MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「愛と喜びの手紙」

2014年11月23日 聖書:フィリピの信徒への手紙 1:1~11

今日から、この主日礼拝におきまして、フィリピの信徒への手紙から、ご一緒に、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

なぜ、フィリピの信徒への手紙を選んだかと申しますと、この手紙が、愛と喜びの言葉に満ちているからです。「愛を追い求めなさい」。今年の主題聖句を理解する上で、大変相応しい手紙である、と思ったからです。

クリスチャン作家の椎名麟三は、「言葉のいのちは愛である」、と言いました。

これは真理だと思います。言葉によって愛が伝えられ、心と心が通い合い、人を生かすことになるからです。

手紙というものは、言葉から成っています。このフィリピの信徒への手紙にも、多くの言葉が出てきます。そして、その一語一語に、いのちがあります。言葉のいのちである愛、が込められています。そして、その愛が、喜びとなって、手紙全体から、溢れ出ています。

ですから、この手紙は、「喜びの書簡」、と呼ばれています。

また、この手紙は、「白鳥の歌」とも、言われています。

白鳥は、死ぬ前に、一番美しい声で、鳴くそうです。

この手紙は、使徒パウロの、晩年の手紙です。しかも、パウロが、獄に捕らわれている時に、書かれたものです。

いつ殉教の死を、迎えるか分からない。そのような中で、書かれた手紙です。

白鳥が、死ぬ前に、一番美しい声で鳴くように、死を目前にしたパウロが、最後に歌った一番美しい歌。それが、フィリピの信徒への手紙である。

そのように受け止めた人たちが、この手紙を「白鳥の歌」と名付けたのです。

かつて、日本基督教団の総会議長であった、鈴木正久牧師は、任期中に、癌のために、召されました。余命3ヶ月と宣告された鈴木先生は、病床で、このフィリピの信徒への手紙を、熱心に読まれたそうです。

そして、召される少し前に、口述筆記で、次のように述べておられます。

「『あす』を前提とした時に、『きょう』という日が、生き生きと感じられるが、『あす』がなくなると、『きょう』もなくなってしまうような、暗い気持ちになっていました。

しかし、伶子に、ピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが、自分自身の肉体の死を前にしながら、非常に喜びに溢れて、他の信徒に語りかけているのを聞きました。

聖書というものが、こんなにも命に溢れた、力強いものだということを、私は今までの生涯で、初めて感じたくらいに、今感じています」。

この手紙を通して、聖書の素晴らしさを、再発見し、感激に溢れた鈴木先生は、「今こそ、この感激を語りたい」、と願われました。しかし、既に入院中で、それは叶いませんでした。

私たちの中には、様々な年齢の者がいます。若い者、年老いた者、元気いっぱいの者、少々疲れを覚えている者、と様々です。

しかし、誰もが、入院された時の、鈴木先生よりは、時間を与えられていると思います。

そうであれば、これから聖日毎に読む、このフィリピの信徒への手紙によって、新たな感動と、力を与えられ、鈴木先生が、切に願ったけれども、できなかったこと。

聖書の素晴らしさを、語り伝えるということ。

そのことを、それぞれが置かれた場所で、できる限りなしていきたい、と願わされます。

さて、この手紙の宛先は、フィリピの教会の、信徒たちです。

この手紙が書かれた頃、フィリピは、マケドニア州第一の町として、繁栄していました。

また、この町は、ローマ帝国直轄の植民都市で、この町の人たちには、ローマの市民権が、与えられていたようです。

使徒言行録16章によりますと、フィリピの町は、使徒パウロが、ヨーロッパで初めて伝道した町、とされています。

従って、フィリピの教会は、ヨーロッパで最初の教会、ということになります。

フィリピという町は、客観的に見れば、決して、伝道し易い町ではありませんでした。

ローマ直轄の植民都市であったので、皇帝礼拝が盛んでした。

また住民は、ローマの市民権を、持っていましたので、プライドが高く、ユダヤ人のパウロの言うことを、尊重するような、雰囲気は、ありませんでした。

更に、この町は、ギリシアにありましたから、様々な神々が、祭られていました。

しかし、そのような伝道困難な町に、愛と祈りに満ちた、教会が立てられ、成長していったのです。フィリピの教会の教会員は、純真な信仰に生きて、パウロを心から愛し、パウロを助け、パウロを励ます教会となったのです。神様のなさる業は、本当に不思議です。

