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柏牧師:過去の礼拝説教

「神の言葉を語られる方」

2015年11月15日 聖書:「神の言葉を語られる方」 ヨハネによる福音書 7:10~24

人間には、多かれ、少なかれ、ひねくれたところがありまして、「そろそろ始めようかな」、と思っている矢先に、他人から「早くしなさい」、などと言われると、やる気がそがれて、わざと別のことを、始めたりすることがあります。

私も、子どもの頃、「そろそろ宿題しなくては」、と思っている時に、母から「早く宿題しなさい」、などと言われると、逆に、したくもない他のことをしてしまう、ということがありました。

他人から言われると、素直に従えない、というひねくれたところが、ありました。

皆さんは、いかがでしょうか。

前回学びました箇所で、主イエスは、兄弟たちから、「仮庵の祭りの時には、大勢の人が都に上る。あなたの名声を高めるのに、絶好の機会だから、堂々と都に上って、活動すべきだ」、と勧められました。

しかし、主イエスは、「あなた方は、行くが良い。でも、私はこの祭りには上っていかない」、と言われて、兄弟たちも言葉を、拒否されました。

ところが、今朝の箇所の10節には、「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」、と書かれています。

これを読まれて、「あー、主イエスも、私たちと同じなんだ。他人から言われると、反発するけど、結局は行かれたんだ。主イエスにも、ひねくれたところがあったんだ。なんか、親しみを感じる~」、などと喜ぶのは筋違いです。

確かに、主イエスの行動は、最初に兄弟たちに仰ったことと、矛盾しているように思えます。

しかし、ここで、大切なことは、主イエスが、祭りへ上られたことは、兄弟たちの助言に基づいたことではなくて、父なる神様の御心に、基づいたことである、ということです。

主イエスというお方は、何事においても、ご自分の思いで決める、ということはなさいませんでした。何をされるにも、神様の御心を尋ね、神様の御心に従ってなさったのです。

ですから、この時も、単に、主イエスの気が変わった、ということではありません。

主イエスは、祈りの中で、神様の御心を尋ねられ、そして、「あなたは、祭りに行きなさい」という、神様の御声を聴かれたのです。ですから、エルサレムに上って行かれたのです。

でも、兄弟たちが勧めたように、華々しく都に上られる、ということはされませんでした。

逆に、人目を避けて、他の人たちよりも遅れて、こっそりと行かれました。

皆は、お祭り気分に浮かれて、集団になって、詩編の「都上りの歌」を歌いつつ、賑々しく上って行きました。

しかし、主イエスは、その後で、一人静かに、黙々として、上っていかれました。

都に上る目的が、違っていたからです。兄弟たちは、自己実現のために、都に上ることを勧めましたが、主イエスは、父なる神様から託された、御業を為すために、上られたのです。

ご自分に敵対する者たちにも、御言葉を伝え、何とか救いに導きたい。その思いをもって、静かに都に上られたのです。

たった一人の、孤独な旅。これは、後の、十字架への道を、暗示しているように見えます。

一方、エルサレムでは、ユダヤ人たちが、主イエスのことを、探していました。

ここで言う、「ユダヤ人たち」とは、すべてのユダヤ人のことではありません。

エルサレムにいる、ユダヤ教の指導者たちのことです。そういう人たちが、主イエスを殺そうとして、探していました。

この祭りには、イスラエルの男子は、皆エルサレムに上ることになっている。

だから、主イエスも来ているに違いない。そう思って、必死になって、探していたのです。

なぜ、そんなに熱心に、主イエスを探したのでしょうか。

主イエスのことが、気になって仕方がなかったからです。あのイエスという男は、古い自分に死んで、新しく生まれ変わることを、求めている。古い自分とは、今の自分のことだ。

今の自分の生き方を変えて、新しく生まれ変われ、と言っている。でも、今の自分を変えたくない。古い自分を殺したくない。

あの男を殺すか、古い自分を殺すか、二者択一なら、あの男を殺すしかない。あの男には、死んでもらおう。生きていて貰っては困る。そう思って、主イエスの命を、狙っていたのです。では、その時に、一般の人たちは、どういう話をしていたのでしょうか。

