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過去の礼拝説教

「言い尽くせない喜びに満たされて」

2015年07月05日 聖書:ペトロの手紙一 1:6~12

先週から、ご一緒に、ペトロの手紙一から、御言葉に聴いています。

この手紙は、使徒ペトロが、迫害の中にいる教会に宛てた、励ましの手紙です。

生まれたばかりの教会。その小さな、か弱い群れが、激しい迫害に遭っている。

ペトロは、その教会の人たちのことを思うと、心配で、心配で、黙っていられないのです。

ペトロが、その熱い思いを、溢れるばかりに語り、それを、ギリシア語に堪能な、同労者のシルワノが、書き記した。それが、この手紙です。

さて、今朝の箇所で、ペトロは驚いています。いえ、驚いているというよりも、ショックを受けている、と言った方が、良いかも知れません。

一体、なぜ、驚いているのでしょうか、何に、ショックを覚えているのでしょうか。

8節の御言葉が、その訳を明かしてくれています。

『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています』。

これが、ペトロが、驚いている理由です。

この手紙の宛先の信徒たちは、キリストのことを、見たことがないのです。それにも拘らず、キリストを、信じて、愛して、言葉では言い尽くせない、素晴らしい喜びに、満ち溢れている。

そのことに、驚いているのです。そのことに、ショックさえも覚えているのです。

皆さん、ペトロのことを、想い起こして下さい。ペトロは、十二弟子の筆頭として、主イエスの、最も近くにいた人物です。

主イエスを、毎日見ていたばかりでなく、生活をも共にした弟子です。

主イエスの語られる御言葉を、直接、その耳で聞いていた者です。主イエスの御体に触れ、その御手の力ある業を、実際に体験した者です。

そんなに近くにいながら、主イエスを、愛し抜くことが出来なかった弟子。それがペトロです。ペトロは、「私は、あんな人知らない」と、三回も主イエスを否認しました。イエスが十字架に架けられた時には、逃げ隠れていたのです。

主イエスの身近にいた時には、主イエスに、従おうとして、従い切れなかった弟子。

愛そうとして、愛し抜くことが出来なかった弟子。それが、ペトロです。

ところが、教会の信徒たちは、主イエスを、見たことがないのに、愛しているのです。

その御業を、見ていないのに、信じているのです。御声を、耳で聞くことができなくても、従っているのです。

そして、言葉では言い尽くせないような、素晴らしい喜びに、満ち溢れているのです。

一体なぜ、彼らは、こんなに強い信仰を、持つようになったのだろうか。

ペトロは、そのことに驚いているのです。そのことに、ショックを受けているのです。もちろん、このショックは、喜ばしいショックです。

ペトロと同じように、驚いた牧師がいます。福島第一原発から、最も近くにあった、福島第一聖書バプテスト教会の、佐藤彰牧師です。

佐藤彰牧師は、あの事故以来、信徒約50人と共に、各地を転々としながら、避難生活を続けました。2年余りの避難生活の後に、今は、いわき市に、新しい教会堂を建て、信徒と共に、新しいコミュニティーを築いて、生活しておられます。

先生は、教会のホームページに、「避難生活報告」を、ずっと書いておられました。

それは想像を絶する、苦難の中で体験された、宝石のような恵みの証しです。

事故発生から、僅か1週間後の、3月18日の「避難生活報告・その4」には、次のように記されています。

『一つ一つの逃避行を聞いていると、つくづく一人一人が、火の中と、津波の中をくぐり抜けて、奇跡的に、避難所に辿り着いたことを、実感します。

しかし、なによりの奇跡は,誰からも、「どうして神は、私たちをこんな目に遭わせるんだ」、とか、「神はいない、もう信じない」、との言葉が聞こえてこないことです。

所在の確認が取れた、160名の兄弟姉妹からは、口々に、「主はすばらしい」とか、「これからはもっと,神を信頼して歩んでいきたい」、との報告が届いています。

彼らは、一体いつから、こんなに信仰が強くなったのでしょう。

昨日は、共に旅をしている方の中の、3名の方が涙とともに、信仰告白をし、イエス様を受け入れました。ハレルヤ。天でどれほどの喜びが、起こったことでしょう。重苦しい震災の中で見る、何よりの実です。』

