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柏牧師:過去の礼拝説教

「無言の伝道」

2015年08月16日 聖書:ペトロの手紙一 3:1~7

2年前のNHK大河ドラマ、「八重の桜」の主人公は、新島襄の奥さんの新島八重でした。

その八重のことを、あるテレビ番組が、「ハンサムウーマン」、と紹介したため、この言葉が一人歩きしたことがありました。

しかし、新島襄が八重のことを、「ハンサムウーマン」と言った、という記録はありません。

ただ新島襄は、アメリカの母と慕う、ハ-ディー夫人に送った、結婚を報告する手紙の中で、こう書いています。「彼女は美しくはありませんが、美しい行いをする人です。それだけで私には十分なのです」。

新島襄は、八重のことを、ハンサムウーマン、美しい女性とは言っていません。

しかし、美しいこと、ハンサムなことをする人だ、と言っているのです。そして、それだけで私には十分です、と言っているのです。

彼は、更に続けて、こう書いています。「彼女は、あることを為すのが、自分の務めだと確信すると、もう誰をも恐れません」。

このような八重の生き方に、新島譲は、ハンサムな行いを、見たのだと思います。

先程読んでいただきました、御言葉にも、そのような女性の姿が、書かれています。

ここでペトロは、女性のまことの美しさは、外面的な「見た目」ではなく、内面的な人柄にある、と書いています。

ペトロはここで、「ハンサムな行いをする婦人」、になることを勧めています。

あなた方は、ハンサムな行いをする女性になりなさい。外面的な美しさを求めるのではなくて、美しい行いをする女性になりなさい。

そのような美しさに、生きているなら、御言葉を信じない夫であっても、あなた方の無言の行いによって、信仰に導かれるようになるだろう。そう言っているのです。

3章1節の御言葉です。『同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。』

初代教会は、男性に比べて、女性の割合が多く、未信者の夫を持つ、妻たちが多かった、と伝えられています。今の日本の教会と、よく似ていると言えます。

日本の教会では、平均的にみて、男性会員と女性会員の比率は、大体2対1です。

多くの教会において、約2/3が女性で、1/3が男性です。初代教会も同じような状況であったのです。

そして、この手紙が書かれた頃、妻の地位は、今よりも、ずっと低かったのです。

妻は、財産のように、夫が自由にできる、所有物のように、考えられていました。

そういう時代に、妻だけがキリスト者となって、日曜日ごとに、集会に行く。

これは今でも、大きな問題ですが、当時は、今とは比較にならない程の、重大問題でした。

当時は、妻が、夫と別の宗教を持った場合、それを理由に、離婚されても、一切文句は言えなかったのです。

「私は、あなたが拝んでいる偶像を、礼拝しに行きたくありません」。この言葉を、妻は口にすることが、許されなかったのです。そういう中で、妻たちは、信仰を持ちました。

もし夫が、そのような妻の行いに、不満を持ったなら、離婚されても、当然だったのです。

そういう立場にある妻たちに、ペトロは、「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって、信仰に導かれるようになる」、と語っています。

