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柏牧師:過去の礼拝説教

「今がその時」

2015年04月12日 聖書:ヨハネによる福音書 5:19~30

今朝の御言葉は、3週間前に、ご一緒に聴きました、ベトザタの池のほとりで行われた、癒しの出来事に続いて、記されています。

あの癒しの出来事が、今朝の御言葉の背景にあります。

主イエスは、その癒しを、安息日に行われました。当時は、安息日には、生死に関わる、致命的な病気以外は、癒してはいけない、とされていました。

主イエスは、そのことをご承知の上で、敢えて、安息日に、癒しの業をなさいました。

何故、そのようなことを、されたのでしょうか。

それは、神様は、今も働いていらっしゃる、ということを、お示しになりたかったからです。

神様は、休んでなどおられない。神様は、安息日の今も、働いていらっしゃる。

私たちが、一人も滅びないで、永遠の命を得られるように、今も、働いていらっしゃる。

だから私も、この池を訪れて、癒しの業をしているのだ。

神の民にとって、一番大切なことは、自分たちが、どのように、戒めを守るかではない。

そうではなくて、神様が、あなた方のために、今も働いてくださっている。そのことを、きちんと知ることなのだ。主イエスは、そう言われたのです。

安息日には、あれをしなければならない、これをしてはいけない。

そんなことで、あくせくするのではなくて、「今も、あなたのために働かれている、神様を見なさい。あのお方を見なさい」、と言われたのです。

神様は、私たちを生かすために、今、この時も、働いてくださっています。今、この礼拝の中で、働いていてくださっています。

いえ、私たちの生きる、すべての場所で、神様は、いつも、働いていてくださっています。

そのことが、本当に分かったならば、私たちは、魂の一番奥深い所で、安息を得ることができます。そして、それこそが、まことの安息なのです。

5章18節には、この出来事があってから、ユダヤ人たちは、主イエスの命を、狙うようになった、と書かれています。

主イエスが、安息日に、病人を癒されただけではなく、神様をご自分の父と呼んで、ご自身を、神様と等しい者とされた。

そのために、ますます、主イエスを殺そうとしたのです。

なぜ主イエスは、十字架に掛けられて、殺されたのでしょうか。

それは、私は神だ、と言われたからです。そんなことを言われなかったら、主イエスは殺されることはなかったのです。でもそのことを、主イエスは、明言なさいました。

それは、今朝の御言葉を読めば、良く分かります。

今朝の箇所で、主イエスは、「神と等しい者である」、とはどういうことか。そのことを、大変丁寧に、しかしまた、大変力強く、説明されています。

今朝の箇所を読みますと、「はっきり言っておく」、という言葉が、三回出てきます。

「はっきり言っておく」、と訳された言葉は、原語では、「アーメーン、アーメーン」、という言葉です。主イエスは、非常に大事なことを、話される時には、「アーメーン アーメーン」、と言われて、語り始められました。

最初の、「はっきり言っておく」、「アーメーン アーメーン」は、19節にあります。

「はっきり言っておく。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」。

ここで、主イエスが言われていることは、ご自分と、父なる神様は一体である、ということです。ただ、主イエスは、そのことを、大変興味深い語り方で、説明されています。

「ご自分からは、何もなさらない」、ということによって、ご自分と、父なる神様とが、一体であることを、説明しておられるのです。

それがどうして、父なる神と、一体であることの、説明になるのでしょうか。

ここには、ひとつの比喩が隠されている、と考えられます。 この当時、ユダヤの国では、ほとんどの人が、手に職を持っていました。

例えば、主イエスの家は、大工でした。パウロの家は、天幕作りでした。ペトロやヨハネの家は、漁師でした。皆が、職人でした。

これらの職人たちは、自らが親方となって、自分の後を継ぐ息子を、弟子として育てます。

父親は、一人前になってもらいたい、という一心から、自分の知っていることを、全部、子どもに教えます。

そのように、職人の親子の間では、親方である父親が、自分のすることを、全部見せて、弟子である子は、その通りにするのです。そうやって、技術や知識が、伝わっていくのです。

