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過去の礼拝説教

「金や銀よりも尊いものによって」

2015年07月12日 聖書:ペトロの手紙一 1:13~25

今朝の御言葉の中には、私たちの心に、一種の緊張感を与える言葉が、記されています。

或いは、私たちに対する、チャレンジの言葉とも、言えるかもしれません。

「聖なる方に倣って、あなた方自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。」 この御言葉です。

キリスト者として生きる、ということは、「聖なる者」として、生きることである。御言葉は、そう断言しています。こういう言葉を聞きますと、私たちは、一瞬たじろぎ、身構えてしまいます。

では、「聖なる者となる」とは、どういうことでしょうか。

それは、道徳的に立派な生活をするとか、聖人君子のような、完璧な人間になる、ということではありません。そのような、外側に表れる、立ち振る舞いのことではなく、心の内側の、もっと霊的な変化です。

「聖なる者となりなさい」。この言葉の意味は、「この世の物から区別されて、神のものとなりなさい」、「しっかりと神のものになりなさい」、ということです。

ここには、旧約聖書レビ記11章45節の御言葉が、引用されています。こういう御言葉です。

「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」

ここでペトロが引用したのは、45節の後半の言葉です。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」

そして、その直前の前半部分には、このようなことが書いてあります。

「私はあなた方の神になる。それが、私の意志なのだ。それをはっきりと示すために、私は、あなたたちを、エジプトの奴隷の地から、救い出したのだ」。

私は、あなた方を、エジプトの奴隷の地から、救い出した。どうしてだか、分かるか。私が神であることを、あなた方が、本当に信じられるようになるためだ。そう言っているのです。

新約の時代に生きる、私たちに対しては、エジプトからの救出に替えて、主イエスの十字架による、救いが与えられています。

聖書の御言葉が、私たちに言っていることは、はっきりしています。

「私は、あなたがたを救うためにあらゆることをした。私はあなた方の、まことの神になるために、愛する独り子を、十字架で八つ裂きにまでした。あなたがたはもう私のものだ。

だから、あなた方が聖なる者、この世から区別されて、神のものにならない筈がない。」

この語り掛けは、神様の、私たちに対する、悲痛な願いであり、必死の期待でもあります。

私たちを、神様のものとするために、神様は、独り子を、十字架にささげてくださった。

そうやって、神様の側から、私たちの神になってくださいました。私たちが、この神様にしよう、と選んだのではありません。先ず、神様からの働きかけが、あったのです。

私たちの神様は、そのようなお方なのだから、それに相応しい者、聖なる者にならない筈はないだろう。

神様のものと、ならない訳にはいかないだろう。御言葉は、そう言っているのです。

このような大きな対価を払って、買い取ったのだから、あなた方が、私の信頼に応えない筈がない、という神様からの呼び掛けです。

信仰とは、この神様の信頼に応えて、神様のものに、なり切ることです。

私たちが神様のものとされた。このことを的確に言い表す、有名なエピソードがあります。

以前にも、紹介したことが、あるかもしれませんが、救世軍の兵士の話です。

英国の、ある信仰深い夫婦が、救世軍に入隊しました。そして、救世軍の集会に出席した所、皆が着ている服に、二つの単語が、縫い付けられていたそうです。

この夫婦は貧しくて、学校に行けなかったので、字が読めませんでした。それで、その言葉が何を意味するか、分かりませんでした。

でも、自分たちだけ、その単語が、服に刺繍されていないのを見て、とても淋しく思いました。淋しい思いをしながら、二人で家に帰る途中、一軒のお店に、二つの単語が大きく書かれているのが、目に入りました。

その夫婦は、その単語が何を意味するかは、分かりませんでしたが、形が似ているように見えたので、その文字の形を書き写して帰り、それを服に縫い付けました。

次の集会の時に、彼らが、その服を着て出席すると、他の信者が皆、この夫婦の周りに集まって来て、「これこそキリスト教信仰の真髄だ」、と言って二人を賞賛しました。

何と、その服には「OWNER CHANGED」(持ち主が変わりました)と刺繍されていたのです。

その店は、持ち主が変わったので、記念のセールをしていたのです。

キリストの十字架によって、罪の支配から買い取られた私たちは、もう神様のものなのです。オーナーが変わったのです。

奴隷が、新しい主人に買い取られたように、私たちは、キリストの十字架という対価によって、新しい主人である、神様に買い取られ、神様のものとされたのです。

主イエスが、十字架の上で、息を引き取られる直前に語られた、最後の言葉。

「成し遂げられた」。この言葉は、当時、奴隷の売買が成立した時に、宣言された言葉です。

奴隷市場に奴隷が引き出され、値段が交渉されます。そして、値段が合意に達すると、奴隷商人が、机を木筒で打ち鳴らして、「売買が成立した」、と叫びます。

その時の言葉が、主イエスが十字架で、最後に語られた、「成し遂げられた」、という言葉なのです。

主イエスは、十字架という、とてつもなく高価な、対価を払うことによって、私たちを、罪の奴隷から、買い取ってくださったのです。そして、ご自分のものとしてくださったのです。

