MENU

過去の礼拝説教

「神の家にいる幸い」

2014年09月07日 聖書:ヨハネによる福音書 2:13~25

今朝の御言葉は、主イエスが、過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムの神殿に上られた時の出来事を記しています。

ヨハネによる福音書には、主イエスが、過ぎ越しの祭りのために、エルサレムに行かれたという記事が3回出てきます。

このことから、主イエスが、救い主として働かれた期間、いわゆる主イエスの公生涯は、大体3年間であっただろう、と言われています。

今朝は、その最初の過ぎ越しの祭りの出来事です。場所は、エルサレム神殿の境内です。

この神殿は、ヘロデ大王の手によって、紀元前20年頃から建設が始められました。

主イエスが、宣教活動を始められたのは、30歳位の時であったと見られていますから、この時は、神殿が建て始められてから、50年位が経っていたと思われます。

20節で、ユダヤ人たちが、「この神殿は建てるのに46年もかかった」、と言っていますが、時間的には、ほぼ一致します。

このエルサレムの神殿は、まさにユダ人の誇りでした。

しかし、今日の箇所の19節で、主イエスは、こう言われています。

『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』。

ここで、主イエスは、神殿の崩壊を、見ておられます。

但し、主イエスは、目に見えている神殿のことを、語られたのではありません。

主イエスが言われているのは、霊的な神殿の崩壊のことです。

霊的な神殿の崩壊が、あなたがたの中で、既に始まっているではないか、と主イエスは言われているのです。

あなた方は、自分たちには、こんな立派な神殿がある。この神殿に、いつも神様がいてくださる。だから、自分たちは安全なのだ。そのような空しい思いに、よりすがっている。

そして、そのような思いを確かめるために、一生懸命に犠牲を献げ、献金を献げている。

それを、指導者は受け取って、利益を得ている。そのような神殿の営みが続いている。

しかし、そこに、まことの礼拝は見られないではないか。

だから、神殿は、既に霊的に崩壊過程に入っている。いや、実際に霊的に崩壊しつつある。

主イエスは、そのことを語っておられるのです。

今朝の箇所に記された出来事は、主イエスの「宮潔め」、として知られています。

恐らく何人かの方が、気付かれたと思いますが、他の三つの福音書では、この「宮潔め」の出来事は、主イエスの公生涯の、最後の方に記されています。

しかし、ヨハネによる福音書では、主イエスの公生涯の、初めに記されています。

なぜでしょうか。恐らく、それは、主イエスが、この世に来られた意味を、はっきりと示すために、福音書記者ヨハネが、この出来事を、敢えて最初に記したのだと思います。

なぜ、この「宮潔め」の出来事が、主イエスが、この世に来られたことの意味を、示しているのか。これからご一緒に、そのことを、御言葉から、尋ねてまいりたいと思います。

主イエスが、両替商の台をひっくり返し、犠牲の動物たちを追い出されたのは、神殿の境内においてであったと書かれています。

恐らく、これは、神殿の境内の一番外側である、異邦人の庭で起こった出来事であると思われます。

一番外側の、「異邦人の庭」も、神殿の境内の一部でした。ですから、そこも聖なる場所でした。その場所において、市場が開かれ、商売が行なわれていたのです。

両替人がいたと記されています。この当時の人々は、少なくとも年に一度は、税金のように、神殿に納入金を、献げなければなりませんでした。

しかも、その時、納めるべきお金は、ディルスと呼ばれる、古いユダヤの貨幣と、定められていました。

この貨幣は、普段は使われていませんでした。当時、ユダヤは、ローマ帝国の支配下にありましたから、普段使われていたのは、ローマの貨幣だったのです。

しかし、このローマの貨幣には、皇帝の像や、異教の神々の像が、刻まれていました。

ですから、このような貨幣を、献げることは、律法の戒めに反する、とされていたのです。

