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過去の礼拝説教

「幸せになりたい人は」

2015年08月23日 聖書:ペトロの手紙一 3:8~17

「あなたは、今、本当に幸せですか」。

もし、皆さんが、突然、そう質問されたら、どう答えられるでしょうか。「はい、本当に幸せです」。口籠らずに、はっきりと、そう答えられる人は、そう多くはいないと思います。

そう答えた人も、更に、「では、もし、あなたを取り囲んでいる、今の環境が、大きく変化しても、本当に幸せでいられますか」。そう問われたら、どうでしょうか。

「さぁ、どうでしょうか。それでも幸せでありたい、と願っています」。そう答えるのが、精一杯なのではないかと思います。

「あなたは、本当に幸せですか」。そのような問い掛けを、実際に受けた人がいます。

メソジスト教会の創始者、ジョン・ウェスレーです。

今から300年ほど前のことです。若きウェスレーは、アメリカ伝道を志しました。

粗野で、無知で、暗闇の中にいる、哀れなアメリカン・インディアン。彼らに、福音の光を届けよう。そう思い立った、ウェスレーは、意気揚々として、アメリカに旅立ちました。

オックスフォー大学で、稀に見る秀才として、注目されていた、ウェスレーでした。

ですから彼は、使命感に満たされて、自信満々で船出しました。

しかし、その航海の途中で、船は嵐に遭い、遭難する恐れが生じました。

この時、ウェスレーは、既に、英国国教会の司祭でした。しかし、死の恐怖に直面して、うろたえてしまいます。どうしようもない不安に、襲われたのです。

ところが、同じ船に、敬虔な信徒集団として知られている、モラビア兄弟団の人たちが乗っていました。彼等は、嵐のさなかにも拘らず、讃美歌を歌い、祈り合っていました。

彼らには、不安な様子は、見られません。ウェスレーは、不思議に思って、尋ねました。

「あなた方は、こんな時に、どうしてそんなに、平安でいられるのですか」。

このウェスレーの質問に対して、彼等は逆に、問い返しました。「あなたは、本当に、救われた幸いに、生かされていますか」。

この問いに対して、ウェスレーは、力なく答えました。「I hope so. そう願っています」。

「あなたは、本当に救われていますか。本当に幸せですか」。

この問いに、はっきりと、「はい」と答えられる人は、少ないかもしれません。

しかし、「あなたは、幸せになりたいですか」。こう問われたなら、ほとんどすべての人が、はっきりと、「はい、幸せになりたいです」、と答えると思います。

ウェスレーから遡ること、更に150年ほど前に、二人の若い神学者が、人々のこの願いに、応えるようにと、導かれました。

「幸せになりたい」、「救いの喜びを、しっかりと握り締めたい」。人々の、この切なる願いに、何とかして応えたい。そのように示された、二人の青年がいたのです。

それは、ウルジーヌスとオレヴィアーヌスという、当時まだ二十代の、若き神学者でした。

二人は、聖書が語る、「本当の幸せ、本当の救い」を、どのように、分かり易く、人々に伝えたら良いか。そのことについて、熱心に語り合い、祈り合いました。

そういう中で、ウルジーヌスは旅に出ます。旅した所は、当時、特に信仰の迫害が、激しかった地方でした。旅から帰ったウルジーヌスは、オレヴィアーヌスに、その旅の体験を語りました。そして、その対話の中から、一冊の信仰問答書が、生まれたのです。

それが、その後450年に亘って、プロテスタント教会で、大切に読み継がれて来た、「ハイデルベルグ信仰問答」書です。

その「ハイデルベルグ信仰問答」の第一問は、このように問い掛けています。

「問一 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」

二人の青年は、キリスト教信仰の真髄を、この問いに対する、答えによって語ろうと、示されたのです。ただ一つの慰め。生きている時も、また死に臨んだ時にも、あなたを慰める、ただ一つのものは何ですか。

「答 私が、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私のものではなく、私の真実の救い主イエス・キリストのものであるということです。」

