MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「人生を生き抜く秘訣」

2015年02月08日 聖書:フィリピの信徒への手紙 4:10~14

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

この御言葉は、私にとって、忘れることができない御言葉です。

まだ神学生であった時、ある集会で、講師の先生から、この御言葉を示され、「柏神学生、この御言葉の聖書箇所を言いなさい」、と問われたのです。

私は、「確かフィリピの信徒への手紙だったと思いますが、何章何節かは覚えていません」、と答えました。

すると、その先生は、「こんなに素晴らしい御言葉の箇所を、覚えていないとは残念です。

この御言葉は、これから先、あなたが伝道者として生きていく時の、支えとなる御言葉です」、と言われました。

更に、この先生は、続けて言われました。「この御言葉は、伝道者だけでなく、全てのキリスト者にとって、人生を生き抜く秘訣を教えてくれる御言葉です。」

私は、答えられなかった恥ずかしさと共に、この先生の力強い言葉が、深く心に残り、忘れることができない御言葉となったのです。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

以前の口語訳聖書では、更に強い口調で、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」、と訳されていました。

今朝は、なぜこの御言葉が、人生を生き抜く秘訣であるのか、ご一緒に考えていきたいと思います。

「わたしにはすべてが可能です」。「わたしは何事でもすることができる」。

こういうことを言い切れるということは、とても積極的な生き方であると思います。

世の中には、こういう生き方を勧める人がいます。

「お前ならできる」、「必ずできる」。こう言って、励ます人がいます。元テニスの選手で、松岡修造というスポーツ解説者がいますが、この人は、よくこのような言葉を口にします。

子どもにテニスを教える時にも、「お前ならできる」、と言って自信をつけさせるのです。

暗示にかけるようなことを言って、自信をつけさせ、実力を引き出そうというのでしょう。

コーチングの仕方としては、有効なのかもしれません。そう信じることで、自信を持って、積極的に生きられるなら、それはそれで、すばらしいことだと思います。

しかし、今朝の御言葉は、自分に暗示をかけて、勇気を奮い起こすために、語られた御言葉ではありません。

「私には、すべてが可能だ。そういう強い心をもって、物事に当たるなら、何でもできる」。

そういうことを、教えている御言葉ではありません。

パウロはここで、自分の努力や心の持ち様によって、どんなこともできる、と言っているのではないのです。

なぜなら、この言葉を語った時、パウロは、牢獄にいて鎖に繋がれていたからです。

何もできない状態であったのです。

努力しようにも、努力の仕様がない。そういう状態にいたのです。

ですから、パウロがここで言っていることは、諦めずに、最後まで努力して、成功を収めよう、ということではありません。

パウロは、「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」と言っています。

原文では言葉の順序が逆で、「何事も」、「すべてが」という言葉が最初に出て来ています。

ギリシア語は、強調したい言葉を、最初に持って来ます。

ですから、ここでパウロは、自分は牢獄に入れられている。人間的に見るなら、何もできない。しかし、そのような中にあっても、私は、何でもできると言っているのです。

何もできないような環境にあっても、私は何でもできる、と言っているのです。

逆に、できる環境にあっても、「できない」と言うのが、普段の私たちです。

やろうと思えば、やれる状況にありながら、あれがないからできません、これが邪魔してできません、と私たちは言います。

できない事ばかりを考えて、駄目だ、駄目だと言っています。しかしパウロは、できない環境の中で、尚も、私はできると言っているのです。しかも、「何でも」と強調しているのです。

「わたしを強くして下さるかたによって」。この言葉を直訳しますと、「私を強くしてくださる方の中において」、となります。

すべてが可能だ、何事でもすることができる。その根拠は、自分の努力や、心の持ち方にあるのではない、というのです。自分を強くしてくださる方の中にあるのです。強めてくださる方の中で、強めてくださる方と共に生きていく時に、それが可能だというのです。

信仰を、修養と同じように捉えて、信仰によって身も心も強くなって、何でもできるようになる、ということではありません。そうではなくて、主によって強くされる、ということなのです。

そうなりますと、強くなるということも、世の中で成功を収めるための強さではない、ということが分かります。

それは、12節でパウロが言っているように、「いついかなる場合にも、対処する」ことができる、という強さです。

どんな境遇にも、満足することができる。足ることを知る。そういう強さです。

外側の境遇に左右されず、どんな時にも、足ることを知る自由。そこから来る強さです。

逆に、足ることを知らず、自分の中に、不平不満を抱えて生きている時には、僅かな境遇の変化にも、うろたえてしまう弱さになります。そして、そこには自由はありません。

そのことが書かれている、11節後半と12節を読ませていただきます。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。