そのようにして、私たちの全存在が買い取られて、神様のものとされたのです。

ですから私たちは、古い主人の許を離れて、新しいオーナーのものとなることを、求められているのです。

神様は、私はあなたを、私の子とした。だから、あなたは、「私に似る者となれ」、と言われています。親は、自分の子が、自分に似ているのを、喜ぶものです。

私の長男に、娘が与えられましたが、その娘が、長男に似ていると言われると、長男は無条件で喜びます。

しかし、もし、自分に、似ても似つかないような、子供だったらどうでしょうか。

例えば、金髪で、青い目をして、鼻が高い子が、「パパ、パパ」と言って、私に近寄ってきても、私はちょっと、複雑な思いになると思います。

同じように、父なる神様は、私たちを、子として召してくださったのですから、私たちが、父に似る者となることを、望んでおられるのです。

『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。』

そのような生き方を目指す時に、私たちが、これまでずっと続けてきた、先祖伝来の生き方が、変えられていく、と御言葉は語っています。

先祖伝来、つまり、歴史が始まって以来、営々と繰り返してきた、人間の生き方があった。

しかし、それは、結局のところ、空しい生き方であった、と御言葉は言っています。

優れた精神科の医者であり、またキリスト者であった、神谷美恵子さんは、多くの人の臨終に、立ち会いました。そして、たくさんの人が、苦しみながら、死んでいくのを見てきました。

ある本の中で、神谷さんは、「私が見た限りでは、死に際しての、最も大きな苦しみは、自分の人生の意味が、分らずに死んでいく時の、不安である」、と言っています。

果たして、自分の人生は、意味があったのだろうか。私は、本当に生きたと言えるのだろうか。このような問いに、答えを得られないままに、死んでいく時の不安。

それこそが、死に際して、人間を最も苦しめるのだ、と言っているのです。

自分の人生の意味を、掴めずに死んでいく。もし、掴めたと思っても、死によって、すべてが終わってしまう。それは、空しい生き方である、と言えるのではないでしょうか。

「日本昔話」というテレビ番組がありました。それこそ、先祖伝来の昔話を紹介する番組でした。その中に、長者物語という話が、いくつか含まれていました。

何かの幸運が重なって、貧しかった人が長者、お金持ち、になるという話です。

このジャンルの話は、いつも、「そうして長者になって、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。」という言葉で終っていました。

私たちが、先祖から受け継いできた生き方も、お金持ちになると幸せになれる、という生き方でした。昔も、今も、お金によって、幸せを得ようとする、生き方は変わっていません。

しかし、御言葉は、そのような生き方は、空しい生き方である、と言っています。

それでは、その空しい生き方を、変えるためには、何が必要なのでしょうか。

御言葉は、『金や銀のような朽ち果てるものによらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです』、と語っています。

非常に分りやすい言葉です。教会で、何度も聞いてきた言葉です。

「知ってのとおり」と書かれているように、今更、繰り返して、聞かされなくても、もう十分に知っている、と言いたくなるような言葉です。

しかし、この御言葉は、大変具体的に、何が自分を救い、何によって自分が、空しい生活から、贖い出されたか。そのことを、はっきりと示してくれています。

信仰生活を長く続けていますと、十字架の恵みが、当たり前に与えられているような、錯覚に陥り、段々とその恵みが、色あせていく危険があります。

ペトロは、そのことを良く知っています。ですから、ともすれば十字架から目を逸らして、金や銀を、見つめてしまいがちな、私たちに対して、主イエスの流された、血の尊さを、いつも思い続けていなさい、と言っているのです。

私たちは、お金を得ることに、熱心になるあまり、いつしか、お金の奴隷になっていることに、気が付かないことがあります。

アメリカの教会から、インド伝道に派遣された宣教師が、一時帰国し、報告会を開きました。

そこで、その宣教師が、木の像を取り出して、「皆さん、これが、現地の人たちが拝んでいる偶像です」、と言いました。そこにいた人たちは、皆、冷ややかな笑い声を、上げました。