従って、どうしても両替をすることが、必要だったのです。

この両替には、手数料が掛かりました。一回につき、一日の賃金の約四分の一の手数料が掛かったといわれています。

しかも、つり銭を受け取る際にも、同じ額の手数料が掛かったのです。

ですから、両替をして、つり銭を貰おうとすると、一日の賃金の半分くらいの手数料を、支払うことになったのです。これは、相当高額の手数料です。

また、「牛や羊や鳩を売っている者たち」と書かれていますが、これらは、犠牲として献げられる動物です。そして、ここでも、法外な値段がつけられていました。

犠牲の動物は、それが献げ物として相応しいかどうかを、祭司に調べてもらって、許可されたものしか、献げることが出来ませんでした。

犠牲の献げ物に、欠点があってはならなかったからです。

鳩は、神殿の外の値段の、15倍もの値段で売られていました。

しかし、外で安く買った鳩を、献げようとしても、神殿の検査官は、必ずそれらに、何らかの言いがかりをつけて、許可しませんでした。

結局、神殿で売られているものを買ったほうが、便利であったのです。

そして、神殿の祭司たちは、これらの商いの、免許を与えることによって、莫大な利益を得ていたのです。そして、その利益の一部を、ローマの権力者に贈って、自分たちの地位を確保していました。

この時、主イエスは、神殿礼拝や、犠牲を献げること自体に、反対されたのではありません。献金は無意味であると言って、両替人の台を、倒されたのではありません。

そうではなくて、主イエスは、神殿の礼拝と商売を切り離して、礼拝を、まことの礼拝にしようとされたのです。

主イエスのお言葉を借りれば、霊と真理の礼拝を、回復されようとしたのです。

礼拝を聖め、神殿をまことの父なる神の家に、回復されようとされたのです。

犠牲の動物も、両替も、当時の礼拝には、必要とされていたものです。

ですから、主イエスは、それ自体に反対されたのではないのです。

しかし、元々は、礼拝者の便宜を図るために、始められたこの制度が、いつしか商人たちが、自分たちの儲けを、ひたすら追及する行為となっていきました。そして、祭司たちの関心も、そこから大きな収入を得ることに、集中するようになっていったのです。

そのために、礼拝本来の意味が、次第に見えなくなっていって、活き活きとした神様の恵みが、礼拝者に伝わらなくなっていったのです。

礼拝をするために来たのに、神殿における商売に、否応なしに、巻き込まれてしまう。

好むと、好まざるとにかかわらず、損得の世界に、引きずり込まれていってしまう。

神様を礼拝しようとしても、その前に、お金のやり取りを、しなくていけない。

そのことによって、無償で与えられる、神様の愛の尊さが、見えなくなってしまう。

神殿における礼拝は、父なる神様の愛が、人々に届く時であるはずです。

それなのに、それが、商売の時となってしまっている。主エスは、そのことに、激しい怒りを覚えられたのです。

ある人は、この点について、更に深い思いを巡らせて、こう言っています。

この時、主イエスは、献金や犠牲と引き換えに、神様が何かを与えてくださる、自分にとって何か都合の良いことをしてくださる。そういう取引をするような思いが、人々の心の底にあることを見抜いておられたのだ。

なかなか鋭い読み方だと思います。私たちも、心して、聞くべき指摘であると思います。

私は、こんなに献金しているのだから、きっと神様は、私に、何か善いことをしてくださるに違いない。

こんなに奉仕しているのだから、きっと大きな恵みをもって、応えてくださるに違いない。

もし、私たちが、心の片隅に、このような思いを、少しでも持っているなら、きっと主イエスは、こう言われるでしょう。「あなたは、父なる神様と、商売をしようとしているのですか」。

私たちの献金も、奉仕も、神様の恵みに対する、感謝の応答です。それ以上でも、それ以下でもありません。

どれほど献げたとしても、神様の恵みは、そんなものでお返しができないほど、大きいのです。罪に死すべき私たちを、十字架の贖いによって、罪あるままに赦してくださり、永遠の命を約束してくださった。

