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柏牧師:過去の礼拝説教

「信仰の完走者たち」

2014年10月26日 聖書:テモテへの手紙二 4章1~8節

今朝は、懐かしい方々や、久し振りにお目に掛かる方々と共に、召天者記念礼拝を献げることができる恵みを、心から主に感謝いたします。

今朝、私たちは、この礼拝において、先に召された、信仰の先輩たちの、この地上における歩みを、今一度、想い起こしたいと思います。そして、先輩方を生かし、導いてくださった、聖書の御言葉に、ご一緒に、聴いてまいりたいと思います。

今朝は、特に、晩年の使徒パウロの姿と、信仰の先輩たちのお姿とを、重ね合わせつつ、御言葉を味わっていきたいと思います。

先ほど、テモテへの手紙二の4章1~8節を読んでいただきました。

この手紙を書いたとき、パウロは、ローマの牢獄に、囚われていました。

処刑の日が、もう間近に迫っている。

そのような切迫した状況の中で、パウロは、自分の生涯の、越し方、行く末を見据えつつ、愛する弟子のテモテに、溢れる思いのたけを、語っています。

6節で、パウロはこう言っています。

「私自身は、既にいけにえとして、献げられています。世を去るときが近づきました」。

これを書いてから直ぐに、パウロは殉教したものと見られています。

ですから、この手紙は、パウロの遺書のような、手紙なのです。

人間は、死を目前にして、自分の気持ちを、偽ることは出来ません。

ですから、ここに語られた言葉は、パウロの真実の心を、言い表していると思います。

パウロは、自分の人生の終わりが、近いことを感じ取って、「世を去る時が近づきました」、と言っています。 「世を去る時が近づきました」。

ここで、パウロが使った「去る」という言葉は、面白い言葉です。

この言葉は、元々は「テントの紐をゆるめる」、という意味の言葉です。

ベドウィンの羊飼いたちは、羊に牧草を食べさせるために、絶えず移動します。

移動の際は、テントの紐をゆるめて、テントを畳まなければなりません。その言葉を、パウロは、ここで使っているのです。

また、この言葉は、「船のとも綱を解く」、という意味も持っています。

船は、出港するときには、そのとも綱を解いて、船出していきます。

パウロは、非常に心穏やかに、まるで隣りの部屋にでも行くような気持で、「私が、世を去る時が近づきました」、と言っているのです。

遊牧民が、テントを移すような気持で、或いは、船のとも綱を解いて、船出するような気持ちで、私はここを去って、主の御許に行くのだ、と言っているのです。

パウロは、迫害の最中にありました。しかし、そのような中にあっても、魂の奥底にある、揺るがすことのできない平安が、パウロの心を支配していたのです。

そのことを示すような、エピソードがあります。

アメリカ、ニューヨーク州の、ビンガートンというところにある銀行が、新しいビルに引越しした別の銀行に、お祝いの花輪を、贈ろうとしました。

ところが花屋さんが、大変なミスをしてしまったのです。お祝いの花輪に添えられていたカードには、なんと、「心よりお悔やみ申し上げます」、と書かれていたのです。

クレームをつけられた花屋さんは、平謝りに謝りました。

しかし、もっと致命的なミスがあったのです。銀行のお祝いの花輪に、添えられる筈のカードが、あろうことか、葬式の花輪に、添えられてしまったのです。

それは、17歳で亡くなった、あるクリスチャンの少女の、お葬式でした。

血相を変えた花屋さんは、葬儀場に駆けつけて、ご両親に心からお詫びしました。

しかし、意外にも、その両親は、それほど怒ってはいませんでした。

むしろ、穏やかに微笑んで、こう言ったのです。「この方が、娘にふさわしいと思いますよ」。

