「一人も失いたくない」
2015年05月31日 聖書:ヨハネによる福音書 6:34~40
ヨハネによる福音書6章には、主エスと、ユダヤ人たちとの、命のパンについて議論が、記されています。
主イエスは、ユダヤ人たちに、「わたしの父が、天からのまことのパンを、お与えになる。
神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」、と仰いました。
父なる神様から与えられる、命のパン。それは、他ならぬ、この私のことである。
私が、天からの、まことのパンなのだ。主イエスは、そう言われたのです。
勿論、主イエスが、この時、語っておられるのは、肉体を養うための、物質的なパンのことではありません。そうではなくて、永遠の命を与えるパンのことです。
毎日食べるパンのことなら、私たちも良く知っています。お腹が空いたら、私たちはパンを食べます。それで、肉体を支えます。でも、暫くすれば、またお腹は空きます。
だからまた、食べるのです。そういうことを、毎日、繰り返しています。
しかし、そういうパンを、食べ続けていても、私たちは、いずれ死を迎えます。
ですから、私たちが毎日食べるパンは、永遠の命を与えてくれるパンではありません。
一時的に、空腹を満たすだけのパンです。
ユダヤ人たちは、主イエスが言われた、まことのパンとは、そういう物質的なパンである、と誤解しました。ですから、そういうパンを、「いつもわたしたちにください」、と言ったのです。
私たちは、毎日お腹が空きますから、そういうパンは、毎日必要なのです。
ですから、「いつもください」、「毎日ください」、と言ったのです。
それに対して、主イエスがお答えになった言葉。それが、「わたしが命のパンである」という言葉です。
「わたしが命のパンである」。この言葉は、とても深い意味を、含んでいます。
「わたしは……である」。こういう言い方は、ヨハネによる福音書に、特有のものです。
主イエスが、ご自分を、自己紹介される形で、名乗り出られる時の言葉です。
その最初が、ここです。「わたしが命のパンである」。
これから先、この福音書において、主イエスは、「わたしは世の光である」、「わたしは羊飼いである」、「わたしはぶどうの木」、「わたしはよみがえりであり、命である」、「わたしは羊の門である」、或いは「わたしは道であり、真理であり、命である」、と言われています。
こういう言い方が、全部で7回出てきます。
それと同時に、もうひとつ私たちが、心に留めておかなければならないことがあります。
この先の、8章24節に、こういう言葉があります。
「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。
この御言葉については、いずれ、その箇所を学ぶ時に、詳しくお話させていただきますが、今日、心に留めていただきたいのは、「わたしはある」という、少し変わった表現です。
この言葉は、その先の8章28節にも、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かる」、と書かれています。
「わたしはある」。ここで語られている主イエスのお言葉は、ギリシア語では、たった二つの単語です。「エゴー・エイミー」。
「エゴー」。これは、エゴイズムという言葉でも、知られているように、「私」という意味です。それに、「エイミー」という動詞が、付いています。
「エイミー」。これは、「ある」という動詞です。英語で言えば、be動詞に相当します。
「エゴー・エイミー」。英語では、「I am」です。
「わたしはある」。これが、主イエスが、ご自分のことを、自己紹介された言葉でした。
あのホレブの山で、燃える柴の中から、神様は、ご自分の名前を、モーセに告げました。
私の名前は、「わたしはある」、という者だ。神様は、そう言われました。
その同じ言葉を用いて、主イエスも、ご自分を紹介されているのです。
既に学んだ6章20節で、私たちは、これと同じ、主のお言葉を、聞いています。
主イエスが、荒れ狂っている湖の上を歩いて、弟子たちに近づかれ、「わたしだ」と言われました。これも「エゴー・エイミー」です。
荒れ狂う海に浮かぶ、小舟のように、私たちが、信仰の戦いを、必死に戦っている。
まさに、その場所に、「わたしだ」と言われる方が、近づいて来てくださる。
信仰者は、それを受け止めて、喜び、励まされて、信仰の戦いを、続けていくのです。
キリストの教会は、その長い歴史を通して、様々な迫害を受けました。
しかし、そのような迫害を受けながらも、尚そこで、生き続けることができました。
それは、「わたしだ」と言われる方が、そこにおられたからです。
「わたしだ」と言われる方が、近づいてくださり、共にいてくださったからです。
その「わたしだ」と言われる方が、ここで、「わたしは命のパンだ」、と言われました。
私がパンを与えようとか、パンについて考えよう、と言われたのではありません。
私自身が、あなた方の命を養うパンである。
私を食べる者は、永遠の命に生きる、と言われたのです。
これは、不思議な言葉です。何故、ご自身のことを、「パンだ」と言われたのでしょうか。
パンというのは、食べるものです。主イエスは、ご自分を、食べ物だと仰ったのです。
今日の箇所のテーマは、「信じる」ということです。
