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過去の礼拝説教

「主イエスは美味しいお方」

2015年07月19日 聖書:ペトロの手紙一 2:1~10

私たちには、食べ物、飲み物について、好き嫌いがあります。

どんな食べ物が好きかは、ある意味では、その人のことを、表現しているともいえます。

こういう食べ物が好きだ、と聞きますと、大体その人のイメージが、浮かび上がってくるものです。脂っこい肉料理が好きな人。あっさりとした和食が好きな人。

好きな食べ物によって、その人のイメージが、浮かび上がってくるのではないでしょうか。

人間は、食べるものによって、徐々に体質が、変わっていくからです。

同じことは、心についても、言えると思います。どういう本を読むか、どういう音楽を聴くか、どういうテレビ番組を観るか。

それらによって、人間の心は、大きな影響を受け、徐々に性格が、決定されていきます。

信仰生活も同じです。毎日、どのような霊の糧を、食べるかによって、その性格が決定されていきます。

肉体の食事は、一食抜いても、空腹感を覚えます。ずっと食べずにいれば、いずれは死んでしまいます。

しかし、信仰生活は、そうではありません。心がやせ細っても、目には見えません。

信仰が、死に絶えそうになっても、自覚症状がない場合が多いのです。

それでは、キリスト者は、信仰生活が、やせ細ってしまわないために、どの様な食べ物を取るべきなのでしょうか。

今朝の御言葉は、そのことを語る前に、まず私たちが、取ってはいけないもの、私たちが、捨てなければいけないものについて、語っています。

2章1節で、ペトロは、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを、勧めています。ここにある、「捨て去る」、という言葉は、「脱ぎ捨てる」、という意味の言葉です。

エフェソの信徒への手紙で、使徒パウロが、『古い人を脱ぎ捨て…..新しい人を身に着けなさい』、と語っていますが、その時に、用いられている言葉です。

ペトロは、ここで、「汚れた着物を脱ぐように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな脱ぎ捨てなさい」、と勧めているのです。

新共同訳聖書には、訳されていませんが、原文では、すべての悪意、すべての偽り、すべての悪口、と繰り返して、「すべての」と語られています。

これらのものを、すべて、脱ぎ捨てなさい、と言っているのです。

今、私たちが生きている、人間社会は、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口に満ちています。

そのような、悪の武具をもって、攻撃されることの多い、世の中です。

ですから、人々は、同じような武具を、身に纏うことで、自分を守ろうとします。

残念なことに、私たちが生きている社会は、そのような戦いの場なのです。

しかし、御言葉は、これらのものを、すべて脱ぎ捨てなさい、と言っています。

それらを、全部脱ぎ捨てたら、丸裸になってしまいます。相手の攻撃に対して、全く無防備になってしまいます。

昔から、戦いの場で、武器や鎧を、すべて捨て去って、丸裸になった相手のことを、「赤子同然」と言います。

一切を脱ぎ捨てるということは、赤子、即ち、乳飲み子のようになることです。

悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口。そういうもので、完全武装している相手に対して、乳飲み子のように、無防備になりなさい、と御言葉は言っています。

そんなことをして、大丈夫なのでしょうか。大丈夫なのです。

御言葉は、すべてを脱ぎ捨てても、あなたは生きていけます、と言っているのです。

2節の御言葉は、こう語っています。『生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい』。

御言葉は、悪の武具を、すべて脱ぎ捨てて、乳飲み子のようになって、ただ霊の乳のみによって、生きていきなさい、と勧めています。

大丈夫、あなたは、それによって生きていける。だから、恐れずに、それらを、脱ぎ捨ててしまいなさい、と言っているのです。

それらを全部脱ぎ捨てて、全く無防備な、乳飲み子となると、どうなるのでしょうか。

自分のうちには、何の力も無くなります。力は、神様からしか、得られなくなります。

信仰生活とは、自分の力で、生きることではなくて、神様からの養いによって、生きることです。神様からの養い、それが、2節で言われている「霊の乳」です。

生まれたばかりの、乳飲み子のように、無防備となった、キリスト者は、「混じりけのない霊の乳」によって、養われることが、必要だ。そうすれば、生きていける、というのです。