カードには、こう書かれていました。「祝移転・引越しおめでとう!」。

キリストを信じて亡くなった者にとって、死は、地上から天国への、引越しに過ぎない。

悩みや、苦しみが、後を絶たない、この地上から、苦しみも、悲しみもない所へと、引越しをする、ということなのだ。

そして、そこには、私たちのために、命を捨ててくださったお方が、待っていてくださる。

召された娘さんも、そしてご両親も、この信仰に生きていました。

ですから、花屋さんの大失敗も、前向きに捉えることができたのです。

このことを黙想していた時、以前聞いた、村上宣道牧師のお話を、思い出しました。

村上先生が、ライフラインというテレビ番組で、語られた話です。

岡山で開かれた伝道集会に、ひとりのお婆さんが出席されていました。

そのお婆さんが、本当に嬉しそうに、ニコニコしておられるのを見て、先生が尋ねました。

「お婆さん、楽しそうですね。なにか、嬉しいことでもあったのですか」。

すると、そのお婆さんが答えました。「あった、あった。嬉しいことがあったんじゃ」。

「いたい何があったんですか」。「わしゃー、確かめて来たんじゃ」。「エッ、何を確かめて来たんですか」。「入り口じゃよ、入り口。わしゃー、天国の入り口を、確かめて来たんじゃ」。

そのお婆さんの話を聞くと、こういうことでした。

お婆さんは、数ヶ月前に大病をしました。たまたま息子さんが医者で、その息子さんが見ても、もう助からないと、覚悟を決めたそうです。そして、こん睡状態に陥っているお婆さんの傍らで、葬儀の段取りなどを、ひそかに話し合っていました。

すると突然、お婆さんが目を開いて、皆を見回して、「イヤー、みんな集まって、何をしているんじゃ」と言ったそうです。

そして、危篤状態を脱しただけではなく、すっかり元気になって、礼拝にも毎週出席できるようになったそうです。

お婆さんは、その時、天国の入り口を見て来たというのです。そして、それは、本当に素晴らしい所であった、というのです。

その時以来、お婆さんは、「死ぬことが楽しみだ」、と事あるごとに言っているそうです。

村上先生が、「お婆さん、そんなに、死ぬことばかりを楽しみにしないで、生きていることも楽しんでくださいよ」、と言いますと、そのお婆さんは、「イヤー、死ぬことが楽しみじゃから、生きている毎日が、楽しくてかなわんのじゃー」、と言ったそうです。

「死ぬことが楽しみじゃから、生きている毎日が楽しくてかなわんのじゃー」。

これこそが、まさにパウロが、ここで言いたいことなのでは、ないでしょうか。

このとき、パウロも、そのような、全き平安の中に、いたのだと思います。

きっと、私たちの信仰の先輩たちも、同じような平安の中を、まるで隣の部屋にでも行くような思いで、天に帰られたのだろうと思います。

そして今は、岡山のお婆さんが垣間見たという、素晴らしいところで、神様の御懐に、抱かれておられるのだと思います。

今日から11月9日まで、会堂後方にて、武信正子姉の102歳のお誕生日を祝う、俳句展が開かれています。

武信姉が詠まれた多くの俳句の中から、18句を選んでいただき、掲示してあります。

その中に、「君逝きぬ 天の花野の 主の腕に」、という句があります。

武信姉が、召されたご主人、潤二朗兄のことを、偲びつつ、読まれた句だと思います。

ご主人はきっと、美しい花が満ち溢れている天国にあって、主の御腕に抱かれているに違いない。「君逝きぬ 天の花野の 主の腕に」。

武信姉も、天国に移されたご主人のお姿を、そのような、幻の内に見つめておられます。

7節で、パウロは、自分自身の、最後が近いことを、予告した後で、自分のそれまでの歩みを、振り返っています。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」。