36節で、主イエスは、「あなたがたは、わたしを見ているのに、信じない」、と言われました。「信じる」ということが、問題になっているのです。
そういう文脈の中で、主イエスが、ご自分のことを、パンだと仰った。
ということは、主イエスを信じるということは、主イエスという、パンを食べることである、ということになります。
大事なことは、食べることなのだ、と主イエスは言われたのです。
当然のことですが、パンは、眺めるものではありません。
パンを見て、「あァ、いいパンですね。焼け具合も良いですね。香りも良いし、色合いも最高ですね」と言って、ただ眺めているだけでは、意味がありません。
暫くは見ていても、最後は、食べなければ、意味がありません。
主イエスは、ここで、ご自分はパンなのだ、と仰いました。
ということは、この私を食べてくれ、と言われているのです。ただ私の外側を見ているだけでなく、私を食べてくれ、と仰っているのです。
私を、ただ眺めていても、何も起こりませんよ。何の意味もありませんよ。
ですから、私を食べてもらいたい、と言われているのです。
食べるということは、究極的な形で、自分のものにしてしまうということです。
私たちも、本当に可愛い子供がいると、食べてしまいたい、と言います。でも、それは、本当に食べるのではなくて、その子を全部、自分のものにしてしまいたい、ということです。
自分が食べてしまったら、他の人はもう食べられません。
ですから、食べるということは、究極的に、自分のものにする、ということです。
主イエスも、そう仰っているのです。私を食べてくれ。
私を、完全に、あなたのものにして貰いたい。そのように言われているのです。
主イエスを食べるということは、それほどにまで深く、主イエスを、自分のものにしてしまう、ということなのです。そうやって、主イエスを食べた者は、自分もまた、主イエスのものになるのです。そういう深い結びつきが、私たちと、主イエスとの間に生まれるのです。
主イエスが、ここで望んでおられるのは、そういうことです。
そういう深い交わりの中で、私はあなたと共に生きたいし、あなたも、その交わりの中で、私と共に生きて欲しい。それが、主イエスが、ここで、仰っていることなのです。
ある牧師が、こんなことを書いています。その牧師が仕えている、教会の信徒が、癌に侵されました。役員として、長くその教会において、忠実に信仰生活を、守ってきた人です。
激しい痛みとの戦いの中で、この人はこう言った、というのです。
「イエス様が、人間となられて、今、肉の痛みに、のたうつ自分と、一つになってくださり、共にいてくださることが、どんなに慰めであり、力であるかを感じます。
自分は、肉体の糧が、取れなくなって、神様の恵みだけを食べて、生きています。そして、切実に、『われらの日用の糧を、今日も与えたまえ』と、主の祈りを祈っています。」
この方は、激しい痛みの中で、物質的なパンを、取ることができなくなって、命のパンである、主イエスの恵みだけによって、生かされています。
そして、毎日、イエス様、今日も、あなたを食べさせてください。あなたの恵みによって、生きさせてください、と切に祈っているのです。
命のパンである、主イエスを、今日も食べさせてください。私の命は、主イエスというパンによって、支えられているのですから。そのように、心から祈っているのです。
肉のパンだけではなく、命のパンである、主イエスを、今日も食べさせてください。
私たちも、そのように、「主の祈り」を、心から祈る者でありたい、と思わされます。
主イエスは、「あなたがたは、わたしを見ているのに、信じない」と言われました。
私が、目の前にいるのに、あなた方は、信じようとしない、と言われています。
ユダヤ人たちは、ただ主イエスを見ているだけなのです。主イエスの周りをウロウロしながら、見ているだけなのです。ですから、主イエスは、言われるのです。
「いつまで、見ているのですか。いつまで、眺めているのですか。見ているだけでなく、食べてもらいたい」。ユダヤ人たちは、主イエスを、見ているだけで、食べようとしないのです。
信じようとしないのです。そんな、ユダヤ人たちに、主イエスは、言われています。
「一歩踏み込んで、私を自分のものにしてご覧なさい。そうしたら、あなた方は、決して飢えることはない。決して乾くことはない」。主イエスは、そのように約束をしておられるのです。
それに加えて、主イエスが、ここで、もう一つ、約束されたことがあります。
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。
私のもとに来て、私を食べた人を、私は、決して追い出さない。
主イエスが、わざわざ、このように約束されたのは、私たちが弱いからです。
信仰者とは、「私を食べなさい」と言われた、主イエスのお言葉を、受け容れた者です。
主イエスという、命のパンを、頂いて食べた者たちです。
しかし、私たちは、弱いために、しばしば、主イエスを見失ってしまうのです。そして、不安になったり、望みを失ったり、してしまうのです。
でも、主イエスは、そんな私たちに対して、こう言われるのです。
そういうあなた方であっても、私のもとに来る限り、私が追い出すことは決してない。
これは、本当に嬉しいお言葉です。
父なる神様もまた、預言者イザヤを通して、こう言われています。
