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過去の礼拝説教

「恵老の祈り」

2014年09月14日 聖書:コヘレトの言葉 12:1~14

今朝は、ご高齢の方々に、更なる祝福をお祈りする、ファミリー礼拝を、献げています。

この茅ヶ崎恵泉教会に、多くの信仰の先輩方がおられ、そのお姿を通して、神様の恵みと祝福を、見させていただけることを、心から感謝いたします。

何も仰らなくても、先を歩いてくださる、先輩方の後ろ姿が、私たちにとって、何よりの導きであり、また励ましです。 お一人お一人が、まさに茅ケ崎恵泉教会の宝です。

先輩方のお陰で、茅ヶ崎恵泉教会は、神様の恵みの、宝庫となっています。

さて、今朝の説教の題を、「恵老の祈り」、とさせて頂きました。

但し、「敬う」という字ではなくて、「恵み」という字を当てて、「恵老」としています。

これは当て字で、私の造語です。ご高齢の方々に、更なる恵みがありますように、という祈りを込めて、この説教題にしました。

ところで、最近つくづく思うのですが、教会に集う方々は、皆さん本当に、お若いです。

お気持ちの面でも、お体の面でも、お若い方が多いと思います。

これは勿論、神様の恵みの故だと思います。聖書を通して、新しい恵みの発見に、わくわくするような感動を覚える。そして、また、教会において、たくさんの人たちと出会い、自分のためだけではなく、他の人のために祈る。

そういう感動や、生き甲斐を、感じておられることが、若さを保たれている、秘訣ではないか、と思わされます。

世界中を虜にした絶世の美女、オードリー・ヘップバーンは、その晩年、化粧気のまったくない素顔を、堂々とさらして、こういっています。

「確かに、私の顔にしわも増えました。ただ、それは、私が、多くの愛を、知ったということなのです。だから、私は、今の顔の方が好きです。」

しわだらけの、オードリー・ヘップバーンには、若いころになかった、美しさがありました。

この茅ケ崎恵泉教会にも、そのような美しさを持った、先輩方が、たくさんおられます。

そのような信仰の先輩方を、お迎えする後輩たちは、先輩方がいてくださることを、心から感謝し、喜びをもって、お迎えしたいと思います。

笑顔をもってお迎えし、お言葉を掛けることを、忘れないようにしたいと思います。

お若くて、お元気な時は、率先して、ご奉仕をして下さっていた先輩方。

まさに、大黒柱として、教会を支え、守ってこられた先輩方。

その先輩方も、年を取られると、教会の椅子に座っていること自体が、一仕事となります。

教会でのお仕事が、「する、できる」ということから、「いる」ということへと、変わっていく。

そういうご自分を、礼拝の中に保っていくという、大切なお仕事が、お年を召した先輩方にはあると思うのです。

世間一般には、そのような、「いる」だけの世界を、肯定する言葉はありません。

しかし、教会の中であればこそ、「よくおいで下さいました。お会いできて嬉しいです。ご一緒に礼拝を献げられることを、感謝します」と、心から言えるのではないでしょうか。

そして、お年寄りの方々も、堂々と、「いる」ことを、良しとしていただきたい、と思います。

これらのことが、自然に行われている、茅ケ崎恵泉教会であって欲しい、と願います。

さて、今朝の週報の、【牧師室より】のコラムで、「最上のわざ」という題の詩を、紹介させていただきました。

この詩は、ヘルマン・ホイヴェルスという、カトリック教会の神父が、54年に亘る、日本でのお仕事を終えて、故郷の南ドイツに帰った時に、友人から送られた詩だそうです。

読ませていただきます。お手元の週報をご覧ください。

「最上のわざ。  この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、

しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを、少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』 と。」

私は、この詩を、読むたびに、全くその通りだと思わされます。

終わりの部分で、「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ」と言っています。

私たちには祈り、祈られる、という恵みが、与えられています。たとえ何もできないような状況にあっても、祈ることが許されている。それは、なんと素晴らしい恵みでしょうか。

孤独となり、内にこもり、外との関係が、失われているように見えても、神様が私たちに働きかけてくださっている。

そして、その神様に祈ることができる。これは素晴らしいことです。

また、この詩の中にある、「老いの重荷は神の賜物」という言葉。これも、すごい言葉です。

確かに、老いの重荷を、神様からの賜物として、受け止めることができれば、老いに対する向き合い方が、変ってくると思います。

しかし、そのように受け止め、納得するということは、そんなに簡単ではありません。

それは、なかなかできないことです。やはり、老いは、辛い苦しいことであるのは事実です。

今朝、与えられた御言葉は、旧約聖書コヘレトの言葉、12章です。

コヘレトとは、集会の責任者として、集会で語る者、という意味の言葉です。

今日の箇所には、人間が年を取ると、あらゆる面で体が弱り、また不自由になる、という現実が、厳しいまでに描かれています。

「働きたいけれど休み、しゃべりたいけれど黙り」、「弱って、もはや人のために役だたずとも」と、「最上のわざ」で歌われていたことが、もっと生々しく語られています。

3節、4節はこう語っています。「その日には/家を守る男も震え、力ある男も身を屈める/

粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ./通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ/鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。」