やがて、父は死にますが、子が父の技術や知識を、十分に体得していれば、もう父はいなくてもよいのです。子が父に代わって、働くことが出来るからです。

しかし、御子イエス様の場合は、そうではありません。

子が、父の言う通りにする、ということは、永遠に続くのです。どんな時も、父なる神様なしに、御子が、働くことはないのです。

その御子が、今、ここで働いていてくださる。それは、父が働いておられる、ということと同じです。父がなさる通りに、御子がなさるからです。

そのように、御父と御子とは、どんな時にも、完全に一つなのです。

ところが、ただ一度、そうでなくなった時がありました。それが、十字架の死の時です。

十字架は、一つである、御父と御子が、引き裂かれ、御子が、人間の罪を背負って、御父の敵として、滅ぼされた出来事だからです。

それは、どんな時にも一つであった、御父と御子の関係が、崩されてしまった、唯一の時なのです。主イエスは、それだけは、避けたかったのです。

ですから、あのゲツセマネにおいて、血の滴りのような汗を流して、何とか、それだけは避けられないものか、と必死に祈られたのです。

先程の比喩で言えば、いつまでも、親方である父のもとで、弟子として、一緒に仕事をしたかったのに、破門されてしまったようなものです。

しかも、自分の失敗のためではなく、他の弟子たちの身代わりとなって、破門されたのです。それしか、他の弟子たちの失敗を、赦す方法がなかったからです。

この時の、主イエスの悲しみは、どれ程、大きかったことでしょうか。

しかし、御父は、その御子を、復活させてくださいました。破門を解いて、再び御側にいることを許してくださいました。再び、御父と御子は、一つとなられたのです。

それが、イースターの出来事なのです。

そして、再び一つとなられた、御父と御子は、その後は、どんなことがあっても、離れることはなくなったのです。

そのように、主イエスを、復活させてくださった、父なる神様は、同じように、死者をも復活させて、命を与えることが、出来るお方です。

ということは、御父と完全に一つであられる、御子もまた、命を与えることができるお方である、ということです。 そのことが、21節で語られています。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

ここにある、「復活させる」、という言葉は、5章8節の主イエスのお言葉、「起き上がりなさい」、と全く同じ言葉です。

あの、ベトザタの池のほとりで、主イエスは、38年もの間、病に苦しみ、死んだも同然だった人を、起き上がらせました。それは、その人に、新しい命を与えた、ということです。

その人は、主イエスのお言葉を聞いて、起き上がり、それまで彼を支配していた、諦めと絶望の象徴のような、床を担いで、歩き始めたのです。

それまでの古い自分は死んで、新しい命を生き始める。そのチャンスを与えられたのです。

同じように、私たちも、父なる神様と一つである、主イエスによって、新しい命に、生かされるのです。

完全に一つである、御父と御子。 そういう深い交わりの中で、父なる神様が、主イエスにお委ねになったことがあります。 それは、裁きについてのことです。

父なる神様は、誰をも裁くことはなさらない。裁く権能は、すべて子である私に、お委ねになった。だから、私が、この世を裁くのだ、と主イエスは言われています。

この「裁き」という言葉は、「分割する」、という意味の言葉です。何を分割するのでしょうか。

主イエスを、受け入れる者と、主イエスを、拒否する者とを、分割するのです。

私たちは、主イエスの御心に、沿うことができない者です。いつも御心を、悲しませてばかりいる者です。本当に弱い者です。

でも、私たちは、主イエスを愛しています。主イエスを、救い主として、受け入れています。

こんな私でも、少しでも、御心に沿いたいと、心から願っています。それで良いのです。

主イエスは、そんな私たちを、全てご存知の上で、私たちを赦し、私たちを受け入れ、私たちを愛してくださいます。

そして、「私が与える、新しい命を、受け取りなさい」、と言ってくださっています。

主イエスは、滅びではなく、命の側に、私たちを、分類してくださるのです。

ですから、私たちは、主イエスによる裁きを、恐ろしいもの、と捉えなくても、良いのです。

私たちが、主イエスを受け入れ、主イエスを信じて、生きていくなら、裁きは恐ろしくありません。なぜなら、裁きをなさる方は、私たちが、良く知っているお方だからです。

裁きをなさる方は、私たちのことを、命懸けで、愛してくださっている、お方なのです。

そして、私たちは、そのお方を受け入れ、そのお方を信じています。

ですから、私たちは、裁きを恐れなくてよいのです。

更に、主イエスは、そういう私たちは、裁かれない、とさえ言ってくださっています。

裁かれない、ということは、もう少し詳しく言いますと、裁きは受けるけれども、罪には定められない、という意味です。

主イエスは、そのことを、「はっきり言っておく」、と言われています。24節です。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。