これは、原文のギリシア語では、全部完了形で書かれています。

ということは、最初に主イエスにお会いして、キリスト者としての生涯が始まった、その日から、ずっとそうしてきたということです。

それは、パウロが、この手紙を書いた時から、三十年以上も前のことです。

その時まで、パウロは、キリスト教は大嫌いで、ある時、キリスト教を撲滅しようとして、ダマスコに向かいました。

ところが、ダマスコの町に入ろうとする時に、突然、復活された主イエスに出会いました。

そして、主イエスに捕らえられ、主イエスの僕にしていただきました。その日からずっと、なのです。

三十数年前の、あのダマスコでの出会いから、今日まで、私はずっと、戦い抜いてきた。

走り抜いてきた。信仰を守り抜いてきた、と彼は言っているのです。

珍しいことに、この御言葉の中にある名詞には、みんな定冠詞が付いています。

「戦い」という言葉にも、「決められた道」という言葉にも、「信仰」という言葉にも、英語で言えば、「the」という定冠詞が付いているのです。

色々な戦いを、戦ってきた、ということではなくて、主イエスから与えられた「その戦い」を、ずっと戦ってきたということです。

その戦いを立派に戦い抜いたと言っているのです。

実は、この「立派に」という言葉は、原文では形容詞です。ですから、本来は「立派な」という言葉です。立派に戦ったのではなく、立派な戦いを戦ったのです。

文語訳の聖書では、「善き戦いを戦い」と訳されていましたが、その方が原文の意味に近いと思います。

パウロは、主イエスから与えられた「善き戦い」を戦い抜いた、と言っているのです。

神様から、私たちに与えられている戦いは、善い戦いなのです。

この世の競争に勝とうとする戦いは、相手を傷つけ、また自分自身も傷つきます。

しかし、信仰の戦いは、善い戦いです。相手を生かし、自分も生かされるための、善い戦いです。パウロは、その善い戦いを、戦い抜いたと言っているのです。

パウロは、6節で現在の心境を語り、7節で過去を振り返り、そして8節で、目を将来の、救いと勝利に向けています。

「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」。

信仰の善き戦いを戦い抜き、定められた道を走り抜き、信仰を守り抜いた。

そのようなパウロに対して、神様は義の栄冠を備えて、待っていてくださる、というのです。

この栄冠を戴けるのは、かの日であると語られています。かの日とは、終末における、主イエスの再臨の日です。

ですから、その日は、キリスト者にとって、決して、恐ろしい日ではないのです。いわば、義の栄冠の、戴冠式であるというのです。

しかも、その義の冠は、私たちが正しくて、立派であって、冠を受けるのが当然だから、受けるのではありません。そのような正しさは、私たちのうちにはありません。

私たちは、主イエスの十字架によって、罪あるままに、一方的に義とされた者なのです。

それなのに、ただそのことを信じて、感謝して、受け入れるだけで、義の栄冠をくださるというのです。

主イエスが、命懸けで、成し遂げてくださった、救いの御業を、ありがとうございます、と言って、感謝して、ただ受け取るだけで、義の栄冠をくださるというのです。

主イエスが与えてくださった恵みに支えられて、何とかここまで歩んで来られたような私たちです。でも、そんなダメな私たちに対して、「よくやったね」、と言ってくださり、冠をくださるのです。私たちが信じている神様は、本当に憐れみ深い、お方だと思います。

よく語られる譬えに、修学旅行に行くお孫さんと、おばあさんの話があります。

「ねえ、お婆ちゃん、修学旅行に行くのだけれど、少しお小遣いくれない」。

「あーそうかい、じゃあ、これ持ってお行き。気をつけてね。楽しんできなさいね。」

お婆さんから、たくさんのお小遣いを貰って、お孫さんが、修学旅行に行きました。

貰ったお小遣いは、自分の楽しみのために、殆ど使ってしまいました。

残ったホンの僅かなお金で、どこの土産物屋でも売っている、肩たたきを買ってきて、お婆さんにお土産として渡します。

しかし、お婆さんは、それをとても喜んで、ご近所中に、「孫がこれを買ってきてくれたのよ」と言って、嬉しそうに見せて歩く。

なんのことはない、自分が与えたお金の、僅かな残りで買ってきた、小さなお土産です。

でもそれを、まるで宝物でも貰ったよう喜んでくれる。私たちの信じる神様とは、そういうお方なのです。

パウロの場合もそうでした。かつては主イエスを迫害していた男が、主イエスに捕えらえて、使徒とされて、主イエスが与えてくださった恵みに支えられて、ここまで歩んで来ることができた。すべてが、主イエスから出た恵みによるにも拘らず、「パウロよ、本当によく歩んでくれたね。ありがとう」、言って、喜んで冠を授けてくださるお方。それが主イエスなのです。

