣に受け取らなくても良い、とは何処にも書かれていません。

主イエスは、何も条件をつけずに、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、と言われたのです。

主イエスが、そう言われるからには、そのようにすることが、私たちに許されている。

そう信じて、小さな一歩を踏み出すしかありません。

そして、私たちが真剣に、この御言葉を、生きていこうとする時、私たちは、自分がいかに罪深い者であるかを、思い知らされます。そして、その時初めて、「十字架の赦しがなくては、決して救われることのない自分」、が示されます。

この御言葉に、まともに取り組まない限り、「主イエスの十字架は我がためなり」、との告白を、本当の意味で、自分のものとすることはできないのです。

極めて良いものとして造られた私たち、人間。その私たちが、人間本来の尊厳に、生きることができるか否か、その分岐点を示す言葉。それが、この御言葉なのだ。この御言葉は、それほどの重みを持っているのだ。聖書は、そう言って、私たちに迫ってきます。

46年前に、39歳の若さで暗殺された、マルティン・ルーサー・キング牧師は、「汝の敵を愛せよ」、この御言葉に基づく、説教集を出しています。

その中で、キング牧師は、こう語っています。

「『汝の敵を愛せよ』というイエスのご命令は、決してユートピア的”夢想”などではありません。それどころか、私たちの生存のために、絶対必要な教えなのです。

“敵をすら愛する”ことこそ、世界の諸問題を、解決するカギです。

敵をも愛すべき理由は、明白です。憎しみに対して憎しみをもって報いることは、ますます憎しみを増すからです。それは、既に星のない夜に、なお暗黒を加えることなのです。

暗黒は、暗黒を駆逐することができません。それはただ、光だけができることです。

憎しみは、憎しみを駆逐することはできません。ただ愛だけが、それをなし得るのです。

憎しみは憎しみを生じ、暴力は暴力を生み、かたくなさはかたくなさを増して、一路”破壊”へと向かっていきます」。

キング牧師は、自らが語った、この言葉に殉じて、その短い生涯を閉じました。

しかし、彼が、命懸けで語ったこの言葉は、今、ますます、世界の各地で、その重要性を増しています。

以前、週報の【牧師室より】で紹介したお話しですが、ドイツのベルリンの南に、大きな墓地があるそうです。1946年、第二次世界大戦が終わった翌年、その墓地で、一人の男が、毎日黙々と働いていました。

ベルリンでの激しい戦いで、多くのドイツ兵が命を失いました。亡くなった兵士たちの死体を、とにかく早く葬ろうというので、確認もせずに、纏めて、その墓地に埋葬したそうです。