ウルジーヌスとオレヴィアーヌスは、地上の現実を見ていました。まことの信仰に、生きようとしたために、迫害され、苦しみに遭う、この世の現実。

そのような苦しみ中で、あなたにとって、かけがえのない、ただ一つの慰めは何ですか。

「ハイデルベルグ信仰問答」は、冒頭において、そのように問い掛けているのです。

そして、「苦しみの中にあっても、死に直面している時にも、私の身も魂も、キリストのものであること。ここに、ただ一つの慰めがあります」、と答えています。

皆さんとご一緒に、読み進んでいる、ペトロの手紙も、同じような現実を、見据えています。

この手紙は、厳しい迫害の中にいる、教会の信徒たちを、励ますために、書かれたものです。いつ、殉教するか分からない。そのように、死と隣り合わせで、生きている信徒たちに、慰めを与えるために書かれたものです。

10節の御言葉は、語り掛けています。あなた方は、いつ殉教するか分からないような、厳しい日々を送っている。だからこそ、今日という日、この一日を、大切に生きている。

今、与えられている命を、掛け替えのないものとして愛し、一日、一日を、幸せに過ごしたいと願っている。あなた方は、そういう生活、幸せな日々を、楽しんでよいのだ、とペトロは言っています。どうか、命を愛し、幸せな日々を、生きて欲しい。それが、主の御心なのだ。

なぜなら、あなた方は、祝福を受け継ぐために、召されたのだから。

9節の御言葉は、祝福を受け継ぐために、あなた方は召されたのだと、言っています。

あなた方は、苦しみではなく、祝福を受け継ぐために、召されたのだ。この御言葉は、厳しい迫害の中にある、信徒たちにとって、大きな励ましとなったことだろうと思います。

そして、この言葉は、今、ここにいる私たちにも、同じように、語られています。

そうなのです。私たちは、祝福を受け継ぐために、召されたのです。

アブラハムも、ダビデも、そしてペトロも受けた、あの驚くべき祝福。それと同じ祝福を、私たちも頂き、更に、それを、親から子へ、子から孫へと、受け継いでいくことが許されているのです。そのために、私たちは召されたのです。御言葉は、そう語り掛けています。

私たちは、子どもたちに、これと言った財産を、残すことはできないかもしれません。

しかし、この神様の祝福を、かけがえのない財産として、受け継いでいるのです。

これこそ最高の財産です。私たちが子孫に残すべきものは、これをおいて他にありません。何が無くても、これさえあれば、子どもたちは、幸せな生き方へと、導かれるからです。

では、御言葉が言っている「幸せ」とは、どのようなものなのでしょうか。

私たちは、一日を終えるとき、今日は、良いことがたくさんあったなぁ。だから今日は、良い日だった、幸せな日だった、と言うことがあります。

逆に、悪いことばかり、起こったら、今日は悪い日だった、不幸な日だった、と思います。

そのように、良いことが多かったか、悪いことが多かったかによって、幸せか、不幸かを、判断するのが、世間一般が言う、「幸せ」の基準です。

しかし、御言葉が言っている「幸せ」は、そうではありません。

「神様が祝福してくださる」、という幸いです。神様が共にいて、祝福してくださる。これに勝る幸いはありません。

先ほどの、「ハイデルベルグ信仰問答」の言葉を借りれば、「真実の救い主イエス・キリストのもの」とされている。そのことを、確信できる幸いです。

それは、どんな時にも、決して変わることのない、慰めを与えられている幸いです。

たとえ、義のために、苦しみを受けることがあっても、或いは、善を行って、苦しむことになっても、神様が共にいて、必ず守ってくださる。

この確かな希望に支えられた、堂々とした幸いです。

「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」。12節の御言葉です。

神様の目が、私たちに注がれている。神様の耳が、私たちの祈りに、傾けられている。

そうであるなら、どんな時にも、神様の御手が、神様の御腕が、伸ばされないことがあるだろうか。御言葉は、この確かな希望を、語っています。

主の眼差しの中を、祈りつつ歩む。そのような幸いを願う人は、『舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求める』、と御言葉は言っています。

