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柏牧師:過去の礼拝説教

「神の息に生かされて」

2015年05月24日 聖書:創世記 2章4~9節

今朝、私たちは、ペンテコステ礼拝という、特別な主の日の礼拝を献げています。

十字架に死なれた主イエスは、三日目に復活され、その後40日間に亘って、様々な機会に弟子たちに顕れて、弟子たちを教えられました。

弟子たちは、復活の主イエスから教えられて、それまで分からなかったことが、次第に分かってきました。少しずつ霧が晴れるように、見えなかったものが見えてきたのです。

それでも未だ、主イエスの十字架と復活の意味を、はっきりと捕えることが、できた訳ではありませんでした。心の片隅には、未だ、迷いと疑いが残っていたのです。

復活の主イエスは、40日に亘って、弟子たちを教えられた後、天の父なる神様の許へと、昇っていかれました。

天に昇られる時、主イエスは、弟子たちに、「エルサレムを離れずに、約束された聖霊が与えられるのを待ちなさい」と言われました。

父なる神様が、あなた方に、助け主として、聖霊を送ってくださる。その時、あなた方は、私が言ったことや、私が行ったこと、そのすべてが分かるようになる。

その時まで、エルサレムに留まって、待っていなさい。主イエスは、そう言われたのです。

そして、その約束の通り、それから10日目に、ということは、主イエスが復活されてから50日目に、弟子たちの上に、天から聖霊が与えられました。

それが、ペンテコステの出来事です。ペンテコステとは、「50日目」という意味です。

では、主イエスが約束された、聖霊とは、一体何なのでしょうか。

聖霊が与えられる、ということは、どういうことなのでしょうか。

何か、魔術的な作用によって、人々の心が高揚されて、興奮状態になる、ということなのでしょうか。そうではありません。

聖霊は、三位一体の神の、お一人です。聖霊とは、私たちの内に働かれて、私たちに、主イエスについて、そして救いについて、教えてくださるお方。私たちに、主イエスのことを、分からせてくださるお方なのです。

使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」、と言っています。

そのように、私たちが主イエスの救いを信じることができるのは、聖霊なる神様が、私たちの内に、働きかけてくださるからです。

万物を支配されている神様が、ナザレのイエスという、ただの人となってこの世に来られ、背き続ける人間のために、十字架にかかって、命を献げられた。

そんなことは、私たちの小さな頭で、いくら考えても、とても理解できません。

福音の真理は、私たちの努力で、理解できるようなものではないのです。聖霊なる神様の働きによって、信じさせていただくものなのです。

弟子たちは、聖霊の賜物を頂いて、福音の真理を、はっきりと掴み取ることができました。

主イエスが十字架において、自分たちの罪を贖ってくださり、復活によって、死を超える希望を、確かなものにしてくださった。この救いの事実を、確かに信じることができたのです。

このことによって、弟子たちは、全く変えられました。

それまでは、エルサレムの、とある家の2階に、ひっそりと集まって、息を殺すようにして、潜んでいた弟子たちでした。死んだように、力なく生きていた弟子たちでした。

その弟子たちが、この聖霊を受けたことによって、力強く立ち上がり、大胆に福音を語り出したのです。

聖霊を受けたことによって、死んだようであった彼らが、生きる者となったのです。

この時、2階の部屋に集まっていた弟子たちは、120人ほどでした。たった120人です。

しかし、ここから、この120人から、教会の歴史はスタートしました。そして、その後、世界中に広まり、数え切れない人たちの、魂を救ってきたのです。

たった120人から始まった教会が、世界の歴史を変えてきたのです。

今、日本のクリスチャンの数は、全人口の1%にも満たない小さな群れです。なかなか、この1%の壁を、破れずにいます。しかし、そのことを、嘆くことはありません。

あのペンテコステの日。たった120人が、本物となった時に、その日の内に、3千人の人が、教会に加わった、と聖書は記しています。

1%にも満たないクリスチャンが、もし本物になれば、あのペンテコステの日に起こった出来事が、日本においても起こります。

日本の教会は、1%の壁を、何とか破りたいと、願っています。しかし、本当に願うべきことは、この1%が本物になることです。この1%が、聖霊の息吹きを受けて、真に生きる者となることです。その時、結果として、1%の壁は超えられます。

ペンテコステの日に、聖霊に満たされて、立ち上がった弟子たちは、初めから、3千人の人たちを導きたい、と願った訳ではありません。

ただ恵みに押し出されて、立ち上がって、力強く、語っただけです。その結果、一日に3千人の人が救われる、という出来事が起こったのです。

大切なことは、聖霊の満たしを、求めることです。

もっとも、私たちは、誰でも、心の奥底では、聖霊の満たしを、求めています。

なぜなら、もともと人は、聖霊の息吹きを受けて、生きる者とされた、存在だからです。

私たちは、皆、神様の息である、聖霊を受けて、生きる者とされたのです。

先程読んで頂きました、創世記2章7節には、そのことが記されています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。