この人は、葬られている死体を、一人ひとり掘り起こしては、その体に付いている認識票を調べて、身元を明らかにしていきました。

身元が分かると、近親者に連絡をとって、改めて新しい墓を作って葬る。

いつ終るとも知れないような、この困難な仕事を、この人は一人で、黙々と続けたのです。

実は、その人は、戦争中、ヒトラー政権によって、強制収容所に入れられていた、ユダヤ人であったそうです。

なぜ、あんなひどい迫害を受けた、ユダヤ人のあなたが、こういう仕事に力を入れるのか。そう尋ねられたとき、この人はこう答えました。

「何としてでも、私は憎しみを葬らなければなりません。自分の中にある憎しみを葬るために、この愛の業をしなければならないのです」。

憎しみは、自分で墓を作って、入ってはくれません。

私たちが、憎しみを葬らなければ、ならないのです。

憎しみを葬る唯一の力は、愛です。愛の業のみから、憎しみを越える、赦しが生まれます。

憎しみを持っている時、私たちは、不自由です。憎んでいる相手を、いつも意識して、相手に振り回され、自由になれないでいます。

相手の言うこと、なすことが、いちいち気になって、それに捕らわれて、がんじがらめに、なっています。そうして、本来の人間性を、失っていきます。

憎しみを葬り去った時、初めて、私たちは、人間としての、本来の姿に、生きられるのです。

『汝の敵を愛せよ』。この言葉は、そういう、ぎりぎりの線上に、置かれている言葉なのです。

もう一つ、キング牧師の言葉を、紹介させていただきます。意表を突くような言葉です。

「主イエスは、汝の敵を愛せよ、と言ったのであって、汝の敵を好きになれ、と言ったのではない。これは、注意すべきことである」。

キング牧師は、「好き」というような、単なる感情ではなく、「愛する」という、意志と決断の世界に、立つことによって、人は人間性を保つことができる、と言っています。

「愛」という決断や意志が、「好き」という感情を超えて、人間性を回復させる、というのです。

「好きの最上級は、愛しているではない」、という言葉があります。

昔人気があったアニメ、「一休さん」のテーマソングは、「好き、好き、好き、好き、好き、好き、愛してる」、と歌っていました。

「好き」が6回繰り返されて、「愛してる」に達するかのように、聞こえます。しかし、実際には、「好き」が六つ集まっても、「愛してる」には昇格しません。

では、「好き」を最上級まで極めると、どうなるでしょうか?

まことの「愛」は相手中心です。でも「好き」は自分中心です。

ですから、「好き」が最上級になれば、究極の自己中心となります。

そして、時にそれは悲劇にも、つながります。不健全な人間の場合は、「好き」が最上級に達すると、ストーカー行為に及ぶことさえあるのです。

キング牧師は、こう言っています。「好き、という言葉。英語の“like”という言葉ですが、この言葉は、似ている、という意味も持っている。彼のように、という英語は、like him、です。

つまり、好きということは、似た者同士が、お互いに親近感を覚える。そういう世界のことなのである。

これに対して、愛する、ということは、違うもの、異なるものとしての、他者を、敢えて受け入れ、それを認める。そういう行為、そういう決断である。

だから、主イエスは、汝の敵を愛せよ、と言ったのであって、汝の敵を好きになれ、と言ったのではない」。

キング牧師が、このように述べた背景には、「隣人を愛し、敵を憎め」、と語られている、43節の言葉があったからだと思います。

この当時のユダヤ人にとって、隣人とは、同じユダヤ民族の同胞のことでした。そして、敵とは、異邦人のことでした。

異邦人は、我々とは、違う。我々とは、異なった神を信じ、異なった律法を持ち、異なった言葉を話し、異なった文化を持っている。

だから、異邦人は敵として排除し、同じ仲間、似ている者同士だけで、仲良くしよう。

これは、「愛」ではなく、「好き」の世界です。

主イエスが教えられたのは、そのような「好き」の世界に立つことではなくて、違いを受け入れ、違いを認めていく、愛の世界に、立つことであったのです。

『汝の敵を愛せよ』。 この御言葉が実行できるかどうかを、ストレートに質問した宣教師がいました。エリック・リデルという英国の宣教師です。

エリック・リデルはパリで開かれた第8回オリンピックの400メートルリレーで金メダルを取った、英国の国民的英雄です。オリンピックの後、彼は、中国伝道に一生をささげた、父の後を継いで、中国に渡り、熱心に伝道活動を続けました。

しかし、第二次大戦が起こり、日本軍に捕らわれ、捕虜となります。

そして、終戦の直前に、43年の人生を、中国北部の日本軍の収容所にて終えました。

彼は、収容所の中でも、英国人の青少年たちに、聖書の御言葉を語り、若い彼らに、決して希望を捨てないように、と励ましを与えました。

若い彼らは、中国人や捕虜に対する、日本軍の非道な行いを見て、生きる希望を失いかけていたのです。

そのような状況の中で、エリック・リデルは、「山上の説教」を、少年たちに読み聞かせました。そして、「君たちは、敵を愛せるか」、と彼らに質問したのです。

彼らは、「あのようなひどいことをする、日本軍を愛することなど、とても出来ません」と答えました。

エリック・リデルは彼らに語ります。「私自身も『出来ない』と思う心が強い、しかしこのみ言葉には続きがある。『敵を愛せ』の後に、『迫害する者のために祈れ』、と主は言われたのだ。愛することは、できなくても、祈ることはできるだろう。