そのことを思うと、日本という伝道困難な地にいる、小さな群れの私たちにも、大きな希望が湧いてきます。

この手紙には、パウロと、フィリピの教会の人々の、愛の交わりが、溢れるばかりに書かれています。その愛の交わりがもたらす喜びを、書き連ねた手紙なのです。

この手紙が、「喜びの手紙」、と言われていることは、既に申しましたが、「喜び」、という言葉がたくさん出てきます。

新共同訳聖書の翻訳では13回ですが、原文では16回出てきます。

繰り返しますが、このときパウロは獄中にあって、いつ処刑されるか、分からない状況にあったのです。それにも拘らず、彼は「喜んでいます」、と繰り返して言っています。

そして、フィリピの教会の人たちにも、「喜びなさい」と勧めています。

空元気を出して、無理して、そう言っているのではありません。心から言っているのです。

そう聞きますと、パウロという人は、素晴らしい信仰の持ち主、まさに信仰の英雄であるかのように、思うかもしれません。しかし、果たしてそうなのでしょうか。

第二次世界大戦中に、ドイツのナチズムに反対して、多くの牧師達が捕らえられたり、処刑されたりしました。

その中で、危うく処刑を免れた牧師に、マルティン・ニーメラーという牧師がいます。

その人がこう言っています。

「人はナチに屈しないで、抵抗した我々のことを、まるで英雄のように、見ようとしている。

しかし、獄に捕らわれた我々は、自分たちのことを一番よく知っている。その獄の中で、自分達がどんなに惨めであったか、どんなに弱い人間であったか、自分達が一番よく知っている。自分達は、ただ一日一日を、自分達の大牧者イエス・キリストに支えられて来ただけである」。ニーメラー牧師は、自分達は英雄ではない、と言っているのです。

パウロも、同じ思いだったと思います。パウロはこの手紙の4章13節で、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」、と言っています。

私を強くしてくださる方がおられるから、何事にも耐えられる、と言っているのです。

パウロもまた、英雄なんかではなくて、一日一日を、自分を強くしてくださる、主イエスに支えられて、獄の中で、過ごしていたのです。だから、喜ぶことができたのです。

喜びの源が、自分ではなく、神様にあったからからこそ、どんな時にも、喜ぶことが出来たのです。どんな時にも、主イエスが、共にいてくださり、支えてくださり、強くしてくださった。