この無限の赦し、無条件の救いを、私たちは、ただで、無償でいただいているのです。

献金や奉仕で、その神様の恵みを、獲得することなど、到底出来ません。そんな、ちっぽけな恵みではありません。そんな、安っぽい恵みではないのです。

神様の恵みは、ただ「ありがとうございます」と言って、受け取るほかないのです。

献金も奉仕も、その測り知れない恵みに対する、感謝の応答でしか、あり得ません。

でも、私たちは、ふと、これだけ献金すれば、とか、これだけ奉仕すれば、という思いを持ってしまうことがあります。

ある人が、それを、「お釣りを期待している信仰」、と言っています。

主イエスは、そのような私たちの思いをも、清めるために、行動されたのです。

ですから、「宮潔め」は、私たちの「心の潔め」をも、意味しているということができます。

この時、主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました。

神殿を、三日で建て直す、というのは、どういうことでしょうか。

福音書は、ここにいた弟子たちも、主イエスが復活された後に、やっと、このお言葉を、理解できたと、記しています。

つまり、主イエスが、ここで言われた神殿とは、十字架の死から、三日目に復活された、主イエスご自身の、お体のことだったのだ。そのことが、後になって分かった、と言うのです。

神殿とは、何でしょうか。神殿とは、この地上において、神様がご臨在される場所です。

そして、そこで、神様と人とが出会うのです。

そうであるなら、主イエスこそが、まことの神殿です。なぜなら、主イエスこそが、この世における、神様のご臨在そのものであって、神様と人間を結び付ける、お方だからです。

父なる神様と人間を、まことに結び付けるものは、人間が作った神殿ではなくて、生ける神の子、主イエスご自身なのです。

私たち人間の罪を、主イエスが代って担ってくださり、私たちの身代わりとなって、十字架に死んでくださった。そして三日目に甦ってくださり、父なる神の御許で、私たちのために、今も執り成していてくださる。

そして、父なる神様との、交わりの中に、私たちを招き入れてくださっている。

そのように、主イエスは、神様と私たちを、結びつける、まことの神殿となってくださいました。それによって、もはや、地上の神殿は、必要なくなったのです。

今、私たちは、どこにいようとも、まことの神殿である、主イエスのもとに行って、礼拝することができるのです。

考えてみますと、私たちは、礼拝するということを、あまりにも軽く考えてはいないでしょうか。私たちが礼拝する神様は、すべてのものを造られた創造主です。

全世界をご支配なさっておられるお方です。少しの汚れもない、全き聖なるお方です。

どんなに小さな悪をも、退けられる全き義なるお方です。

そのようなお方の前に、私たちのような、汚れに満ちた者が、一体、立つことが出来るのでしょうか。この汚れた唇をもって賛美を献げ、この汚れた心で、祈りを献げることが、赦されるのでしょうか。このような者の礼拝を、聖なる神様が、受け入れてくださる。

そんなことが、あり得るのでしょうか。

本来は、このような罪深い、私たちの礼拝を、神様が受け入れてくださる筈がないのです。

しかし、主イエスは、本来、受け入れられる筈のない、私たちの礼拝が、神様によって、受け入れられるための道を、開いてくださったのです。

主イエスが、まさに命を投げ出して、礼拝の道を開いてくださったのです。

ですから、わたしたちは、神殿に行かなくても、どこででも、今いる場所で、礼拝して良いのです。私たちが、二人または三人と、主イエスの名によって集まった場所、そこが神殿なのです。そこに神殿が、出来上がるのです。