ここには、年を取って、肉体が衰えていく様子が、比喩的に語られています。

3節の「家」は体のことを言い表しています。「家を守るもの」とは、手のことです。

確かに、年を取ると、手が震えるようになります。

「力ある男」とは、足のことです。年を取って、足が衰える様子を、言い表しています。

「粉ひく女」は、歯のことで、歯が抜け落ちて、減っていくことを言っています。

「窓から眺める女の目」とは、視力のことで、目もかすんで、良く見えなくなるというのです。

4節の、「通りの門」は、耳のことであると思われます。耳も閉ざされて聞こえなくなっていく。

「粉ひく音はやむ」という言葉は、胃腸の消化活動が衰えることを、言い表しています。また、「鳥の声に起き上がる」という言葉は、眠りが浅くなって、早起きになることを表現しています。「歌の節は低くなる」とは、美しい歌声がもう出せなくなる、ということです。

何とも聞くだけで辛いことですが、どれもこれも現実です。

もう結構と、耳を塞ぎたくなる思いですが、コヘレトの言葉は、尚も続きます。

5節、6節です。「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、

いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。

白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。」

「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある」、と語られています。

これは、若い時には、何でもなかったのに、少し高い所に上ることすらできず、平らな道でさえ、歩くのが怖くなる様子を言っています。

「アーモンドの花は咲き」は、髪の毛が、野生のアーモンドの花のように、白くなることです。

もっとも、これは、私にとっては、少しうらやましいことです。

「いなごは重荷を負い」は、文字通り、動作が鈍くなることを言っています。

「アビヨナは実をつける」とあります。当時、アビヨナの実は、強壮剤として用いられていましたので、体力が衰えて、薬の力を借りても回復しない、ということを言い表しています。

「人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る」。永遠の家とは、お墓のことです。

泣き手とは、葬式の時の、泣き女たちのことを言っています。

そして、白銀の糸が断たれるように、命は絶たれると言っています。

黄金の鉢が砕けるように、脳の機能は停止し、泉のほとりの壺が割れ、井戸車が砕けて落ちるように、心臓の機能も停止する、というのです。

そして、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」のです。

7節の言葉は、死についての、厳粛な説明です。

老いと死の比喩を、これでもか、これでもかと繰り返されて、何か、暗い気持ちにさせられてしまいました。しかし、残念ながら、どれもこれも現実です。

これまで、当たり前にできていたことが、少しずつできなくなる、それを現実のこととして受け入れるのは、辛いことです。

「コヘレトの言葉」は、このような老いの現実を、厳しく述べた後で、この書の特色である言葉を、ここでも繰り返しています。

8節の言葉です。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」

人生は空しい、労苦もいったい何になろう。コヘレトはこの言葉を繰り返しています。

「空しい」という言葉は、旧約聖書に90回出てきますが、その半分は、このコヘレトの言葉に集中しています。しかし、コヘレトは、所詮人生は空しいのだから、どう生きてもよいと、やけっぱちになっているのではありません。

コヘレトが言いたいことは、13節、14節に結論として語られています。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。

神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」

これが、コヘレトが、この書全体を通して言いたかったことです。

この世に生きることはなんと空しいことか。働いても楽にならず、より賢くなろうとしても無駄なことだ。善人が苦しむことがあり、悪人が栄えることがある。

貧しい者が虐げられ、富める者は、富に満足することを知らない。

しかも、その最後には、辛く、苦しい老いが待っている。なんと空しいことだろう。

しかし、しかしです。このような私たちを、神様は、いつも見ていてくださる。

たとえ、何もできなくなっても、手が動かなくなって、合掌することさえ出来なくなっても、神様は共にいてくださり、私たちの苦しみ、辛さを、担っていてくださる。

そこに、私たちの希望があり、生きる道がある。 コヘレトは、このことを言いたいのです。

クリスチャンの内科医である、山形謙二さんという人が書かれた、「隠されたる神」という本の中に、ジョニー・エレクソンさんという、女性のことが書かれています。

1967年、17歳のとき、海岸で、ダイビングを楽しんでいた彼女は、誤って浅瀬に飛び込み、首の骨を折ってしまいます。首の下の一切の自由がなくなった彼女は、死を願います。