だから、喜ぶことが出来たのです。そのことを、身をもって知ったからこそ、どんな境遇の人にも、「喜びなさい」と、勧めることができたのです。

どんな境遇にあっても、そこに、必ず共にいてくださる、主イエスを、私は喜ぶ。

あなたも、共にいてくださる、主イエスを喜びなさい。パウロはそう言っているのです。

さて、御言葉を味わいたいと思いますが、1節、2節の挨拶に続いて、3節~11節には、パウロの、感謝と祈りが、記されています。

原文では、3節の冒頭に、「感謝します」という言葉が、いきなり出てきます。

挨拶が終わるや否や、まるでほとばしり出るように、「感謝します」、とパウロは言っているのです。一体何に対して、パウロは感謝しているのでしょうか。

それは、フィリピの信徒たちが「福音にあずかっている」ことです。パウロは、そのことを感謝しているのです。

世の中には、感謝すべきことが多くありますが、パウロにとっては、人々が福音にあずかっていること。これほど、大きな感謝はなかったのです。

これは、パウロだけではありません。伝道者は、皆そうだと思います。人々が福音にあずかっているのを見る。そこにこそ、伝道者の最も大きな、喜びと感謝があります。

「福音にあずかっている」、ということも、決して、容易なことではありません。

罪や誘惑に満ちた、この世にあって、福音にあずかり続ける、ということは、人間の思いや努力では、不可能です。神様の助け無しには、出来ません。

ですから、パウロは、フィリピの教会の人たちが、「福音にあずかり続けている」のを知って、その背後にある、神様の助け、神様の恵みに、感謝しているのです。

フィリピの教会の人たちが、福音にあずかっているのですから、フィリピの教会の人たちに、感謝するのが普通です。

しかしパウロは、そのことを為させてくださった、「私の神に感謝」する、と言っているのです。それは、私たちにとっても同じです。私たちが、どんなに長い信仰生活を、送っているとしても、それは、私たちの努力や、熱心さが、為したことではありません。

神様の助け、神様の恵みによるのです。

ですから、私たちは、自分の信仰生活の長さを、誇るのではなく、その歩みを助け、支えてくださった、神様の恵みに、感謝したいと思います。

3節でパウロは、「あなたがたのことを思い起こす」、と言っています。

ここでの「思い起こす」とは、単に思い出す、ということだけではなくて、相手の名を呼んで、執り成し、祈ることを、意味しています。

「一同」という言葉が、7節、8節に繰り返されているように、パウロは、獄中にあっても、フィリピの教会の人たち、一人一人を、思い起こしながら、祈っているのです。

教会員すべての名を呼んで、祈っているのです。一人の例外もなく、全ての人が祈りの対象なのです。教会の背後には、必ずこのような祈り手がいるのです。

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、こんなことを言っています。

「人々に祈って頂きたいという、人の信仰を当てにしているのが、私の信仰である」。

三浦さんは、私のために祈ってくれる人がいる。その執り成しの祈りによって、私の信仰が支えられているというのです。

そのような、信仰の友の、執り成しの祈りに加えて、聖霊による執り成しの祈りがあります。

私たちは、多くの、力強い、執り成しの祈りによって、囲まれているのです。

四方八方から、祈りによって、囲まれているのです。それによって、守られているのです。

私たちは、このような祈りの包囲網、愛の包囲網の中にいるのです。そして、そのことが、私たちに、生きる希望と、勇気を、与えてくれるのです。

これは、本当に、素晴らしいことです。私たちキリスト者に、与えられた特権です。

6節でパウロは、こう言っています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

「キリスト・イエスの日」というのは、主イエスが再臨される日のことです。

その時までに、神様は必ず、あなた方の救いを、成し遂げてくださる。完成してくださる。

私はそれを、確信している。パウロは、そう断言しています。

フィリピの教会の人たちよ、あなた方の信仰は、今はまだ弱く、躓き易いかもしれない。

しかし、あなた方の中に、信仰という善い業を始められたのは、神様なのだ。

あなた方に、信仰を与えてくださった、その神様が、あなた方に喜びを与え、祈ることを教えてくださった。

そして、キリストが、再びおいでになる日までに、今はまだ、不完全なあなた方の信仰を、必ず完成してくださる。私はそう確信している。パウロは、力強く、言い切っています。

この言葉を聞いた、フィリピの教会の人たちは、どんなに慰められ、励まされたことでしょう。

どうして自分の信仰は、こんなに弱いのだろう、と悲しんでいた人たちは、このパウロの言葉を、どれ程、喜んだことでしょう。

そうなんだ、もともと、神様が与えてくださった、信仰なのだ。神様が始められた、善い業なのだ。だから、神様が完成してくださるに、違いない。

パウロの、確信に満ちた言葉は、フィリピの教会の人たちを、大いに力づけました。

しかし、パウロは、一体どのようにして、こんなに強い確信に、導かれたのでしょうか。

一体、どのようにして、この力強い、確信を持つに、至ったのでしょうか。

それは、私が、あなた方を、心に留め、命懸けで、愛しているからだ、とパウロは言うのです。あなた方に対する、命懸けの、愛と祈りが、この確信をもたらしたのだ、というのです。