生まれたばかりの乳飲み子、それは本当に、小さくて、ひ弱な存在です。

しかし、そんな赤ちゃんでも、母親の乳を飲む時には、思いがけないほどの力強さで、乳を吸います。

なぜ、赤ちゃんは、教えられもしないのに、むしゃぶりつくように、強く乳を吸うのでしょうか。

それは、この乳さえあれば、生きていける。この乳の中には、生きていくのに必要な、すべてがある。そのことを知っているからです。

キリスト者も同じように、社会的には、小さくて、ひ弱かもしれません。

しかし、赤ちゃんが、母親の乳を、必死に慕い求めるように、いやそれにも優って、「混じりけのない霊の乳」を、熱心に慕い求めていく時に、この世で生きていける、というのです。

いえ、これ無しには、生きていけないのです。

ここで、「慕い求める」、と訳された言葉は、とても強い意味を持つ言葉です。

詩編42編の御言葉、『鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。』。

旧約聖書のギリシア語訳では、この箇所の、「慕いあえぐ」という言葉が、2節の「慕い求める」、と同じ言葉となっています。

乳飲み子が、母親の乳を、思いがけない力で、慕い求めるように、鹿が谷川の水を、慕いあえぐように、「混じりけのない霊の乳を、慕い求めなさい」と、御言葉は言っているのです。

では、これさえあれば、信仰者が生きていけるという、「混じりけのない霊の乳」とは、何なのでしょうか?

ここで、「霊の乳」と訳された言葉は、新改訳聖書では、「みことばの乳」と訳されています。

「霊の」、という言葉の原語は、ロゴスという言葉です。ロゴスというのは、もともとは「言葉」という意味です。ですから、「みことばの乳」と訳しても、間違いではないのです。

主イエスご自身も、ヨハネによる福音書において、『わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である』、と言われました。主イエスの御言葉は、霊なのです。

ですから、「霊の乳」と、「みことばの乳」とは、同じことだと、言っても良いのです。

ここで、ペトロは、「御言葉の乳を、慕い求めなさい。すべてのものを、脱ぎ捨てても、これさえあれば、信仰者は、生きていける」、と言っているのです。

ペトロは、厳しい迫害の中にある、教会の信徒たちに、心を込めて語っています。

大切なことは、どんな時でも、生まれたばかりの赤ちゃんのように、御言葉の乳、霊の乳を、日々求め続けていく事です。そして、それを飲んで、成長していく事です。

これさえあれば、あなた方は、生きていけるのです。

さて、3節で御言葉は、『あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました』、と語っています。「恵み深い方」という言葉は、原語では「クレーストス」という言葉です。