これが、パウロが言っている、「私にはすべてが可能だ。何事でもすることができる」、ということの意味なのです。

いかなる状況にあっても、足ることを知っている。だから、いかなる状況にあっても、私は自由でいられる。何物にも支配されない。これは、素晴らしい生き方です。

誰もが望んでいる、理想的な生き方である、といえます。

イギリスでピューリタン革命を指揮して、政治的にも最も高い地位に着いたオリバー・クロムウェルという人は、召される直前、このフィリピの信徒への手紙4章を読んでもらっていました。寝ながら12節を聞き終わった所で、彼はこう言ったそうです。

「パウロよ、あなたは、いついかなる場合にも、対処する秘訣を授かった、というのか。それを学び得たのというか。私には、それは難しいことだ。哀れな私よ」。

自分は、政治的には最も高い地位に着いたが、12節にあるような生き方は出来なかった。そう言って落胆したのです。

しかし、続く13節を聞いた時、彼の顔に血が通ってきました。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

「そうだ、そうなのだ。私には出来ない。しかし、神様が、イエス様がそうさせてくださるのだ」。そう言って、希望と平安を与えられた、と伝えられています。

今朝の個所と、内容的に、密接に関係していると思われる御言葉があります。

コリントの信徒への手紙二の12章9節です。こういう御言葉です。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 これも同じく、使徒パウロが書いた手紙の中の御言葉です。

更に続く、12章10節で、パウロはこう言っています。

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

この「弱いときにこそ強い」、という言葉は、フィリピの信徒への手紙の「わたしを強めてくださる方」、という言葉と、よく似ています。

「弱いときにこそ強い」、「わたしを強めてくださる方」、「キリストの力がわたしの内に宿るように」。

ここにある「強い」という言葉、あるいは、「力」という言葉。いずれも原語では、同じ言葉です。「デュミナス」という言葉です。英語の「ダイナマイト」の語源になった言葉で、爆発するような大きな力を表しています。

爆発するような、キリストの偉大な力、キリストの強さが、私に内に宿って、「強めて」下さる、と言っているのです。

もう一つ共通していることがあります。それは、「わたしの恵みはあなたに十分である」という御言葉の中にあります。

この御言葉は、文語訳では、「わが恵み汝に足れり」、と訳されていました。

「汝に足れり」という言葉は、今朝の箇所の11節、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」。ここにある「満足する」と同じ言葉です。

パウロが語っている、この「足ることを知る」生き方とは、どんな境遇にあっても、「我が恵み汝に足れり」と言ってくださる、主イエスの恵みに足りることなのです。

主イエスの恵みに足りるならば、どんな境遇にあっても、満足できる、と言っているのです。

そして、その主イエスの恵みは、あの十字架に結集されています。

あの十字架に、主イエスの救いの恵みが、余すところなく顕れています。

主イエスは、その十字架の上から、言っておられます。「我が恵み汝に足れり」。

私たちは、他のことに足りているのではありません。もし、他のことに、究極の満足を求めているなら、私たちは、「まだ足りない」、「まだ足りない」と、際限なく求め続けなければ、ならないと思います。

しかし、主イエスは、十字架の上から、「我が恵み汝に足れり」と言っておられるのです。

十字架の恵みにおいて、あなたには不足はない筈だ、と言っておられるのです。

そうであれば、私たちは、「そうです主よ、あなたの恵み、あなたの十字架の恵みは、この私に十分です」、と答えたいと思います。

そういうために、私たちは、今朝、礼拝に来たのではないでしょうか。

この点において、私たちに不平・不満はない筈です。どんな境遇にあったとしても、この十字架の恵みに関する限り、私たちに不平はないのです。不満もありません。

なぜなら、十字架の恵みとは、「私は、あなたに、これ以上与えることができない」、と主イエスが言われる程の、究極の恵みだからです。

凡そ考えられる恵みの、すべてを超えた恵みなのです。

この恵みが与えられているから、私たちは、「あなたの恵みは、私には十分です」、と言うことができるのです。

「あなたの赦し、あなたの愛、あなたの恵みは、私に十分です」。

だから、私たちはどんな境遇にあっても満足することが出来ます。貧しく暮す術も、豊かに暮す術も知っています。そのように言うことが出来るのです。

貧しい生活にも、富んだ生活にも、満腹することにも、飢えることにも、ありとあらゆる境遇に対処することができるのです。

このことを裏付ける御言葉があります。先程と同じ、パウロが、コリントの教会に宛てた、第二の手紙の8章9節です。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。

