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「新しく生まれる」

2014年09月21日 聖書:ヨハネによる福音書 3:1~15

今朝の御言葉には、主イエスと、ニコデモとの対話が、記されています。

ヨハネによる福音書には、このような長い対話が、幾つも記されています。

例えば、続く4章では、主イエスと、サマリアの女との、対話が記されています。

今朝の箇所のニコデモとの対話が、「夜の対話」であるとすれば、サマリアの女との対話は、「真昼の対話」であると言えます。

ヨハネによる福音書は、このような対話を通して、私たち一人ひとりを、主イエスご自身との対話へと、導いているのです。

1節に、ニコデモは、ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であった、とあります。

ここでは、議員と訳されていますが、原語は、指導者とも、有力者とも、訳せる言葉です。

ファリサイ派というのは、「自分を、他の人から、区別する人たち」、という意味です。

他の人たちが、どのような生活をしようが、自分たちだけは、厳格に律法を守って、正しい生活をしよう。そう決心していた人たちです。

ニコデモは、そのような、ファリサイ派に属する、指導者であったのです。

それだけではなく、ニコデモは、かなり裕福な人、であったようです。

この福音書の19章には、主イエスが、十字架につけられて、墓に埋葬された出来事が、記されています。

その39節に、こう書かれています。『そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。』

「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ」、とありますが、これは相当高価なものでした。

お金持ちでなければ、このような高価なものを、直ぐには用意できません。

ですから、ニコデモは、多くの面で恵まれた人物であったのです。地位があり、名誉があり、知識があり、そして財産もあった。

これらの一つでもあればいいのに、と思っている人が、世の中にはいっぱいいるのに、ニコデモは、それらを、一つだけでなく、二個でも(ニコデモ)、三個でも、持っていたのです。

そのニコデモが、「ある夜、イエスのもとに来て言った」、と書かれています。

なぜニコデモは、主イエスのところに、わざわざ夜になってから、やって来たのでしょうか。

「ある夜」と、わざわざ書いているのですから、御言葉は、「夜」ということに、意味を持たせている筈です。

先ほど引用した19章39節でも、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」、と紹介していました。そのように、夜にこだわっているのです。

では、夜の訪問に、一体どういう意味があるのでしょうか。聖書は、それを、明らかにしてはいません。そこで、さまざまな解釈が生まれて来ます。

昼間は、忙しく働いているので、ゆっくりと話し合える、夜を選んだのかもしれません。

しかし、最も代表的な見方は、こういうものです。

ニコデモは、律法の教師として、また民衆の指導者として、人々の尊敬を集めていました。

一方、この時の主イエスは、ガリラヤから来た、一介の貧しい伝道者でしか、ありませんでした。しかも、ニコデモより、ずっと年少の、若造です。

そのような人のところに、教えを乞いに行った。

そのことが、人に知られ、評判になることを、恐れた。だから、人に見られないように、夜、こっそり訪ねたのだ、という解釈です。

私たちも、同じような、弱さを感じることがあります。

キリストを告白する時に、世間体を気にする自分がいる。人目が気になる自分がいる。

私たち自身の中に、キリスト者であることを、他人の前で明らかにするのを、ためらうようなところがある。私たちは、心の片隅に、そのような、弱さを持っています。

ニコデモも、そのような弱さを持っていました。しかし、一大決心をして、夜の闇に紛れてでも、主イエスのもとに来たのです。これは、大変勇気のいることだったと思います。

真実に出会いたい。真理を知りたい。そういう切なる願いから、勇気を振り絞って、主イエスのもとを訪ねたのです。

教会に初めて来られる方の中にも、そのように勇気を振り絞って、やっとの思いで来られる方が、おられると思います。

私たちは、そのような方々を、温かい言葉と、心からの笑顔で、お迎えしたいと思います。

一言の言葉、ひとつの小さな行為に、大きな愛を込めて、お迎えしたいと思います。

ニコデモは、魂の切なる飢え渇きに、押し出されるようにして、主イエスの許を訪ねました。

この世の成功者であるニコデモが、直面していた問題。

それは、いったい何だったのでしょうか。

先ず、ニコデモは、主イエスに対して、このように呼びかけています。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

ここでニコデモは、主イエスを、「ラビ」と呼んでいます。これは、律法の教師を、尊敬して呼ぶときの、呼び名です。主イエスを、自分の先生として受け入れる、と言っているのです。

それどころではありません。「神があなたと共におられる」、とまで言っています。

これは、素晴らしい挨拶です。こんな挨拶を受けたら、誰もが、喜ぶと思います。

ところが、主イエスは、そのような挨拶とは、全く関係のないことを、言われました。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。

3節の御言葉は、「イエスは答えて言われた」、と記しています。

主イエスは、「お答えになった」、と言っているのです。でも、ニコデモは、質問していません。挨拶しただけです。ですから、対話としては、繋がっていません。

でも、主イエスは、挨拶の言葉の中に、ニコデモが抱えている問題を、既に見抜かれていました。ニコデモが抱えていた問題。それは、いったい何だったのでしょうか。

それは、「どうしたら、神の国を、見ることができるのか」、という大きな問いでした。人生における、最も大切な、この問いに対する答えを、ニコデモは、ずっと探し続けていたのです。