恵みの出所は、すべて主イエスご自身であるにも拘わらず、その恵みに支えられて、何とか信仰の生涯を歩んだ者に対して、そのことを、この上なく、喜んでくださるお方。

それが、私たちの主イエス・キリストなのです。その主イエスに感謝し、その主イエスを信じて、喜んで、与えられた生涯を生きていきたいと思います。

そして、その素晴らしい主イエスを、何とかして、一人でも多くの人に伝えていきたい、と願わされます。

なぜなら、こんなに素晴らしい主イエスのことを伝えないでいて、私たちには、義の栄冠が待っている、などと言うことは、とてもできない、という思いに迫られるからです。

この義の冠を授けられるのに、私たちの功績や、立派な行いは必要とはされません。

しかし、唯一つ、ここで書かれていることは、「主が来られるのをひたすら待ち望む人に」、冠が授けられるということです。

それでは、「主が来られるのをひたすら待ち望む」人とは、どのような人なのでしょうか。

4章1節にこう書かれています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」。この1節の「主の出現とその御国とを思いつつ」、という言葉は、8節の「主が来られるのをひたすら待ち望みつつ」、と同じ意味の言葉です。

ですから、主が来られるのを、ひたすら待ち望むパウロが、ここで願うこと。

それは、「御言葉が宣べ伝えられる」、ということです。ただそのことだけなのです。

パウロが、ここで言いたいことは、義の栄冠を願い求める者は、皆、御言葉を宣ベ伝えなさい、ということです。

どうして、こんなに素晴らしい主イエスのことを、伝えないでいて、私たちには、義の栄冠が待っているなどと言えるだろうか。どうして、こんなに尊い福音を、宣べ伝えないでいて、義の栄冠を受けさせてください、などと主の御前に出て行けるだろうか。

私たちが、主の恵みに、本当に迫られたなら、福音を宣べ伝えないでは、いられない筈ではないか。パウロは、そう言っているのです。

このことを、心の底から、ほとばしり出るような思いで、パウロは語っているのです。

テモテ、頼むよ!テモテ、お願いするよ!頼むから、お願いするから、御言葉を宣べ伝えくれ。私は、間もなくこの世を去る。でも、まだまだ御言葉を聞いたことがない人が大勢いる。

でも、今、私は獄に繋がれている。そして、間もなく殉教しようとしている。

だから、愛するテモテよ、私に代わって、御言葉を宣べ伝えてくれ。

これは、私の願いであるだけではなく、神様の、そして、生きている者と死んだ者を、裁くために来られる、キリスト・イエスの願いでもあるのだ。

そのように、パウロは言っているのです。

そして、これは、私たちすべてに、語られている言葉でもあります。

パウロが、そして、今は、天に帰られている先輩たちが、後に続く私たちに、願っていることでも、あると思います。

信仰のご生涯を歩み通され、義の栄冠を受けられた、先輩たちが、天にあって、私たちに願っておられること。

それは、自分たちを生かし、自分たちを導き、自分たちを喜びで満たしてくれた、この福音の恵みを、一人でも多くの人に伝えてもらいたい、ということではないでしょうか。

そして、いつか、天の御国において、お互いに合い見えた時、「あー、あなたも、御言葉を宣べ伝えたんだね。だから、義の冠を授けられて、ここに来たんだね。本当に良かったね」、と言って、再会を喜びたい、ということではないでしょうか。

私たちの先を歩まれた、信仰の先輩たちも、天にあって、パウロと声を合わせて、私たちを、励ましてくださっているのです。

そうであれば、私たちも、信仰の戦いを、戦い抜いていきたい。

信仰の導き手であり、また完成者である主イエスを仰ぎ見ながら、決められた道を走りとおして行きたい。

そして、やがて天国で、先輩たちにお会いした時、「あなたも義の冠を授けていただけて良かったね」、と褒めていただきたい。心から、そのように願わされます。