主イエスは、家畜小屋の粗末な飼い葉桶にお生まれになり、そして、その後は、十字架に向かって、ひたすらに歩まれました。

すべてを造られ、すべてを支配されておられる神であるのに、そこまで貧しくなられました。

何のために、そこまでされたのでしょうか。それは、私たちを豊かにするためなのだ、というのです。私たちは、その主の貧しさによって、もう十分に豊かにされている。

これ以上ない程の富を与えられている。だから、どんな境遇にも対処することができる。

その意味において、「すべてのことが可能だ」、「何事もすることができる」、というのです。

16世紀のスペインの修道女、聖テレサは、生涯に、15の男子修道院と、17の女子修道院をたてました。ある時、人々を集めて、修道院を建設する一大計画を発表しました。

その時、会衆の一人から、「今、手元にどれくらいの資金があるのか」、と尋ねられました。

彼女は、「ここに二つのコインがあります」、と言いながら、そのコインを皆に見せました。

それを見て、皆が、思わず笑いました。その時、彼女は、彼らに向ってこう言いました。

「皆さんは、掛け算を知っていますか。この二つのコインに、神様の恵みを掛ければ、いくらになると思いますか」。

そして、実際に、彼女は、その二つのコインに、神様の恵みを掛けて、見事に一大事業を成し遂げたのです。

貧しさに処する術とは、こういうことを言うのだと思います。どこまでも、主の恵みに信頼し、主の恵みに依り縋っていく生き方です。

貧しい境遇に処する、ということは難しい。貧しさの中で、尚も、足ることを知る、ということは、容易いことではない。これは、誰にでも直ぐ分かると思います。

しかし、富んだ生活、満腹する生活を、正しく生きることも、実は、難しいことなのです。

人は、富を持つと平安を失い、人柄が変わってしまうことがあります。そして、やがて、信仰をも失ってしまうことさえあります。

富を支配しているようで、その実、富に支配されてしまう、ということが起こるのです。

ある時、大きな船が遭難して、沈没しました。救助に向かった潜水夫は、服のポケットに、金の延べ棒を、ぎっしり詰め込んだまま、溺れ死んでいる人を発見しました。

その時、潜水夫は、「この人は、金を持っていたのだろうか、それとも、金に持たれていたのだろうか」、と思わずつぶやいたそうです。

お金を支配しているつもりが、知らない間に、お金に支配されていた。そういうことが起こり得るのです。

しかし、最も尊いもの、最も高価なものを、既に得ている人は、富に支配されたり、富によって、平安を失ったりすることはありません。

十字架の恵みと言う、究極の富、最高の宝を得た者は、その他の富に、左右されたり、支配されたりすることがない筈です。

「主よ、あなたの恵みは、私には十分です」、と言うことができるからです。

メソジスト教会の創立者、ジョン・ウェスレーは、生涯、「28ポンドの生活」を送った、と伝えられています。

彼の、最初の収入は30ポンドでした。その中の28ポンドで生活し、残りを献金しました。

暫くして、収入は60ポンドに増えました。更にその後、90ポンド、更に120ポンドと増えていきました。しかし、生活費は、常に28ポンドで、変わらなかったそうです。

こうして、彼は、50年間で、3万ポンドもの献金をしたそうです。

賀川豊彦は、「死線を超えて」と言う本が、ベストセラーになって、今の価値で何億円という印税を手にしました。しかし、それを皆、福祉事業や救済事業に献げて、相変わらず、慎ましい暮らしを続けました。

しかし彼の妻は、そのことに一切、不平・不満を言わず、賀川を支え続けました。

そんな妻に対して、尊敬と愛情をこめて、賀川は、こう詠っています。

「千万金を 手にしつつ じゅばんの袖口 つくろいて 人に施す妻恋し」。

なぜ、このような生き方ができるのでしょうか。

富に処する術で、最も大切な真理とは何でしょうか?

それは、「私たちは、富の所有者ではなくて、管理者だ」ということです。

では一体、だれが所有者なのでしょうか。勿論、全世界を創造された、神様が所有者です。

私たちは、神様から託されたものを、管理しているに過ぎないのです。

そうであるなら、託してくださった方の、御心に従って用いるのが、正しい用い方である、ということが分かります。

私たちは、貧しい時は、どこまでも主を信頼し、富んでいる時は、自分は富の管理者に過ぎない、ということを、いつも覚えていたいと思います。

それを忘れそうになった時は、私は、十字架の恵みという、最高の富を十分に頂いている。

この恵みに、不足はない、ということを、想い起したいと思います。

その時、私たちは、あの詩編23編の詩人のように、高らかに詠うことができるのです。

「主は私の羊飼い。私には乏しいことはない。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

主は、私の前に宴を設け、私のこうべに油をそそがれる。私の杯はあふれます。

私の生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。私はとこしえに主の宮に住むでしょう。 」

これが、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」、という祝福された生き方なのではないでしょうか。

この詩人の喜びの歌を、私たち一人一人の歌と、させていただきましょう。