主は、クレーストスである、と書いてあるのです。

ここでは、クレーストスという言葉は、「美味しい」、という意味で使われています。

あなたがたは、主の美味しさを味わいました、と語られているのです。

そうなのです。主の御言葉は美味しいのです。

旧約聖書のエゼキエル書に、このような御言葉があります。

「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。

預言者エゼキエルは、主の御言葉は、蜜のように甘くて、美味しい、と言っています。

そのように、主の御言葉は、口に甘く、美味しいのです。

また、聖書では、このクレーストスという言葉は、美味しいという意味の他に、「情け深い」とか、「親切な」、とも訳されています。

これら、すべての意味を持つお方が、主である、と言うのです。

主は、恵み深く、情け深く、親切なお方である。

そのことを、あなたがたは、既に味わいました。聞いて、頭で理解しただけではなく、実際に、味わった筈だ、と御言葉は言っているのです。

ある人は、このクレーストスという言葉は、「極端に親切で、情け深い人」、という意味に近いといっています。

それは、もう少しくだけて言うならば、「度外れたお人好し」、と言っても良いと、言うのです。

すべての人間に、裏切られても、すべての人間が、逃げ去っても、主は、それらすべてを、ご存知の上で、尚も、私たちを受け入れて、愛してくださる。

自分を十字架に架け、想像を絶する、苦しみに会わせた、その人間を赦すために、十字架の苦しみの中で、必死に執り成しの祈りをしてくださる。

そのような、度外れたお人好し、極端に親切で、恵み深い方に、出会わなければ、人間は自分の身を守る装いを、すべて脱ぎ捨てることなど出来ません。

本当に、主がクレーストスなお方、恵み深い方であることが、分からなければ、裸になって、乳飲み子のように、なることはできません。

しかし、主が、度外れたお人好しで、恵み深い方だということを、体で味わった者は、すべてを脱ぎ捨て、乳飲み子のように、霊の乳のみを、慕い求めることができる筈だと、御言葉は言っています。果たして、私たちはどうでしょうか?

私たちは、すべてを脱ぎ捨てて、主の御声に耳を傾けているでしょうか。

今も、言葉に表せない、切なるうめきをもって、執り成して下さっている、聖霊の細き御声に、心からの飢え渇きをもって、聴いているでしょうか?

乳飲み子が、母親の乳を慕うように、鹿が谷川の水を、慕いあえぐように、いつも主の御言葉を慕い求め、救いに向かって、成長していく者でありたいと願います。

続く4節では、「この主のもとに来なさい」、と招かれています。

「度外れたお人好しである、この主の許に来なさい。ここにこそ、あなたの救いがある。いや、ここにしか、あなたの救いはないのだ」。これは、ペトロの、必死の呼び掛けです。

更にペトロは、その度外れたお人好しの、主イエスは、父なる神様が選ばれた、尊い、生きた石である、と言っています。

主イエスは、神様に選ばれた、尊い、生きた石。そして、私たち一人ひとりも、生きた石として、選ばれた者なのだ、と御言葉は言っています。

そして、その生きた石である、私たちは、お互いに組み合わされて、霊的な建物である、教会へと、造り上げられていくのです。私たちという石は、大きさも、形も、皆、違っています。

でも、キリストを、土台の石として、その上に積み上げられた時、それぞれの違いを超えて、一つ一つが、無くてはならない、大切な石として、しっかりと組み合されていくのです。

そのようにして、神の家である教会は、建て上げられていくのです。

私たちは、教会という、霊の建物に、組み込まれている、大切な石なのです。

「あなた方は、使い物にならない石、死んだ石ではない。大事な、無くてはならない、生きた石として、用いられているのだ」。 御言葉は、私たち一人一人に、このように語っています。

それでは、土台である主イエスは、どのような石なのでしょうか?見上げるような、大きな岩のような、石であったのでしょうか?

それとも、いかにも頼りがいのあるような、堅固な石であったのでしょうか?