ナザレのイエスよ、あなたは、ラビと呼ばれるに相応しい、すぐれた教師のように見える。

あなたが行っている、素晴らしい癒しや奇蹟は、神様のご支配を、顕わしているように思える。神様が、あなたと共に、おられるからに、違いない。

そういう方であるならば、答えることができるでしょう。

神様のご支配は、どこに見えるのですか。神の国を見せて欲しいのです。

恐らく、ニコデモは、そのような思いをもって、主イエスに、挨拶をしたのだろうと思います。

主イエスは、そのようなニコデモに対して、「はっきり言っておく」、と語り始められました。

今朝の箇所に、3回も出てくる、「はっきり言っておく」、と訳された言葉の原語は、「アーメン、アーメン」、という言葉です。

文語訳聖書では、原文に忠実に、「まことに、まことに」、と訳されていました。

「これから話すことは、とても重要なことですよ。決して聞き逃してはいけない、大切なことなのですよ」。そういう主イエスの思いが、込められている言葉です。

続けて、主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と言われました。

あなたは、生まれ変わって、別の生き方をしなければ、神の国を、見ることはできない。

神様のご支配の中を歩んでいくためには、新たに生まれなければならない。

主イエスは、そう言われたのです。

この主イエスのお言葉を聞いて、ニコデモは、途方に暮れます。4節は、当惑した、ニコデモの言葉を伝えています。「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょうか」。

これは、素直な、と言うよりも、愚かとも言えるような問いです。一度生まれてしまった人間は、母の胎内に戻ることなどできません。そんなことは、誰でも知っています。

「新たに生まれる」。これはしばしば、「もう一度やり直す」、ということだ、と理解されます。

私たちは、二十代であれば、まだやり直せる、と思っているかもしれません。

しかし、だんだん歳を取って来ると、もはや、やり直しは難しいと感じます。

ニコデモも、そういう意味で、「新たに生まれる」ということを、考えていたのかもしれません。歳を取ったこの私が、どうして、やり直すことができるのか。

まして、ニコデモは、ユダヤ人の指導者として、人々から尊敬され、高い身分と名誉を得てきました。

その生活を、全部投げ出して、また一からやり直すことは、一層難しく思えたと思います。

「新たに生まれる」。ここで、「新たに」、と訳されている言葉は、もともとは、「上から」という意味の言葉です。

「人は、上からの力で、生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と主イエスは、語られたのです。

では、その「上からの力」とは何なのか。そのことを、主イエスは、5節で説明しています。

「だれでも、水と霊とによって、生まれなければ、神の国に入ることはできない」。

「上からの力で、生まれる」とは、「水と霊とによって生まれる」、ということだ、と言われているのです。

ここでの水は、明らかに、洗礼を意味しています。主イエスは、水による洗礼を受け、上からの聖霊の注ぎを、受けなければ、神の国に入ることはできない、と言われたのです。

洗礼を受けた時に、上から聖霊が注がれる。そして、神様が今も生きておられ、この私に働いておられることが分かる。そのことを、受け入れること。

それが神の国に入る、ということなのだ。主イエスは、そのように言われたのです。

「水と霊」によって、と言われた主イエスは、洗礼を受けることの大切さを説かれました。

しかし、それにも増して、ここで、主イエスが強調されているのは、「霊を受ける」、ということです。上よりの霊によって、生まれ変わる、ということです。

神の国に入るとは、霊的に誕生することである、と主イエスは、言われているのです。

ところが、ニコデモは、霊的な誕生が、どのようにして起こるのか、どうしても分かりません。

戸惑うニコデモに対して、主イエスは、ここで、不思議なことを言われています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」。