すると、その宣教師は、やおらポケットから、100ドル紙幣を取り出して、「皆さん、これが、この国の人たちが、拝んでいる偶像です」、と言いました。

会場には、恥ずかしさと、反省の空気が流れた、ということです。

ペトロは、私たちを、奴隷の状態から、本当に贖い出してくれたものは、金や銀ではなくて、きずも汚れもない、小羊のような、キリストの尊い血なのだ、と言っています。

主イエスが、十字架で、その命をささげてくださり、「成し遂げられた」、と宣言してくださった。それによって、私たちは救われたのです。

そのことを知ったなら、その恵みに相応しく生きる筈ではないか、とペトロは言っているのです。

しかも、そのキリストは、天地創造の前から、予め知られていたお方である、というのです。

天地が造られる前から、私たちの救いは、既に計画され、用意されていた。

それほどに、確かな救いである、と言うのです。だからこそ、私たちは、安心して、その救いに依り縋ることが出来るのです。

そのような壮大な、救いの計画を成し遂げるために、キリストが、十字架に命をささげてくださったのです。

これ以上に、大きな恵みは、考えられません。他の誰が、このように壮大で、確実で、恵みに満ちた、救いを与えることが出来るでしょうか。

この神様以外に、信仰できるものはありません。この神様以外に、希望を置けるものはありません。実に、私たちの信仰と希望は、この神様にかかっているのです。

私たちは、この神様に、信仰と希望の、すべてを賭けて、生きていって良いです。

御言葉は、そのことを、力強く宣言しています。

作家のパール・バックの母親が、宣教師の妻として、中国の奥地に住んでいた時のことです。ある年の夏、旱魃で作物が全滅しました。これは、村に白人がいる呪いだ、という噂が広がり、夫の留守中に、「今晩お前たちを殺す」、という予告が届けられました。

母は、子どもたちに、食事をさせ、風呂に入れ、晴れ着を着せ、髪をとかし、お茶と、ケーキと、果物を用意して、棒やナイフを手にした、暴徒たちを、迎えました。

「さぁさぁ、どうぞお入りになって、お茶を召し上がってくださいな。お待ちしておりましたのよ。ほんとうに、ようこそいらっしゃいました」。

この言葉に、暴徒たちは、返す言葉もなく、静かに帰ったそうです。

後から、子どもたちが尋ねました。「怖くなかったの」。母親は、答えました。「怖くてたまらなかったわ。でも、こんな時は、神様に信頼するほか、何もできないのよ」。

「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」。この言葉は、真実です。

御言葉は言っています。もし、あなた方の信仰と希望が、神にかかっているなら、それは決して揺らぐことはない。どんなことがあっても、決して消えることはない。

この消えることがない、信仰と希望。これは、神の言葉を通して、私たちに与えられます。

御言葉には、そのような力があります。御言葉は、決して消えることがありません。

私たち人間は、草のようにはかないのです。人間は、そして、この世の全ては、はかなく、無力なのです。何もかもが滅んでいく。何もかもが過ぎ去っていく。

しかし、その中にあって、決して滅びないものがある。過ぎ去らないものがある。

それが、神様の言葉なのです。

22節の御言葉は語っています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。

この言葉のように、私たちは、皆、真理を受け入れて、救いに入れられました。

このことについては、皆、同じなのです。では、真理とは一体何なのでしょうか?

真理とは、どのような時にも、どのような場所にあっても、決して変わらず、私たちに生きる根拠と希望を与えてくれるものです。

他の、すべての望みが崩れても、なお私たちに、揺らぐことのない望みと、生きる根拠を造り出してくれるもの。それが、真理です。

それは、決して消えることのない、神の言葉ではないでしょうか。いえ、もっと正確に言えば、生ける神の言葉である、主イエスそのものです。

ここで、ペトロが、真理として語るのは、高邁な理論ではありません。深遠な哲学でもありません。主イエスそのものなのです。

今朝の御言葉で言えば、「その尊い血」です。「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」です。先祖伝来の、空しい生活から、贖い出してくださった、キリストの尊い血です。

私たちは、その救いの真理を、受け入れて、その真理によって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を、抱くようになったのです。

私たち一人ひとりは、様々な道筋を辿って、この教会に導かれました。

皆、それぞれ違う生き方をしてきました。しかし、今、ここで、私たちは、一緒に座り、同じ賛美歌を歌い、同じ御言葉に聴き、同じ信仰を言い表しています。

一つの群れとなっています。なぜ、一つの群れになれるのでしょうか。

それは、皆が、等しく、唯一の真理である、神の言葉を受け入れたからです。生ける神の言葉である、主イエスを受け入れたからです。その尊い血によって、贖われたからです。

そして、私たちは、この真理としての、神の言葉を受け入れたことによって、魂が清められ、偽りのない兄弟愛を、抱くようになったのです。

どんな経過を辿って、救いに至ろうとも、このことにおいては、皆一つなのです。

変わることのない、神の言葉によって、新たに生まれさせられたのです。

そのように、神の言葉は、どんなに時が流れても、どんなに状況が変わっても、揺らぐことなく、しっかりと私たちを支えてくれます。

その神の言葉を、今、聴こう。今日も聴き続けよう。その神の言葉に、今こそ立ち帰ろう。

御言葉は、そのように、呼び掛けています。

ペトロは、溢れる思いを持って、語り掛けています。

私たちには、変わることのない、生きた神の言葉が、与えられているではないか。

この言葉を、私たちは、聴いたではないか。この、神の言葉の中を生き続けよう。

それ以外の何によって、生きることが出来るだろうか。

そして、キリストの愛の中に留まり続け、お互いに清い心で、深く愛し合おうではないか。

「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」

愛する茅ケ崎恵泉教会の兄弟姉妹。このペトロの呼びかけを、私たちは、今日、自分に語られた言葉として、受け取っていきたいと思います。