二千年に亘る、キリスト教の伝道の歴史において、隠れた、しかし最も雄弁な、福音の言葉は、実は、この妻の無言の行い、神を畏れる純真な生き方でした。

そして、日本の伝道もまた、多くの妻たちの、神を畏れる、純真な生活の証しによって、担われてきたのです。

あるクリスチャンの婦人がいました。その婦人の夫は、賭け事にのめりこんで、生活費をすべて、賭け事に使い果たしてしまう、という日々を送っていました。

その婦人は、夫に、何とかまじめに、仕事をして欲しいと、一生懸命内職をして、夫の仕事に必要な、背広を買ってきました。

夫が喜んでくれることを、ひそかに期待して、夫の帰りを待ちました。

帰ってきた夫は、新しい背広を見ると、喜ぶどころか、「何でこんなもの買ったんだ。余計なことしやがって。そんな金があったら、俺に使わせろ」、と怒鳴り散らしました。

それを聞いて、妻は、「ごめんなさい」と一言、小さな声で謝りました。

その細い、小さな声を聞いて、夫は、「俺の負けだ。何でこんな弱い妻が、こんなに強いんだ」と言って、思わず涙したそうです。

そして、妻と共に、教会に行くようになり、救われて、全く新しい人に、変えられたそうです。

実は、この夫は、新しい背広を見たときに、その背広に籠められた、妻の切なる思いを感じ取って、言いようのない感動に包まれたのです。

でも、その感動を押し殺して、逆に怒鳴り散らしたのです。ここで感動しては、自分があまりに惨めだ、と思ったからです。また、これほどまでして支てくれる、妻の期待に応えられそうもない。これは、却ってプッシャーになる。そういう思いもありました。

ですから、心の中では、「すまない」、と思いつつも、素直になれず、逆に怒鳴ったのです。

忍耐強い妻も、これで切れて、自分を罵るだろう。その方が気楽だ。自分は、罵られて当然の人間なのだから。そう思ったのです。

ところが、妻は、どこまでも従順に、「あなたの気持ちを理解できずに、ごめんなさい」と、謝ったのです。この小さな一言によって、夫の心は、完全に打ち砕かれました。

これが、百万の言葉にも勝る、無言の伝道です。「ハンサムな行い」に生きる、妻の姿です。

ペトロは、妻たちに、信者でない夫を軽んじてよいとか、教会生活を邪魔するような夫なら、その夫のもとを去っても良い、とは言いませんでした。

ペトロは、信仰を理解せず、信仰を批判したり、攻撃したりする夫に対しても、信仰以外では、従いなさい、仕えなさい、と語っているのです。

そこでこそ、心から仕える生活に励みなさい、と勧めているのです。

先週、ご一緒に読みました御言葉では、「召し使いたち」、つまり奴隷のキリスト者たちに、信仰のない主人に、仕えなさいと語っていました。

ここで「同じように」、と妻たちに言うのは、奴隷の場合と同じように、という意味です。

間違って頂きたくないのですが、聖書は、ここで、男女差別を、しているのではありません。

妻は奴隷と同じだ、等と言っているのではありません。

大切なことは、「信仰者の仕える生き方」なのだ、と語っているのです。

7節では、夫たちに対しても、「同じように」と語られています。

それは、奴隷の場合と同じように、そして、妻たちと同じように、ということです。

信仰者は、「仕える」ということでは、同じなのだ、と言っているのです。「主人に仕えなさい」、「夫に仕えなさい」、そして同じように、「妻を尊敬しなさい」、と言われています。

ここでの文脈では、「仕える」という言葉と、「尊敬する」という言葉は、重なっています。

心から敬った時には、その人に仕えることになるからです。

1節の、「無言の行い」とは、そういう仕える生き方の、具体的な姿を示しています。

「夫が、御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって、信仰に導かれるようになる」。ここで「行い」、と訳されている言葉は、「歩み」とも、訳せる言葉です。

妻は黙って、歩み続けるのです。しかし、その無言の、妻の歩みを通して、夫が説得され、「信仰に導かれるようになる」、と語られています。

これは、妻に対して、何か特別な行いをしなさい、と勧めているのではありません。

妻が、毎日歩き続けている、その歩みを止めて、何か特別なことを、主人にしてあげる。

そういうことを、言っているのではないのです。

毎日こつこつと、歩き続けている、その歩みの中に、「神を畏れる、純真な生活」が、自然に現れてくる、ということなのです。

日常の、平凡な歩みの中に、神の言葉が、入り込んでしまうことです。

そういう生き方を通して、御言葉を信じない夫であっても、信仰に導き入れられるようになる、というのです。

信仰生活における、苦しみの一つは、自分にとって大切な人が、信仰を受け入れてくれない、ということです。福音が、なかなか相手の心に届かない、ということです。

永く生活を共にしている夫が、信仰を共にしてくれない。妻が礼拝に来ようとしない。

子供が、教会から、離れてしまった。親に、どのように伝道したらよいか、分からない。

このような状況は、本当に大きな苦しみです。

特に難しい伝道。それが妻から夫への伝道です。妻が、福音を語ろうとする時、世界中で一番遠くにいるのが、自分の夫である。そのような思いを、持つほどに、届かないのです。