ここには、人間は「土の塵」で造られた、と書かれています。人が「土から」、或いは「畑から」造られたという話は、古代の神話の中に、しばしば見られるものです。

しかし、聖書の特徴は、ただ土からと言わずに、土の「塵」から造られた、と伝えているところにあります。それだけ、人間の弱さ、もろさ、或いは、はかなさが、強調されているのです。

聖書は、どうにもならない人間の無力さ、弱さ、虚しさを、よく知っています。弱くて、脆い人間の現実を、よく知っています。

しかし、その塵から造られた人間が、「生きる者」になった、と聖書は伝えています。

それは、神様が、その鼻に、「命の息を吹き入れられた」からだ、と言うのです。そのようにして、私たち人間は、生きる者にされた、と聖書は言っているのです。

これは、天地創造の時の話ですが、ただ単に、過去のことを語っているだけではありません。このことは、私たち一人一人にとって、決定的な話なのです。

人が、土の塵から造られた、ということは、アダムだけでなく、私たち一人一人にも、当てはまることなのです。私たちもまた、土の塵から造られています。

ユダヤ人たちの目を恐れて、エルサレムの2階の部屋で、息を殺して、ひっそりと隠れていた弟子たち。まるで死んだようであった弟子たち。それは、私たちの姿でもあります。

私たちも、将来の不安に脅え、経済的な心配で押し潰されそうになり、世間体を恐れてびくびくしている。様々な、世の煩いのために、綿のように疲れ切っている。

そのため、活き活きとした、生き方が出来ないでいる。自分らしく、伸び伸びとした暮らしを送れないでいる。そんなことはなかったでしょうか。

しかし、私たちは、そこから、「生きる者」とされました。それは、神様の命の息が、吹き込まれたからです。神様が、聖霊という、命の息を、吹き入れてくださったからです。

これは、遠い過去のことだけでなく、今の私たちに対して、起こっている出来事なのです。

今日も、神様は、私たちに、息を吹き入れてくださっています。

それによって、土の塵のような私たちが、今日も、生きる者とされています。

聖霊という、神様の息によって、命を受け、生かされています。神様の息を受けて、神様の命に、繋げられているのです。

「その鼻に命の息を吹き入れられた」、と書かれています。人間が、自分で息を吸った、とは書かれていません。人間が、自分の力で、命を獲得したのではないのです。

人間は、土の塵として、現実の世界を生きています。土の塵のように、死んだ状態にいます。神様が、息を吹き入れてくださらなければ、本当に生きたものにはなりません。

人間が生きる者にされたのは、神様の業なのです。塵の中から、立ち上がらされたのです。

しかし、「息を吹き入れる」のには、大きなエネルギーが必要です。

皆さん、こんな場面を、心の中に、想い描いてみてください。

人間は土の塵から造られ、大地に横たわっています。生きる力もなく、死んだ状態です。

私たちが、様々な思い煩いに悩み、人生の重荷にあえいでいる時は、そうした状態にあります。神様は、そんな人間の上に、かぶさるようにして、身をかがめ、膝を折り、その口から、息を吹き入れてくださいます。

命の息を、吹き入れてくださいます。この神様の行為は、神様の憐れみを表わしています。

神様が、どこまでも低くなられて、身をかがめ、慈しみと、力をもって、息を吹き入れてくださる。その神様の働きが、人間を生きる者にしてくださいました。

神様は、今日も、そのようにして、私たちを、生かしてくださっています。

天地を造られた、全能の神様が、私たちと同じように、低くなられて、寄り添ってくださり、息を吹きいれてくださる。

私たちが、息が出来なくなった時、救急隊員がしてくれるように、神様ご自身が、私たちに、「人工呼吸」を、施してくださるのです。

皆さんも、生きることは大変だ、と感じられた経験を、お持ちだと思います。

誰にも、そういう時があると思います。自分は土のようだ、土の塵のようだ。

心身ともに綿のように疲れ果てた時、また、深い悩みの中で、私たちは、そう感じます。

息をすることさえ辛い。そんな思いに沈む時があります。

しかしその時、神様が、屈みこんで、私に、人工呼吸をしてくださっている。ご自身の命の息である聖霊を、私たちに力一杯、吹き込んでくださっている。

どうか、そのことを忘れないでください。

生きることに疲れた時は、ぜひ、そのことを、想い起して頂きたいと思います。

悩みや、ストレスで疲れ切っている、その時も、神様の人工呼吸によって、命の息を吹き入れられている。それによって、生きる者にされている。

そのことを、想い起して頂きたいと思います。

クリスチャンとは、それを想い起こすことが、できる人のことです。

ある人が、こんなことを言っています。人の吐いた息は、決して消えてなくなることはない。

それは、薄め、薄められながらも、世界中に広がっていく。一息の息が、世界中に行き亘るのに、およそ千年かかる。

この言葉が、科学的に、根拠があるかどうかは知りません。しかし、もしそうであれば、2千年前に、主イエスが吐かれた息は、世界中を二巡りして、今もこの大気中に、ほんの僅かでも、残っていることになります。