今朝は、この御言葉を、一つ一つ、味わっていくだけの時間がありません。

ただ一つ、この御言葉から、聴き取って頂きたいのは、日々を幸せなものとするのは、外部の環境ではなく、自分自身なのだ、いうことです。「幸せ」とは、外から与えられるものではなくて、私たちの生き方に関わることだ、ということです。

日々を幸せに過ごしたいと願う。それは、自分がその幸せを、作り出して生きる、ということなのです。自分自身が、その幸せの基となるのです。

そのことを、8節の御言葉は、こう言い換えています。「皆心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」これが、幸せを作り出す、生き方なのです。

あなた方は、それぞれが置かれた場所において、家庭においても、職場においても、そして、何よりも教会において、一つとなって、愛し合い、憐れみ合い、謙虚に仕え合いなさい。

そうすることによって、豊かな祝福を、受け継ぐことができる。そして、それが、幸せな日々を送る、生き方となるのだ。御言葉は、そのように言っているのです。

御言葉は、初めに、「心をひとつにする」ことを勧めています。これは、単に、一致団結することではありません。

聖書は、いつも、信仰のことを言っています。ですから、ここでも、神様との関係において、心を一つにすることを、勧めているのです。

「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ」、という御言葉ありました。これが、本当に、一つの心になるための秘訣です。

主イエスの御心を知り、それを私たちの、共通の心とすることです。それによって、初めて一つの心になれるのです。

一人ひとりが、皆、「こんな時、イエス様だったら、どうされるだろうか」、と自らに問い掛けていく。その時、私たちは、本当の意味で、一つの心となることができます。

御言葉は、次に「同情し合い」なさい、と言っています。

「同情する」という言葉は、「一緒に苦しむ」、という意味を持っています。

本当の同情とは、他の人の苦労を、自分の苦労とする、ということです。

一緒に苦しむことです。それは、まことの愛から、生まれるものです。

「包帯を巻く用意がなければ、傷口に触るな」、という言葉があります。

傷口を見て、顔をそむけるのでなく、包帯を巻いてあげること。それが、本当の同情です。

重荷を負い合うのです。三浦綾子さんは、ある本の中で、「愛とは、重荷を重荷と感じないことである」、と言っています。

そして、赤ちゃんを抱えた、お母さんのことを、例に挙げています。赤ちゃんが、順調に育って、目方が増えると、お母さんは、「ほら、こんなに重くなったのよ」、と嬉しそうに言います。

抱くのが大変だから、目方が増えなければ良い、などと考えるお母さんはいません。

このように、重荷を、重荷と感じないことが、愛であるといえます。

更に、「憐れみ深く」とあります。この「憐れみ」も、主イエスにおいて、初めて知り、学ぶことができるものです。

主イエスの憐れみとは、内臓が痛むほどの、憐れみを意味しています。

心が痛むだけではなく、遂には、肉体までが、痛みを覚えるほどの心です。

マザー・テレサは、ある本の中で、こう言っています。「愛しなさい。どこまでも愛しなさい。痛みを感じるほどに愛するのです」。マザーも、主イエスの憐れみを知り、痛みを感じるほどの憐れみを、学んだのだと思います。

工藤直子さんという方が、「痛い」という題の、短い詩を作っています。

「すきになるということは/心を ちぎってあげるのか/だから こんなに痛いのか」。

これは、恋愛について、詠った詩ですが、これを「憐み」に、置き換えても良いと思います。

「憐れむということは/心を ちぎってあげるのか/だから こんなに痛いのか」。

主イエスは、ご自身のお心を、ちぎってあげるほどに、憐れまれました。

どこまでも、徹底して、寄り添われました。しかし、私たちは、そのような大きな愛を、持っていません。ですから、私たちが、主イエスの憐れみに、倣っていこうとする時に、自らの愛の足らなさに、気づかざるを得ません。