「彼らは、一体いつから、こんなに信仰が強くなったのでしょう」。

佐藤彰牧師も、ペトロと同じように、信徒の方々の信仰に、驚いています。

私たち、一人一人は、弱い者です。信仰薄い者です。しかし、そのような弱い者同士が、お互いの信仰を、見つめ合うことによって、励まされ、強められる、ということがあるのです。

ある人が、「他者の中のキリストは、自分の中のキリストよりも強い」、と言っています。

言い換えれば、他者の信仰は、自分の信仰よりも、強く見える、ということです。

ですから、教会の仲間から、お互いに、信仰を学び合っていくことによって、一人一人が、強められ、高められていくのです。これが、教会に生きる、私たちに与えられた、恵みです。

ペトロも、迫害の中にいる、信徒たちの信仰を見て、驚くと同時に、彼自身も、強められ、励まされています。

どうして、彼らは、こんなに強い信仰に、生きる者とされたのだろうか。

この人たちは、地上の主イエスについては、僅かなことしか知らない人たちです。

主イエスの、人間としてのお姿、外見については、殆ど知らないのです。

しかし彼らは、主イエスを愛するために、必要なことは、すべて知らされていたのです。

それ故、見たことがないのに、愛することができたのです。信じて、喜ぶことができたのです。今、私たちには、聖書が与えられています。

聖書は、主イエスの、人間としてのお姿については、殆ど何も語っていません。主イエスの身長、体重、目の色、鼻の高さ、毛の多さ。そういうことは、何も教えていません。

しかし、私たちが、主イエスを、愛するために、必要なことは、すべて語ってくれています。

私たちが、知らなければならないことは、主イエスの、人間としての、お姿ではありません。

大切なことは、私たちが、主イエスを愛するには、どうしたらよいか、と言うことなのです。

主イエスのことを、本当に愛することができないなら、主イエスについて、どんなに詳しい知識を持っていても、何にもなりません。

今、私たちには、神の言葉である、聖書が与えられています。

聖書には、救い主としての、主イエスの御業が、その思いが、その愛が、余すところなく記されています。

ですから、私たちも、「キリストを見たことがないのに愛し、今見ていなくても信じ、言葉で言い尽くせない、素晴らしい喜びに、満ち溢れる」ことが、許されているのです。

もし、ペトロが、今、この茅ヶ崎恵泉教会の礼拝に、出席していたとしたら、やはり、同じように驚くと思います。

茅ヶ崎恵泉教会の皆さん、なぜ、あなた方は、キリストを、見たことがないのに、そんなに活き活きとして、喜んで礼拝を献げているのですか。そう言って、驚くと思います。

確かに私たちは、この目で、主イエスを、見たことはありません。

しかし、私たちは、信仰の目によって、心の中で、主イエスを見て、信じています。

霊において、主イエスに出会い、主イエスとの、深い交わりの中に入れられています。

信仰の目によって、主イエスを見て、その主イエスを、喜んでいます。

そして、言葉に言い尽くせない喜びを、味わっています。

このことで、想い起こす、主イエスの御言葉があります。主イエスが、山上の説教の中で、語られた御言葉です。『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』。