自分の夫に、心から語り掛けても、言葉が通じない。そういう中で、妻たちは、神様を畏れる純真な生活に、ひたすら励んだのです。

救いの言葉が、届かないところにまで、届く言葉がある。それが、妻の無言の行いである。神様を心から畏れ、純真に生きる姿だ、というのです。

5節に、「神に望みを託した聖なる婦人たち」という言葉が出てきます。そして、そのような女性の代表者として、サラが出てきます。

サラは、アブラハムの妻として、夫と共に、行く先を知らずに旅立ち、生涯をかけて、夫と共に、神様に仕え通しました。ペトロは、このサラのように生きてごらん、と言っているのです。

信仰のない夫に、サラのような生き方を、見てもらいなさい。神様を畏れる、純真な生活を、夫に見てもらいなさい、と勧めているのです。

御言葉は、このサラを、「善を行い、何事も恐れない」女性だと言っています。

信仰者が仕えるのは、何事かを恐れて、仕えるのではありません。恐怖に駆られて、仕えるのではないのです。

そうではなくて、神様に望みを託して、何事も恐れることなく、堂々と仕えるのです。

神様に望みを託して、何事も恐れない、ということで、想い起す婦人がいます。

宗教改革者マルティン・ルターの妻、カタリーナです。

ルターが、あまりに激しい迫害のために、力尽きて、失望していた時、カタリーナが、喪服を着て、黒い帽子をかぶって、書斎に入ってきました。ルターが、びっくりして、「誰か亡くなったのか」、と尋ねると、彼女は、「神様です」、と答えました。

「何を馬鹿なことを言っているのか」、とルターが怒ると、彼女は、「もし、神様が、生きておられるなら、なぜあなたは、そんなにまで失望されるのですか。生ける神様に信頼して、どこまでも戦ってまいりましょう」と言って、ルターを励ましたそうです。

神様に望みを託して、何事も恐れることなく、夫に仕えるとは、こういうことを言うのだと思います。ここにも、ハンサムな生き方が、示されています。

4節には、「柔和でしとやかな気立て」という言葉が出てきます。御言葉は、それこそが、内面的な装いだ、と言っています。

しかし、柔和さとか、しとやかさで、内面を装うとは、実際にはどういうことでしょうか。

そもそも、柔和さとか、しとやかさ、という美徳は、どこに見られるのでしょうか。

それらは、どこよりも、主イエスの中に、見られるのではないか、と思うのです。

主イエスご自身が、「私は柔和で、謙遜な者である」、と言っておられます。

主イエスご自身が、柔和で、しとやかなお方、そのものなのです。

そうであるならば、ここで語られている、「柔和でしとやかな気立てという、朽ちない飾り」とは、主イエスご自身である、と言えるのではないでしょうか。

主イエスは、美しいお方です。何ものにも勝って、麗しいお方です。

その主イエスの美しさは、私たちが、男であろうと、女であろうと、身に付けて装うべき、最高の飾りではないでしょうか。

私たちには、金や銀はないかもしれません。しかし、主イエスという、最高の装いが与えられています。ですから、私たちは、主イエスという、最も麗しい飾りでもって、最高のおしゃれをして、歩いて行きたいと思います。

7節に、夫についての教えが、語られています。妻についての教えに比べて、大変短く、簡単です。しかし、7節の最初に「同じように」とあります。

妻に対する教えは、そのまま夫に対する教えなのです。ですから、夫に対する教えは、妻に対する教えの中で、既に、もう十分に語った、ということなのでしょう。

ですから、短く、妻を尊敬しなさい、とだけ書かれています。

19世紀の終わりごろから、20世紀初頭にかけて、尊い働きをした、ウェンライトという宣教師がいました。今の大分教会の、基礎を築いた人です。

彼は、大分での働きを終え、その後、関西学院の教授となりました。

ある日、彼は、学生たちとの雑談の中で、「日本では、特別に尊敬する人を、何と呼びますか」、と尋ねました。学生の一人が、「閣下と呼びます」、と答えました。

すると彼は、「あぁ、閣下ですか。そう言えば、大分にいた時、皆が、自分の奥さんのことを、閣下と呼んでいました」、と言いました。学生たちは、どっと笑って、「先生、それは、カカァでしょう。閣下ではありませんよ」、と言いました。