主イエスは、ご自分のお体を、神殿である、と言われました。

今、私たちが、キリストの体と呼ぶのは、教会です。教会が、キリストの体です。

ということは、そこに属する私たち一人ひとりが、神殿を形作っているのです。

私たちが、神殿を形作っている。これは、決して小さいことではありません。

残念なことに、日本の教会は、小さい教会が多いのが現状です。

2~3人で礼拝を守っている教会も、少なくありません。

しかし、たとえ、二人でも、三人でも、そこに主イエスを信じている人たちが集まって、礼拝を献げているなら、それは神殿なのだ、と主イエスは言われているのです。

これは、私の体なのだと、主イエスは言われているのです。これは、素晴らしいことです。

二人でも、三人でも集まって、礼拝を献げ、祈っているなら、そこが神殿なのです。そのような神殿、キリストの体に、連なる者とされている幸いを、心から感謝したいと思います。

更に福音書は、ここで、弟子たちが思い起こした、旧約聖書の御言葉があると記しています。17節です。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」。

これは、詩編69篇10節の御言葉です。

おそらく弟子たちが、この詩編の御言葉の、本当の意味を理解したのも、主イエスが、復活された後のことであると思います。

ここでいう「あなたの家」とは、「神の家」です。それを思う「熱意」とは、主イエスご自身の熱意です。そのことを、弟子たちは、主イエスの復活の後で、悟ったのです。

主イエスの、父の家を思う、命賭けの熱意が、結局は、主ご自身の命までも、食い尽くしてしまった。そのことを、弟子たちは、後になって知ったのです。

後に、大祭司カイアファの庭で、主イエスが裁判にかけられた時、判決の決め手になったのは、この時の主イエスのお言葉でした。

この時、主イエスが、「神殿を三日で建て直してみせる」、と言われたことが、神を汚す罪とされて、死刑判決へと、繋がっていったのです。

また、この言葉は、十字架に架けられた主イエスを、嘲る時にも、用いられました。

「三日で建て直す者よ、十字架から降りてみよ」、とからかわれたのです。

しかし、主イエスは、どんなに嘲られても、十字架から降りませんでした。

神の家を思う熱意が、主イエスを、十字架に留めたのです。

この、神の家を思う熱意とは、神の家、つまり教会に招かれ、教会に連なっている、私たち一人一人を、思う熱意です。私たち一人一人を、救おうとされる、熱意です。

その熱意が、主イエスを十字架の上に、留めたのです。

神の子である主イエスは、あの時、十字架から降りようと思えば、降りられたのです。

でもそうされなかった。何としてでも、私たちを救おうとされた。その主イエスの熱意が、十字架の上に、主イエスを留めたのです。

主イエスを十字架に留めたもの。それは、手足に打ち込まれた、太い釘ではありません。

何としてでも、私たちを救おうとされる、主イエスの熱意だったのです。

愛する兄弟姉妹、私たちは、このような主イエスの熱意、命懸けの愛によって、赦され、生かされているのです。

私たちを愛する熱意が、主イエスを十字架に留めたのです。

このことを思う時、主イエスの「宮潔め」の意味が、更に深く分かってきます。

犠牲のための動物を、追い払ったのは、神の家を、商売の家にするな、という意味もあったでしょう。

しかし、それはまた、犠牲のための動物は、もはや必要なくなった、ということをも意味しています。

動物犠牲による礼拝は、主イエスによって、終らせられた、ということです。

主イエスは、ご自身の御体を、私たち人間の、罪の赦しのために、犠牲として、献げてくださいました。

まことの神殿における、まことの礼拝は、この主イエスの犠牲の上に、成り立っています。

この主イエスの犠牲によって、罪に染まった私たちも、神様に出会い、神様に礼拝を献げることができるのです。

ヨハネによる福音書が、この「宮潔め」の出来事を、主イエスの公生涯の、始めのところで記したのは、このことを明らかにしたかったからです。

主イエスが、この世に来られたことも意味。

それは、まことの神殿である、ご自身を通して、人間が神様のご臨在を知り、神様と出会うことが、できるようになるためであったのです。

そのために、命を燃やし尽くすほどの熱意をもって、自らの御体を、十字架につけてくださり、どんなに嘲られても、そこに留まり続けてくださったのです。

この主イエスの、計り知れない愛を、心から感謝いたしたいと思います。