「風」、これは二重の意味を持った言葉です。「霊」とも訳せる言葉なのです。

ギリシア語でもヘブライ語でも、風と息と霊。この三つは、同じ一つの言葉なのです。

ですから、ここは、「霊は思いのままに働く」、とも訳すことができます。

主イエスは、言われました。霊的な誕生が、どのようにして起こるのかは、誰にも説明できない。それは、人間の理解を、超えたことなのだ。

それは、風が、どこから吹いて来て、どこに行くのか、分からないのと、同じなのだ。

確かに、私たちは、風を見ることはできません。でも、木々が揺れ、雲が動くのを見て、風が吹いていることを、私たちは、知ることはできます。

同じように、私たちは、聖霊を、この目で見ることはできません。しかし、聖霊が、私たちの人生に、豊かに働いてくださった結果を、体験することはできます。

私たちの内に働かれる、聖霊によって、私たちは、慰めや、平安を与えられます。

希望や、勇気に満たされます。霊的に誕生するとは、そういうことなのです。

私たちは、以前は、主イエスのことを知りませんでした。でも、今は、こうして、主イエスのことを、心から賛美しています。こうして、主イエスを、喜んで礼拝しています。

聖書の御言葉によって、支えられ、励まされています。どうしてでしょうか。

風が吹いているからです。聖霊の、爽やかな風が吹いていて、私たちが、それを吸い込んでいるからです。

聖霊の風が、私たちを生かし、私たちに命を与えてくださっているからです。

ですから、私たちは、主イエスを信じ、主イエスを礼拝する喜びに、生かされているのです。

聖霊は、風のように、自由に働かれます。

でも、私たちを無視して、勝手気ままに、働かれるのではありません。

聖霊なる神様の本質は、愛です。ですから、私たちにとって、最も良い風を、吹かせてくださいます。私たちの思いを超えた、豊かな恵みの風を、吹かせてくださるのです。

でも、もし、私たちが、その風を遮る壁を、自分の周りに、張り巡らせてしまうなら、折角の良い風も、私たちに、届きません。

罪の中にいる私たちは、自分の思いや、自分の考えや、自分の先入観で、壁を作ってしまっています。自分中心という、厚い、罪の壁を作ってしまっています。

そういう時、聖霊の風は、私たちに届きません。

そして、その時、私たちと、神様との交わりは、断絶してしまっています。

活き活きとした、聖霊の息吹きを、吸い込めずに、霊的な窒息状態に、陥っています。

主イエスは、このような、霊的窒息状態にある、私たちは、「上からの力で、霊的に生まれ変わる」ことが、必要だと、教えられたのです。

でも、ニコデモは、そのことが理解できません。

主イエスは、そんなニコデモに対して、「あなた方が作ってしまった、罪の壁を打ち砕くために。その壁に、風穴を開けるために、私は、十字架につくのだ」、と語られました。

「モーセが荒れ野で、蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって、永遠の命を得るためである」。

ここで、主イエスが、語っておられるのは、民数記21章に記されている、出来事です。

荒野でイスラエルの人々が、罪を犯した時に、神様が蛇を遣わして、罪を犯した者を、滅ぼされました。人々は、そのことによって、自分の罪を、悔い改め、神様の赦しを願いました。

その時、神様は、モーセに、その蛇を、旗竿の先に掲げて、人々に見せる様にと、命じられました。そして、モーセが掲げた、その蛇を見上げた者は、死を免れた、という出来事です。

自分たちの、罪の裁きの徴であった蛇。しかし、それは、心から悔い改めた者が、仰ぎ見た時に、逆に、命をもたらすものとなった。

ここで、主イエスは、旗竿の先に掲げられた、その蛇の姿に、ご自分のお姿を託して、語っておられるのです。

悔い改めた心をもって、十字架の主イエスを見上げていく時に、私たちは、聖霊によって捉えられるのです。

活き活きとした、聖霊の風が、私たちの心の中に、吹き込み、命を与えてくださるのです。

スポルジョンという、19世紀後半に活躍した、有名な英国の説教者がいます。

そのスポルジョンが、まだ十代の時のことです。彼は、さまざまな悩みを抱いて、ある説教者の言葉を聞きに出かけました。

ところが悪天候になって、目的とする教会堂まで、辿り着けそうも、なくなったのです。

仕方なく、途中で見かけた、小さな教会堂に、飛び込みました。

ところが、その教会の集会でも、天候が悪いために、牧師が来ていなかったのです。

困って、信徒の一人が、説教を始めました。その人は、使徒信条を唱えていきました。

どのように唱えたかといいますと、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けた。わたしを見なさい。十字架につけられ、死んで葬られた。わたしを見なさい。三日目に死人の中から甦った。わたしを見なさい」、という風に、「私を見なさい」、と繰り返したのです。

「わたしを見なさい」、という神様の言葉が、使徒信条に織り込まれる。

神様に起こった出来事、神の御子に起こった出来事、それを見なさい。

「天に昇って父なる神の右に座した。わたしを見なさい」。

この信徒伝道者は、そこでスポルジョンに向かって、言ったそうです。

「あなたも罪を悔い改めなさい。この方を見上げなさい」。

スポルジョンは、それで立ち直ったのです。

砕けた心で、十字架の主イエスを、仰ぎ見ることができた時、神の国が見えたのです。

この後、讃美歌の280番を、ご一緒に賛美いたします。

この讃美歌は、この人を見よ、主イエスを見よ、と繰り返して、私たちに迫ってきます。

特に、その3節の歌詞は、こう歌っています。

「すべてのものを あたえしすえ/死のほかなにも 報いられで/十字架のうえに あげられつつ/敵をゆるしし この人を見よ」。

この讃美歌が、歌っているように、十字架の主イエスを仰ぎ見つつ、その十字架から吹いてくる、聖霊の風を、胸いっぱいに、吸い込みたいと思います。

その聖霊の風によって、日々新しくされ、日々新たな恵みに満たされて、歩んでいくお互いでありたいと願います。