更に、パウロは、「わたしが、あなたがた一同について、このように考えるのは、当然です」、とさえ言っています。

私が、この確信を持つのは、当然なんだ、と言っているのです。

こんなに、私が心を込めて祈っているのだから。こんなに私が、あなた方のことを思っているのだから、私が、この確信に導かれるのは、当然なのだ、と言っているのです。

パウロは、8節で、「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」、と語っています。

ここにある「愛の心」という言葉は、もともとは、内臓とか、はらわたを、意味する言葉です。

はらわたを、痛めるほどの、キリストの愛に押し出されて、パウロは、フィリピの教会の人たちを、愛しているのです。

そして、その愛を、神様が証ししてくださる、というのです。これほど確かなことはありません。だから、私は、あなた方の救いを、確信できる。あなた方が、救われない筈はない。

あなた方が救われるのは、当然だ、と言い切ることができる。何という確信でしょうか。

心からの祈りとは、命懸けの愛とは、このような確信をもたらすものなのでしょう。

このパウロの言葉と、似たような祈りを、ささげた女性がいます。

メソジスト教会の創立者、ジョン・ウェスレーの母の、スザンナ・ウェスレーです。

彼女は、自分の息子の救いのために、このように祈っています。

『我が愛する子よ、私はあなたのために、静かに幾度か祈り、幾度か泣いたことであろう。

この広い世界に、霊なる神を除いて、あなたに対する、私の心持を知る者はいない。

私のこの涙を見た者はない。私はあなたのために、昼夜、神に祝福を祈り求めた。

あなたが、神から棄てられる、などということはあり得ない。そのようなことは、断じて起こらない。もし、あなたの救いが確実でなかったならば、母はむしろ呪われて死ぬことを望みます。私はなおも望み、なおも確信を持ち続ける。

これほど多くの祈りが、神にささげられている、我がいとし子が、前途を誤ったり、滅びたりするとは到底考えられない。』

スザンナは、「これほど多くの祈りがささげられている、我が子が、神様に見捨てられたり、前途を誤ったりすることはあり得ない。そのようなことは断じて起こらない」、と言い切っています。何という確信でしょう。パウロも、スザンナも、この確信に導かれています。

今回、改めてこの箇所を読んで、私は、このパウロの言葉に、圧倒されてしまいました。

そして、スザンナの祈りの凄まじさを、改めて想い起しました。

そして、私も、茅ケ崎恵泉教会の皆様のために、このような確信に至るまで祈りたい。

このような確信に至るほど、深く愛したい、と心から願わされました。

牧師は、教会を愛しています。牧師は、教会員を愛しています。

教会員のことを想い起す度に、いつも神様に感謝しています。教会員一人一人が、最初の日から、今日まで、福音にあずかっていることを、何よりも喜んでいます。

でも、これほど祈っているのだから、これほど愛しているのだから、教会員が救いを全うできない筈はない。全うできるのは、当然だ。

そのような確信にまで至っているか、と問われれば、口籠ってしまいます。

もっと、もっと、祈りを深めたい。もっと、もっと、愛を深めたい。

神様、どうか、この貧しい者を、憐れみたまえ、と叫ばずにいられません。

パウロのように、私がこれほど祈っているのだから、私がこれほど愛しているのだから、あなた方が救われるのは、当然です、と言い切れるほどに、祈りを深めていきたい。

そう願わされます。

そして、牧師だけではなくて、教会員皆様の間でも、そのような確信に、導かれるまで、祈りを深めていくことができるなら、何と素晴らしいことでしょうか。

そのような群れとなるために、共に祈り合い、励まし合って、まいりましょう。