しかし、自分の力で死ぬことさえできません。

神様がおられるならば、どうしてこのようなことになったのか、と苦しみ悩みます。

そして、あらゆる哲学書などを、読み漁りますが、答えは見つかりません。

そのような状態が、およそ3年間続いたそうです。

そしてあるとき、彼女は、これまでの思いが、一挙に覆されるような、言葉に出会うのです。

それは、彼女の友人が口にした、この一言でした。

「十字架上のイエス様も、あなたと同じように、手や足を全く動かせなかったのよ」。

この言葉によって、立ち直った彼女は、言っています。

「私は、首から下を全く動かせません。これは恐ろしい、嫌なことです。

でも、それでもなお、神様は、私を用いてくださるのですか。

こんな私でも、なお神様を礼拝し、神様を愛することができるのですか。

そうだ、できる、と神様は、私に教えてくださったのです。」

ジョニー・エレクソンさんを立ち直らせた言葉、「十字架の主イエスも、四肢麻痺だったのよ」。この言葉と、同じことを言っている詩があります。

ジョン・キーブルという牧師が作った、短い詩です。

「容赦ない非難の眼射しに曝されても/十字架につけられた主は、手で御顔を覆うこともできなかった。/罵りの嵐から耳を塞ぐこともできなかった。」

十字架の主イエスは、非難と、蔑みの眼差しを避けるために、ご自分のお顔を、手で覆うことさえもできなかった。罵りと嘲りの言葉を避けるために、耳を覆うこともできなかった。

そんな主イエスだからこそ、私たちの、どんな痛み、どんな苦しみも、分かってくださり、どこまでも寄り添ってくださるのです。

祈るために、手を合わせることすら出来ない。誰一人分かってくれない、そんな苦しみ、そんな辛さも、主イエスだけは、共に担ってくださり、慰めてくださる。

「私は、あなたの痛み、苦しみが、分かる。なぜなら、私は、十字架において、もっと辛い痛み、苦しみを、味わったのだから」。主イエスは、そう言って下さっているのです。

コヘレトは言います。私たちは、その神様に信頼し、その神様に従って歩もうではないか。

これこそが、人間にとって、すべてなのだ。これが、人間にとって、最も大切なことなのだ。

その最も大切なことを、否定して生きるから、人生は空しくなるのだ。空の空となるのだ。

これが、コヘレトが私たちに言いたかったことなのです。

今日の御言葉にあったように、私たちはいつか、何かを出来なくなる自分を見い出します。

体が弱り、手が震え、足がかがんでしまう。そんな自分を見い出します。

多くのものを失っていきます。それは辛いことです。

しかし、そのような中で残されているものがある、それは祈りであると「最上のわざ」で教えられました。

「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。」

ここで「最後に残るもの」、と言われていることに、注意をしたいと思います。

人生を好き勝手に生きて来て、何もできなくなったときに、それではこれから、祈りでも始めようか、というのではありません。そんなことで、祈りの生活が、始められる筈がありません。そうではなくて、常日頃から、神様を畏れ敬い、祈る生活をしていく時に、他のすべてのものが取り去られても、残るものがある。それが祈りなのだ、と言っているのです。

だからこそ、今朝の御言葉、12章の1節で、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」、と教えられているのです。

口語訳聖書では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」、と訳されていました。

青春の日々、若い日、と書かれていますが、誰にとっても、この言葉は大切です。

若い者にとっても、年を取った者にとっても、「あなたの創造主に心を留めること」、「神を畏れ敬うこと」、これこそが「最上のわざ」であるのです。

ですから、神様を畏れ敬い、祈る生活を心掛けましょう。

もう既になさっている人も、それをより深めていきましょう。それを、今から、始めましょう。

もう年を取ってしまって、今更、新しいことを始めるなんて、遅すぎる、とお思いでしょうか。

そんなことはありません。たとえ、あなたが、お年を召していても、そんなことは関係ありません。80歳であろうと、90歳であろうと、いや100歳であろうとも、今日から始めましょう。

祈りと御言葉を、「最上のわざ」とする生活を、今日から始めましょう。

これからの人生を眺めた時、今のあなたは、一番若いのです。

今日のあなたは、明日のあなたより、若いのです。今日のあなたは、1ヶ月後のあなたより、間違いなく若いのです。コヘレトは、そう語りかけているのです。

今から50年ほど前に、アメリカの社会運動家の、チャールズ・ディードリッヒという人が語った、有名な言葉があります。

「今日という日は、あなたの残りの人生の、最初の日です」、という言葉です。

この言葉は、多くの人を勇気付けて来ました。

そうなのです。これからの人生において、今日は第一日目なのです。

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」。

ご一緒に、今日から、新しい歩みを始めようではありませんか。