ところが、ウェンライトは、まじめな顔で、「でも、カカァは、閣下と似ていますね。どちらも、尊敬する人である点で、似ていませんか」、と言ったそうです。

ジョークのような話ですが、ウェンライトは、日頃から、自分の妻を、心から尊敬していたので、このような、話が生まれたのだと思います。

ペトロは、夫に対して、妻を尊敬しなさい、と言っています。興味深いのは、その理由です。

それは、「あなたがたの祈りが妨げられないため」だ、と言っているのです。

これは、思いがけない理由です。一体どういう意味なのでしょうか。

御言葉は、ここで、妻を尊敬しないでおいて、あなたは、本当の祈りができますか、と問いかけています。妻を尊敬しないでいて、或いは、夫を尊敬しないでいて、一人で祈れますか、と言っているのです。

いくら勧めても、神様を信じようとしない。あんな妻なんか、知るもんか。あんな夫なんか、放っておけばいい。私は一人で、神様に祈る。

そんな祈りが、真実の祈りとなるだろうか、と問いかけているのです。

私たちの祈りが、まことの祈りとなるためには、私たちは、まず自分自身の、生活の全ての場面を、特に、自分の足元を、整えていかなければ、ならないと思います。

さて、今日の御言葉は、無言の行いによる、力強い伝道の業、について語っています。

教会には、言葉をもっての、説教もありますが、同時に、無言の説教もあります。

聖書は、他の箇所でも、このことを語っています。例えば、マルタとマリアの弟のラザロを、想い起してください。ラザロは、主イエスによって、死から命へと、救い出された人物です。

このラザロについて、ヨハネによる福音書12章には、このように記されています。

「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」

聖書の中で、ラザロは、終始無言です。一言も喋っていません。しかし、自分は、主イエスによって、このように救われている。

その事実が、雄弁に語っているのです。無言の説教になっているのです。

神様によって、生かされている人が、そこにいる。その人の存在自体が、無言の説教になっているのです。

ある人が、このようなことを言っています。宣教師たちが福音を語る場合、その国に来て、最初の言葉を発する、その遥か前から、既に、無言の説教は、なされている。

私利私欲を捨てて、何の利得も求めず、慣れない他国の言葉や慣習を、ひたすら学ぶ。

そういう無言の行いによる、説教がある、というのです。それが、心から心へと、直接働きかける、というのです。

日本のことを良く知らず、日本語も決して上手くない、宣教師たちです。

そんな彼らが、どうして、あのような大きな働きをしたのか。それは、語り始める前に、既に、言葉によらない、無言の説教があったからだ、というのです。私も、その通りだと思います。

「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名な、クラーク博士は、大変なワイン好きで、日本に来る時、お気に入りのワインを、たくさん船に積み込みました。

ところが、船の中で、「日本では、クリスチャンは、お酒を飲まないと見られていますよ」、という言葉を聞き、大切なワインを、全部海に投げ捨てたそうです。

日本に到着する前に、既に、こういう無言の説教があったのです。

こういう無言の説教があったので、僅か1年という短い滞在にも拘らず、大きな働きをすることができたのだと思います。

この無言の説教なしには、御言葉の説教はできません。

主イエスも、十字架に上られる道で、無言でした。ピラトが不思議に思うほどに、何も語られなかったのです。

しかし、あの主の無言は、無力な無言では、ありませんでした。力と愛に満ちた、無言だったのです。主は、その無言のうちに、人類の救いを、果たされたのです。

私たちもまた、語る説教と共に、無言の行いによって、この主イエスを証しし、この主イエスの救いを、伝えて行く、お互いでありたいと思います。