この御言葉の、「神を見る」も、心の目で、霊において、神様を見ることです。

ある人が、この御言葉の註解書として、アナトール・フランスという人が書いた、『聖母の曲芸師』という、短編小説を紹介しています。

この小説の主人公は、バルナバという、貧しくて無学な曲芸師です。

しかし、彼は、清らかな信仰を持つ、実直な男でした。

ある日、彼は旅の修道僧から、修道院生活こそ、最も神に喜ばれる生活である、と聞かされ、出家して修道院に入ります。

始めの内、彼は、祈りと瞑想の日々に、感動していました。

しかし、やがて悩み始めます。他の修道僧は、夫々豊かな賜物を生かして、神学を究めたり、芸術に打ち込んだり、力ある説教をしている。それなのに、自分は何も出来ない。

ああ、私は何とダメな人間なのだろう。

彼は、何とかして、神様に喜んで頂きたいと、その方法を、あれこれ考えます。しかし、何も思い浮かばず、ますます失望の深みに、落ちていきます。

ところがある日、彼は、元気良く、礼拝堂の中に入っていって、誰もいない礼拝堂で、一時間ばかりを過ごしてきました。

その時から、彼は毎日、誰もいない時を見計らって、御堂に入り、他の修道僧たちが、夫々特意とする奉仕に、励んでいる間、そこで一人で、時を過ごすようになりました。

彼はもう悲しくなくなりました。彼の顔には、以前の喜びに満ちた、笑みが戻ってきました。

修道院の皆が、彼の行状に、好奇心を持ちました。

なぜ彼は、あんなにも度々、誰もいない御堂に、嬉しそうに入っていくのか。

一体そこで、何をしているのか。皆が、不審を持ちました。

そこで、院長は、二人の長老を連れて、彼がいつものように、一人で御堂に閉じこもっている時に、戸の隙間から、覗きに行きました。

その時、彼らは見たのです。何と、バルナバは、聖母の前で、逆立ちをして6個の玉と、12本の出刃包丁を使って、曲芸に熱中していたのです。

彼は、聖母のために、かつて最も好評を受けた曲芸を、ただひたすらに演じていたのです。

二人の長老は、「これは神に対する冒瀆だ」と叫んで、御堂に入っていきました。

院長は、バルナバの純粋な信仰を、知っていました。

しかし、この有様を見て、彼は、精神錯乱を起こしたのだろうと思って、長老たちと共に、御堂に入り、バルナバをそこから引きずり出そうとしました。

するとその時、3人の僧は見たのです。聖母マリアが、祭壇の階段を下りてきて、微笑みながら、水色の上着の袖で、バルナバの額の汗を、優しく拭っておやりになるのを。

院長は、床にひれ伏して唱えました。『心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る』。二人の長老が、「アーメン」と続けて唱えました。

この物語は、純粋な信仰を持つ者は、神を見ることができる、ということを私たちに教えてくれています。そして、その交わりを通して、神様を喜ぶことこそが、言葉では言い尽くせない「まことの喜び」であることを、教えてくれています。

神様を喜ぶ仕方に、こうであらねばならない、という決まりはありません。

夫々が、自分に与えられた賜物を用いて、自分に許された方法で、それぞれ置かれた場所で、素直に喜んで良いのです。

この手紙の宛先の信徒も、曲芸師のバルナバも、そして私達も、肉の目で主イエスを見ることは出来ません。

しかし、霊において、主イエスと豊かに交わり、霊の目で、主イエスを、確かに見ることができるのです。そして、その主イエスを、心から喜ぶことが出来るのです。

それこそが、人を真実に生かす、「まことの喜び」です。

私たちは、夫々の仕方で、精一杯主を愛し、主を喜ぶ者とされていきたい、と願います。

このように申しますと、キリスト者は、いつもルンルン気分で、楽しく暮らしている、と誤解されそうです。そう誤解している、世間の人が、キリスト者を揶揄して言います。

「あいつらは、雨が降ってもハレルヤ、晴れたらアーメン、だからなぁ」。

そんなことはありません。キリスト者となれば、苦しみなど一切無くなる訳ではありません。

むしろ、他の人々が苦しまないことについても、キリスト者であるが故に、かえって苦しむことがあるかも知れません。

私自身も、実社会で仕事をしていた時に、利益を最優先する会社の方針と、自分の信仰上の信念との葛藤に、永い間苦しみ続けました。

その苦しみの最たるものは、二回も、突然の解雇通知を、受けたことです。その一回目は、私が、香港に本部がある、イギリス系の投資銀行の、日本の代表をしていた時のことです。