あのガリラヤの丘で、「悲しんでいる者は、幸いである。その人は、慰められる」、「疲れた者は、私のもとに来なさい。あなた方を、休ませてあげよう」。

そう言ってくださった、主イエスの息が、今も、空気中に、ごく僅かであっても、残っていて、私たちは、それを吸っている。そう思うと、元気が出てこないでしょうか。

私は、何かで落ち込んだ時には、思い切り深く、息を吸い込むことにしています。

そうすると、たとえ僅かであっても、主イエスの吐かれた息が、私の胸の中に、入ってくるような気になって、元気がでるのです。

皆さんも、試してご覧になられると、良いと思います。思い切り、深呼吸をするのです。

そうすると、私は生かされている。私は、主の息によって、生きる者とされている、という喜びが、湧いてくるかもしれません。

「人はこうして生きる者となった」。この御言葉は、喜びに輝いています。

「人はこうして生きる者となった」。これは、死んだような中から、生かされ、立ち上がらされた人の言葉です。生きる喜びを、知らされた人の言葉です。

「人はこうして生きる者となった」。神様の愛と、力強い働きによって、私たちは、今、生きる者にされています。私たちは生かされて、塵の中から立ち上がっています。

神様の慈しみと、憐みによって、今日も、息を吹き入れられて、神様の命に、繋げられているのです。

さて、人は「土の塵」から造られた、ということに、今一度、思いを巡らせて見たいと思います。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二の4章7節で、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」、と語っています。

この御言葉は、多くの人々に愛されています。しかし、私たちは、この御言葉を、どれだけ正しく捉えているでしょうか。

私たちが、この御言葉を聞いた時に、直ぐに思うことは、私たちは、本来、土の器のように、価値のない者である、ということです。

自分は、土できた、素焼きの器のように、値打ちのないものである。

この言葉は、パウロの、謙遜の言葉である。そのように理解することが多いと思います。

誰かから、褒められたりしますと、「いやー、私は土の器に過ぎませんから」、と言って謙遜する。そのように、用いられることが多いと思います。

しかし、この言葉は、そういう謙遜の意味だけを、言い表しているのではありません。

10年前に召された、阪田寛夫(さかた ひろお)さんという作家が、「土の器」という題の小説を書いています。1974年に、芥川賞を受賞した作品です。

阪田寛夫さんは、熱心なクリスチャンホームに生まれ、教会で育った作家です。

その阪田さんが、自分の母親について書いた小説が、「土の器」です。小説ですが、明らかに事実に基づいて、書かれています。

彼の母親は、ある教会の、非常に熱心な信徒で、最後まで、一生懸命に、奉仕をした人であったそうです。

しかし、気丈夫であった、その母親が、年を取って、肉体が衰え、やがて病を得て、治療を受けるようになります。病室で、様々な医療器具を、身に付けられて、どのように亡くなっていったか。そのことを、淡々と、客観的に書いています。

その母の姿を見て、作者の阪田さんは、「あー、人間というものは、パウロの言う通り、土の器なのだなぁ」、と思うのです。

この小説が語っているように、土の器とは、壊れやすいものです。滅んでいくものです。

パウロは、そのことを、ここで言いたかったのです。人間は、滅んでいくものでしかない。

そういう意味で、土の器なのです。パウロが、自分を土の器と言った時に、ただ謙遜のためだけに、言っているのではないのです。

文字通り、自分は土で出来ていて、土に帰っていくものなのだ。滅びるべき者なのだ、と言っているのです。

そうなのです。私たちは、本来は、滅びるべき土の器なのです。

創造主である神様が、土の塵から、造ってくださったものです。土で造られ、やがて土に帰っていく。まさに、土の器なのです。

しかし、その土の器の中に、神様が、聖霊という、命の息を、吹き込んでくださったのです。

それによって、私たちは、生きるものとされたのです。

神様は、なぜ、そんなことを、されたのでしょうか。

わざわざ、低くなられて、身をかがめて、ひざまずいて、命の息を吹き込んでくださった。

そして、これによって生きなさい、と言ってくださった。どうして、そんなことをしてくださったのでしょうか。

土の器である、私たち一人一人を、大切な宝として、愛してくださっているからです。

私の目には、あなたは高価で尊い、と仰ってくださっているからです。

私たちは、自分が土の器である、ということを、逃れ道にすることがあります。

どうせ私なんか、土の器なんだから、と言って、投げやりになることがあります。

誰かが、心配してくれても、「ほっといてよ、私なんかどうなってもいい存在なんだから」、と言って、自分を大切にしないことがあります。

でも、私たちは、ただの土の器ではありません。その中に、神様の、命の息が、吹き込まれている者なのです。

ですから、粗末な土の器が、限りなく尊い存在と、されているのです。どうでもいい存在ではないのです。

本来は、滅びるべき、土の器である、私たちが、そのようにして、生きる者とされている。

2千年前、ペンテコステの日に起こった出来事。

死んだようであった弟子たちが、命の息を吹き入れられて、力強く生きる者とされた。

この出来事は、今の私たちをも、生かす出来事なのです。今の私たちにとって、意味のある出来事なのです。

その恵みの内を、共に歩んでまいりたいと願います。