憎しみの中にいる時、君たちは自分中心になる。しかし、迫害する者のために祈る時、君たちは神中心になる。そして、神中心になる時、神が愛している人々を、君たちは、愛さずにはいられなくなるのだ。」

「敵を愛する」という、常識を超えた行為は、祈りを通して、初めて可能となる、とエリック・リデルは言っています。

「敵を愛する愛」は、人間の常識を超えた、愛です。通常のことではありません。

エリック・リデルも、自分自身の中には、そのように愛する力がないことを、知っていました。

彼は、祈りを通して、初めて、そのような愛へと導かれたのです。

実は、私たちも、「敵を愛する愛」を、目撃しています。いいえ、ただ目撃しているだけではなく、私たち自身が、「敵であるにも拘らず、愛されている」のです。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、このように語っています。

『私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました』。(5:8)

『敵であったときでさえ、御子の死によって、神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって、救われるのはなおさらです』。(5:10)

父なる神様が、私たちを愛してくださる。それは文字通り、「敵を愛する愛」なのです。

私たち自身が繰り返し、繰り返し、神様に逆らう罪人であり、正しくない者だからです。

そのような敵である私たちを、尚も愛し、独り子の命を犠牲にしてまでして、救ってくださる。それが神様の愛です。

今朝の御言葉の最後、48節で、主イエスは、こう言われています。

『あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。』

この御言葉の前に、私たちは立ち止まってしまいます。そして、再び、つぶやきます。

「なぜ、聖書は、このような無理難題を、要求するのか。神様と同じように、完全になるなど、出来っこない。無理に決まっている」。そう言って、うずくまってしまいます。

しかし、ここで、「完全」と訳された言葉は、道徳的に「完全無欠になれ」、という意味ではありません。そんなことは、誰にも出来ません。ここにある「完全になる」、という言葉は、「完成する」とか、「成し遂げる」、という意味の言葉です。

神様は、私たちに対する、愛の業を成し遂げられました。敵である私たちを、尚も愛してくださり、大切な独り子の命さえ、犠牲にしてくださいました。

主イエスは、その父なる神様の御心に沿って、十字架に架かってくださいました。

そして、その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか、知らないのです」、と叫ばれました。自分を迫害する者のために、祈られたのです。

そのように、神様は、ご自身の業を、成し遂げられた。

そうであるなら、その業によって救われた、あなた方も、自分に委ねられた愛の業、赦しの業を、成し遂げなさい。

神様は、全能なるお方としての業を成し遂げられた。そうであるなら、欠けのあるあなた方は、あなた方の限られた力の範囲で、出来る限りのことを、成し遂げなさい。

御言葉は、そのように、言っているのです。私たちは、神様と同じことなど出来ません。

私たちは、私たちに出来ることを、精一杯、成し遂げれば、良いのです。

敵である私たちのために、命をささげてくだった、十字架の主イエスを、見上げつつ、私たちの業を、成し遂げればよいのです。

教会は、敵であったのに、いや今もなお敵であるのに、愛され、そして赦された者たちの、集まりです。

「敵を愛する愛」が教会を覆っているのです。教会が、常識を超えているとすれば、それはこの、「敵を愛する愛」によって、集められ、造られ、生かされているからです。

ですから、教会に集められた、一人ひとりは、迫害する者のために、祈るのです。

そして、その祈りにおいて、「敵を愛する愛」へと、一歩一歩導かれていくのです。

中国や韓国で、反日感情が高まっている今こそ、また国内でも、多くの人の愛が冷めている今こそ、「敵を愛する愛」に生かされた私たちが、その神様の愛を、この世に示していくことが求められているのです。 主イエスは、今日も私たちに語られています。

『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』