そうしますと、マザー・テレサが言った、痛みを覚えるほどの愛、痛みを覚えるほどの憐れみとは、自分の愛の足らなさに、心が痛むことを、言っているのかもしれません。

どこまでも、寄り添っていくことが出ない自分。そんな自分の、愛の貧しさ、愛の足らなさ。

そのことに心が痛むと、マザーは、言っているのかもしれません

そして、そのような、自分の愛の足らなさを、知っている者は、謙虚にならざるを得ません。人に対しては、誇ることができても、神様に対しては、誇るものを、何も持っていない。

そんな自分であることに、気付かされます。

ですから、まことの愛に生きようとする時、そして、どこまでも憐れみに徹しようと努める時、人は、初めて、謙虚に生きる生き方の、スタートラインに、立つことが出来るのだと思います。このように、キリストの心を、我が心とし、まことの同情心と、憐れみを追い求め、謙虚に生きようとする時、私たちは、神様から豊かな祝福を受け、幸せな日々を過ごすことができる。

御言葉は、そう約束しています。

しかし、この世の現実の只中において、このように生きていくことは、容易いことではありません。このような生き方は、人間的に見れば、損な生き方である、と思われます。

損と思われるような生き方を、敢えて選び取っていくことは、大変勇気の要ることです。

ペトロは、それを実行するには、秘訣がある、と言っています。

15節に、「心の中でキリストを主とあがめなさい」、とあります。

これが、その秘訣です。「心の中でキリストを主とあがめなさい」。

人間の行動というのは、その人の心が、どこにあるか。その人が、何を一番大切にしているか、ということによって決まるものです。

人の顔色が大切だ、と思っている人に、人を恐れずに善を行え、と言ってもできません。

それができるようになるためには、人を恐れるのではなくて、まことに恐れるべきものを、恐れるように、ならなければなりません。

「心の中でキリストを主とあがめなさい」。この言葉を、ペトロが語った時、ペトロは、特別の思いをもって語っていたと思います。

皆さんも、良くご存知のように、ペトロには、辛い思い出があります。

主イエスが、大祭司の庭で、裁判を受けておられた時に、周囲の人々を恐れて、三度も、主を知らない、と言ってしまった、あの経験です。

あの時以来、ペトロは、いつでも、まことに恐れるべき者を恐れ、恐るべきでない者を、恐れてはいけない、ということを、絶えず、心に留めていたのではないか、と思うのです。

ペトロは、その晩年、いつも祈りの中で、泣いていたと、伝えられています。

そして、それは、二つの涙であったそうです。

一つは、主イエスを裏切ってしまったことに対する、深い懺悔の涙。これは、思い出すたびに、身を切られるような、辛い過去の失敗の涙です。

もう一つは、そのような、駄目な自分を、主イエスが赦してくださり、用いて下さっていることへの、感謝の涙です。

ペトロは絶えず泣いていた。絶えず泣きながら、心の中で、主をあがめていたのです。

そうしていないと、また、あの時のように、失敗してしまう。そう自分に、言い聞かせていたのではないか、と思います。

信仰とは何か。ペトロは、ここではっきりと、示しています。

それは、「あなたはもう私のものだ」と言って、自分を捕えてくださったキリストを、主とあがめて、生きていくことです。

そして、これこそが、キリスト者の、ただ一つの慰めなのです。

「慰め」には、色々な種類が、ある訳ではありません。病気の時の慰め、試練の時の慰め、大切なものを失った時の慰め。それらが、別々にある訳ではありません。

本当の慰めは、いつでもただ一つです。生きている時も、死ぬ時も、私たちに与えられているただ一つの慰め。それは、私たちが、主のものとされていることです。

これ以外に、私たちの慰めも、私たちの希望もありません。

これが、ウルジーヌスとオレヴィアーヌスが、「ハイデルベルグ信仰問答」において、真っ先に語りたかったことだったのです。

そして、ここにこそ、私たちの、まことの幸せがあるのです。

私たちは、この幸せに、生きることが、許されているのです。

この幸せに、生きていって、良いのです。