社長から、突然の呼び出しがあって、飛行機に飛び乗って、香港の本社に行きました。

朝一番で社長室に入るや否や、「柏さん、会社を辞めてほしい」、と言われました。

寝耳に水の、解雇通告です。茫然自失のまま、以前通っていた、香港日本語教会(HKJCF)の祈祷会に行きました。

そこで、突然解雇されたことを話し、皆に、祈ってもらいました。

その時、親しい信仰の友である姉妹が、こう祈りました。「神様、柏兄弟を、御手に委ねます。あなたは、必ずこの時を、柏兄弟にとって、恵みの時としてくださると信じて、感謝します」。

皆さん、皆さんなら、この祈りを聞かれて、どう感じられるでしょうか。

突然首になった人を前にして、「感謝します」、と祈ったのです。まかり間違えば、「感謝するとは、何事か。人の気も知らないで」、と怒り出しかねません。

しかし、私は、この祈りによって、大きな慰めと、励ましを受けました。

そうだ、神様は、この時も、必ず共に居て下さり、共に苦しんでいて下さっている。

そして、今、この時にも、必ず何かをして下さっている。

だから、この時を、恵みの時としてくださるに違いない。愛の神様は、無意味に人を、苦しめることはなさらない筈だ。そう示されたのです。

私は、この婦人の祈りによって、立ち上がることができました。それから6ヶ月間、失業生活を続けましたが、この時は、私の信仰の成長にとって、掛け替えのない時となりました。

6節の御言葉は語っています。あなたがたは、『今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなた方の信仰は、その試練によって、本物と証明され』ます。

ここで、『いろいろな試練』と述べられています。

「いろいろな」と訳された言葉を、ペトロは同じ手紙の4章10節で、もう一度用いています。

『神のさまざまな恵みの良い管理者として』、と語っている箇所の、「さまざまな」と訳されているのが、原語では、同じ言葉なのです。

4章10節では、ペトロは、この言葉を、神様の恵みを表す言葉として、使っています。

ある人が、この言葉を黙想して、「さまざまな試練があるということは、さまざまな恵みが、与えられることだ」、と言っています。

この世にあって、キリスト者として、信仰生活を送っていく時には、さまざまな試練があります。しかし、その時々に与えられる、神様の恵みは、試練以上に多種多様で、豊かであることを、後になって知らされるのです。

私たちは、そのような、素晴らしい恵みを、いただいているのです。

この救いの恵みは、昔から預言者たちに、幻の内に示されました。

預言者たちは、それが、とてつもなく、素晴しいものであることを、示されました。しかし、同時に、その救いの恵みは、自分たちの時代には、実現しないことも示されたのです。

この救いは、天使たちも見て、確かめたいと、願っているものなのだ、と書かれています。

神様のすぐ傍にいる、天使たちでさえも、ひたすら知りたいと、願っていたこと。

それが、今、私たちに与えられている、救いの恵みである、というのです。

そのような驚くべき恵みを、私たちは与えられているのです。

それなのに、私たちは、救いを受けて、何年か経ちますと、その救いが、どんなに大きいものであるかを、いつしか忘れてしまう、ということはないでしょうか。

そのことを、当たり前のことのように、捉えている、ということはないでしょうか。

主イエスの十字架の救いより、宝くじで百万円当たったことの方に、感激する。そのようなことはないでしょうか。

ペトロは、本当に喜ぶべきこと、本当に感動すべきこと、本当に感謝すべきことを、どうか忘れないでいてください、と私たちに語っています。そのことを、切に願っています。

私たちに、言い尽くせない喜びを、与えてくれる救いの恵み。それは、とてつもなく大きな恵みなのです。

そのことを忘れることなく、心からの感謝と喜びをもって、日々、歩んでいくお互いでありたいと願います。