主イエスは、信じる者に、永遠の命をくださる、というのです。

「永遠の命」と聞きますと、何やら掴みどころがなくて、分かり難い、という印象を持ちます。

しかし、実は、そんなに、難しいものではありません。私たちが、誰でも、その恵みに与れるものなのです。そうでなければ、救いになりません。

では、一体、「永遠の命」とは、何なのでしょうか。御言葉は、ここで、こう言っています。

「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る」。

主イエスのお言葉を、きちんと聞き、その主イエスを、お遣わしになった、父なる神様を信じる者は、永遠の命を得る、というのです。

つまり、人となられた神の言葉である主イエスと、父なる神様を信じること。

それが永遠の命なのです。

永遠の命とは、不老・不死の命ではありません。また、死んだ後から、初めてスタートする命でもありません。死後の世界に、限定されてはいません。

今、この時に、私たちが、父なる神様と、御子イエス様を、信じて生きる、生き方のことです。

永遠なる存在の主イエスと、共に生きる者は、既に、永遠の世界に、招き入れられているのです。

光である主イエスと共に生きる者は、今、既に、死の闇から、命の光の中に、導き入れられているのです。永遠の命を、自分のものと、しているのです。

そのようにして生きる時、どんな時にも、絶望せずに、生きることが出来ます。

もちろん、失望し、落胆することはあります。しかし、絶望することはないのです。

永遠の命とは、絶望なき人生である、と言い換えても、良いと思います。

主イエスは、「わたしの言葉を聞いて」、と言われました。わたしの言葉を聞くことが、信じることに繋がる、と言われました。

では、どこで、主イエスのお言葉を、聞くのでしょうか。それは、ここです。ここで聞くのです。

この礼拝の中で聞くのです。この礼拝において、主イエスは、語っておられます。

ですから、私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる、というのは、毎週起こる出来事なのです。一度だけではないのです。私たちが毎週、礼拝の場で、経験している事です。

毎週、主イエスのお言葉を聞き、それに励まされて、御心に従って生きようと願う人は、裁きを受けて、罪に定められることはない。永遠の命を受けることができる。

これは、本当に嬉しい、主イエスの約束です。

さて、三番目の「はっきり言っておく」は、25節に出てきます。

「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。私たちは、かつては、自分が何なのか、分からなかった人間です。

神様がいるのかどうかも分からないし、自分がどうしてこの世に生れて来たのかも分からない。偶然に生まれて、偶然に死んでいく。そういう人生に、どんな意味があるのかも分からない。そういう人生を生きてきた者です。生きてはいるけれど、死んでいるのも同然。

そのように、霊的に死んだ人生を、生きてきた者です。

しかし、そういう者が、教会に来て、聖書を通して、説教を通して、主イエスのお声を聞いたのです。そして、希望を持って、生きる者となったのです。

その声を聞いた者は生きる、と主イエスは仰いました。

主イエスの声を聞いた者は、永遠の命に生きる者とされる。

主イエスの御声を聞いて、主イエスを信じる時、もう私たちは、この世にあって、永遠の命に移っているのです。絶望なき人生に、生かされているのです。

死んだような人生から、主と共に生きる人生。永遠の命の希望に生きる人生に、既に、移っているのです。

「今やその時である」、と主イエスは言われました。

既に、私が来た。十字架に死んで、あなた方を救うために。あなた方に、永遠の命を与えるために、私が人となって、この世に来た。

この救いを、あなた方は、受け入れなさい。そうすれば、命に入れられる。

今や、その時なのだ。主イエスは、そう言われているのです。

主イエスが、十字架につけられた時、弟子たちは、皆、主イエスを見捨てて、逃げました。

主イエスを見捨てた弟子たちは、死んだように、ひっそりと隠れて、息を殺して、生きていました。生きていても、死んだも同然でした。

そんな弟子たちのところに、復活の主イエスは、顕れてくださり、お言葉を掛けてくださいました。弟子たちは、復活の主イエスに出会い、主イエスの、命の御言葉を聞いたのです。

そして、全く変えられて、新たな命に、生きる者とされました。

弟子たちにとっては、あのイースターの夜が、「今や、その時」であったのです。

これは、2000年前の出来事だけではありません。主イエスは、私たちに命を与えようと、今も、この礼拝堂の中で、語り掛けてくださっています。

「私につながれ。私とつながって命を得よ。私の声を聞いた者は、生きるのだ。」

この主イエスの御声は、今この場で、皆さん方、お一人お一人に向かって、告げられているのです。

今なのです。私たちは、今、この礼拝において、神の子の声を聞いています。

そして、永遠の命に生かされているのです。これは本当に、素晴らしい奇蹟です。

週報の【牧師室より】に、難民キャンプでの出来事を、書かせていただきました。

生きる気力を全く失い、無表情で、食事も薬も、全く受け付けなくなっていた、一人の子ども。

医師団が、なす術がないと言って、匙を投げたその子を、あるボランティアの青年が、二日二晩、抱き続け、語りかけました。

三日目に、その子が、青年を見つめて、初めて微笑み、食事をし、薬を飲みました。

そして、その子は生きたのです。

人間の不完全な愛ですら、このように人を生かすのです。まして、神の御子の、命懸けの愛が、そのお言葉が、人を生かさない筈が、ありません。

御子イエス様の、愛と、御言葉に、生かされる時、私たちは、この地上にあって、天国の前味を、味わうことができるのです。

ある人が、「どんな人が、天国に行けるのですか」、と尋ねました。

尋ねられた牧師が答えました。「この地上において、天国を経験した者が、行けるのです」。

そして、マザー・テレサは、こう問い掛けています。

「あなたは、今、天国を味わっていますか」。

主イエスと出会い、主イエスのお言葉を聞き、主イエスと共に歩むことによって、今、この時に、新しい命に生かされる。この地上にあって、今、天国を味わうことができる。

この素晴らしい恵みに与る、お互いでありたいと願います。