あるいは、美しい大理石のような、石であったのでしょうか?その美しさに、見る人が、心奪われるような、華麗な石であったのでしょうか?そうではなかったのです。

御言葉は、主イエスは、「人々から見捨てられた石」であった、と言っています。

ある、アメリカの神学者が、聖書の中の、主イエスのイメージについて、本を書いています。

その中には、主イエスについて、96のイメージが紹介されています。

羊飼いとか、ぶどうの木とか、まことの光とか、命の水、命のパン、道など、たくさんのイメー

ジが出てきます。それらを、一つ一つ数えていくと、96にもなるそうです。

その中に、ちょっと変ったものがあります。それは、石というイメージです。しかも、それは、捨てられた石なのです。

主イエスは、「人々から見捨てられた石」、であったのです。

ここに、霊の建物である教会が、普通の建物と、どんなに違うかが、示されています。

教会の土台としての、主イエスという石は、人間から見れば、「役に立たない石」のように見えた、というのです。

人間が、家を建てる時には、色々と計画を立てます。石を選ぶなら、その計画に相応しい物を選びます。

ところが、主イエスという石は、人間の企画に合わないものであった、というのです。

役に立たない、使えない石だった、というのです。

だから、「人々から見捨てられた石」、であったのです。

建築家が、役に立つかどうか、よく調べた上で、「これは駄目だ」、「こいつは使えねぇ」、と言って、捨てた石だ、というのです。

しかし、その捨てられた石を、神様は、人間の救いのために、お用いになったのです。これは、驚くべきことではないでしょうか。

建築の専門家が、「役に立たない」、「使えない」、と判断したものが、最も大切な、親石となったのです。これは、まさに、神様の業としか、考えられないことです。

しかも、この石は、単に「捨てられた」、「退けられた」、というだけではないのです。

捨てられただけではなくて、殺されたのです。主イエスが、十字架につけられた時、誰が、このお方が、すべての人を救う、救い主である、と考えたでしょうか。

誰一人、そんなことは思わなかったのです。ただ、父なる神様と、御子なるキリストのみが、それを知っておられたのです。この世の人々は、誰もが、イエスという男は、十字架の上で、完全に滅び去った。もうおしまいだ、と思ったのです。

石が、人々から見捨てられた、というのは、そういうことです。

はっきりと、誰もが認める形で、人々に捨てられたのです。捨てられて、殺されたのです。

しかし、それは、私たちの救いのためでした。それによって、私たちは、初めて、罪の縄目から、解放されたのです。

だからこそ、この石が、教会という、霊の家の、隅の親石となったのです。

隅の親石とは、建物全体を支える、かなめの石のことです。

一番大事な、尊い石です。その親石のおかげで、他の石が生きるのです。

それまで死んでいた、他の石が、親石によって生かされ、生きた石になるのです。

ところが、その石を、人間は、軽蔑して、捨てたのです。

なぜなら、その石は、立派な石には見えなかったからです。役に立ちそうもない、みすぼらしい石だったからです。それは、まさしく、「見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」、あのイザヤ書が伝える、苦難の僕の姿、そのものだったからです。

人間の好みに、合うものではなかったのです。すべての人間に、救いを与えるお方のようには、とても見えなかったのです。

人間は、自分を生かす、最も大切な、最も尊いものが分からなかったのです。いえ、今でも、多くの人が、分からずにいるのです。

どうして分からないのでしょうか。私たちの常識を超えているからです。

主は、私たちを、愛の対象として、造ってくださいました。私たちを造ってくださった目的。

それは、ただ、私たちを愛するためであったのです。私たちと、愛の交わりをしたい。

ただ、そう願われて、私たちを造ってくださったのです。

それなのに、私たちは、その主に背き続け、その主を裏切り続けています。

私たち人間の常識では、せっかく造ったものが、そんな出来損ないであったなら、廃棄処分にします。しかし、主は、そんな私たちを救うために、傷つけられ、鞭で打たれ、嘲られ、挙句の果ては、十字架に架かって、命をささげてくださったのです。

出来損ないの私たちを、廃棄処分にするのではなく、造られたお方ご自身が、自ら廃棄処分になってくださったのです。

こんなお人好しは、私たちの常識の中には、収まりません。このお方の愛は、私たちの常識を超えています。度外れた愛です。度外れたお人好しです。

しかし、この度外れたお人好しによって、私たちは、救われたのです。

ですから、私たちは、このお方の語られる御言葉によって、養われ、生かされなくてはならないのです。このお方の御言葉を、美味しい霊の乳として、毎日いただいて、成長していかなくてはならないのです。

愛する兄弟姉妹、私たちは、乳飲み子が、母親の乳を慕い求めるように、鹿が、谷川の水を慕いあえぐように、御言葉をひたすら慕い求めて、歩んで行こうではありませんか。

そして、度外れたお人好しである、主イエスという、尊い土台の上に積み上げられた、生きた石として、お互いに、しっかりと組み合わされて、茅ケ崎恵泉教会という、この神の家を、共に建て上げてまいりましょう。