イザヤ書49章15節の御言葉です。『女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。 見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。』
たとえ、母親が、自分の産んだ子を、忘れるようなことがあっても、私が、あなたのことを、忘れることは、決してない。なぜなら、私は、あなたのことを、私の手の平に、刻みつけているからだ。何と力強い約束でしょうか。
主イエスも、私たちを見捨てたり、追い出したりすることは、決してない、と約束してくださっています。こんなダメな私たちなのに、何故、決して見捨てない、と言われるのでしょうか。
それは、神様が、私たちを、主イエスに、お与えになったからだ、というのです。
私たちは、自分の愛する人には、自分の最も大切なものを、与えたいと思うものです。
父なる神様が、最も愛しておられるのは、独り子なる主イエスです。
その最愛の独り子である主イエスに、父なる神様が、最も大切なものとして与えた贈り物。
それが、私たちだというのです。父なる神様が、主イエスに与えられた、最高のプレゼント。
それが、主イエスのもとに来る人たち、つまり、私たちだ、というのです。
神様は、主イエスに、こう言われているのです。この人たちは、私の大切な宝物です。
私は、この宝物を、愛するあなたに与えます。どうか、この人たちを、受け入れてください。決して追い出さないでください。
そして、これらの人々が、皆、永遠の命を得ることが出来るように、救ってください。
終わりの日に、復活することができるように、道を備えてください。
神様は、そう言われて、私たちを、主イエスに与えられたのです。
ですから、主イエスは、ご自身のもとに来る、すべての人を、父なる神様からの、大切な贈り物として、喜んでくださるのです。決して、退けたりしない、と言われるのです。
あなた方は、父なる神様が、私に与えてくださった、大切なプレゼントなのだ。
だから、私は、あなた方のことを、決して捨てない。いや、捨てられないのだ、と言われているのです。
たとえ、私たちが、主イエスのもとから、離れて行ってしまっても、主イエスは、尚も言われるのです。
「あなたが、私を捨てようとも、私は、決してあなたを捨てない。だから、何度でも、繰り返して、私の所に来たら良い。イエス様、もう一度来ました、と言って来たら良い。そして、私を食べたら良い。そういう人を、私は決して、見捨てない」。主イエスは、そう言っておられるのです。ですから、私たちは、「イエス様、ありがとうございます」と言って、主イエスのもとに、戻って行けば良いのです。あの放蕩息子のように、戻っていけばよいのです。
私たちには、それ以上のことは、できないのです。
神様の御心は、主イエスを見て信じる者が、すべて、永遠の命を得ることだ、と主イエスは仰いました。主イエスを信じる者、全員です。一人残らず、なのです。
神様は、この人は、救われなくて良い、などとは、絶対に仰いません。どんな人でも救いたい。一人残らず救いたい。それが、神様の御心なのです。
私には、3人の子どもがいます。その内の一人が、もし旅先で事故に遭って、生死が不明となったら、私は、何をおいても、事故現場に、駆けつけると思います。たとえそこが、地の果てであっても、何がなんでも、駆けつけます。
「でもまだ、二人いるから、まぁ、いいか」、等とは、決して思いません。
仮に、子どもが、10人いたとしても、同じだと思います。一人も失いたくないのです。
父なる神様の、御心も同じです。この世界に、どんなに多くの人がいても、何十億という人がいても、その一人も、滅びることがないように、と切に願っておられるのです。
私たち一人一人は、それほどに、大切な存在と、されているのです。
主イエスは言われています。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が、皆、永遠の命を得ることである」。
今の時代に生きる私たちは、主イエスのお姿を、肉体の目をもっては、見ていません。
しかし、聖書を通して、主イエスに出会い、信仰の目によって、心の目によって、主イエスを見て、信じています。
一方、この時のユダヤ人たちは、主イエスを、肉体の目で、実際に見ていました。
しかも、そこにいた人たちは、あの5千人を養った、パンの奇蹟をも、見ていた人たちです。
それなのに、誰も信じなかったのです。信じないどころか、挙げ句の果てに、主イエスを十字架にかけて殺してしまったのです。
やがて、復活された主イエスは、弟子のトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。この言葉は、このように説明することが出来ます。
「あなたは、肉体の目を持って、見たから信じたのか。肉体の目では見えなくても、心の目で、信仰の目で、私を捕え、私を見ることができる者は幸いである。」
私たちは、「命のパン」である、主イエスを食べることによって、心の目で、信仰の目で、主イエスを見ることができます。信じることができます。そして、永遠の命に生かされます。
それが、私たちの喜びの基です。希望の基です。
主イエスは、そのような幸いに、私たちを招いてくだっているのです。
感謝して、喜んで、命のパンである主イエスを、いただこうではありませんか。