今日の箇所で、「群衆」と書かれているのは、一般の人たちのことです。

その群衆の間では、「いろいろなことが、ささやかれていた」、と書かれています。

主イエスのことを、「あの人は良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている悪い奴だ」と言う者もいたのです。

ギリシア語の原語を見ますと、群衆という言葉は、複数形で書かれています。

ですから、あるグループの人たちは、主イエスのことを、「良い人だ」と言い、他のグループの人たちは、「群衆を惑わす悪い奴だ」、と言っていたのです。

主イエスに対して、正反対の評価をする、二つのグループに分かれていたのです。

主イエスというお方の存在は、いつも、人々の中に、分裂を起こさせます。主イエスを、受け入れるか、それとも拒否するか。どちらかを、選択するように、迫られるのです。

主イエスの恵みには、そのように迫ってくる、激しさが込められています。曖昧にしておかないのです。そして、その選択は、その人の人生にとって、決定的なものとなります。

私の家内の場合もそうでした。私と結婚以来、ずっと選択の迫りを感じていましたが、そのたびに、何とか身をかわして、すり抜けていたそうです。

でも、ある時、「いつまでそうやって、決断を先送りしているのか」、という神様からの声に迫られ、「分かりました。あなたがそう望まれるなら、お任せします」と言って、主イエスを受け入れたそうです。そして、この時の選択は、家内にとって、決定的なものとなりました。

アメリカのロッキー山脈に、「偉大な分水嶺」と呼ばれている、頂きがあります。その頂きの右に落ちた雨は、大西洋に流れ、左に落ちた雨は、太平洋に流れていきます。

始めは、僅か数センチの差が、結果的に、何千キロもの差になってしまうのです。

主イエスを受け入れるか、拒否するか。それは、人生で最も重要な選択です。

この時、群衆は、主イエスについて、ぶつぶつ噂して、ささやき合っていました。

しかし、このことは、単なる噂話で、終わってしまって、良いようなことではありません。

主イエスという方は、一体どういうお方か。そのことは私たちにとっては、大問題なのです。

このお方の存在は、私たちの人生にとって、決定的な重要性を持っているのです。

聖書は、そういうお方として、主イエスを伝えています。そして、私たちに語り掛けています。この主イエスというお方を、どうか知っていただきたい。このお方は、あなたのために、この地上に来られた、あなたの神様なのです。

神様なんて一体どこにおられるのか。神様なんて、いるかいないか分からないじゃないか。

あなたは、そう思っていらっしゃるかも知れません。しかし、神様はいらっしゃるのです。

どうぞ、この主イエスというお方のなさる、一つ一つの業。このお方の語られる、一つ一つの言葉。それを心に留めていただきたい。

これは、あなたのための言葉なのです。あなたのための業なのです。神様が、あなたのために、こうして働いてくださったのです。いえ、今も、働いておられるのです。

これが、聖書が、私たちに、熱い思いをもって、語っているメッセージなのです。

聖書は、生まれたばかりの教会が、激しい迫害を受けていた時に、書かれたものです。

ユダヤ人からも迫害されましたし、ローマ帝国からも、激しい迫害を受けました。

なぜ迫害されたかと言いますと、「主イエスこそ、私たちの神様です」、と言ったからです。

13節で、「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」、と書かれています。この時、群衆は、ユダヤの指導者たちを恐れて、公然と語れませんでした。

でも、初代教会の人たちは、恐れずに語ったのです。「この人は神様です」と、公然と言ったのです。ですから、迫害を受けたのです。

でも教会の人たちは、迫害を受けながらも、尚も言い続けました。「このお方は神様なのです。あなたのための神様なのです」、と言い続けたのです。その命懸けの証しが、今、聖書を通して、私たちに伝えられているのです。そのお蔭で、私たちは、主イエスに出会うことができるのです。そのことを、私たちは忘れてはならないと思います。

14節に、「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた」と書いてあります。

仮庵の祭りは1週間続きましたから、その半ばとは、恐らく4日目頃のことなのでしょう。

それまで人目を避けて、ご自分を隠しておられた主イエスが、神殿に上られて、そこで人々を、教え始められたのです。そうしたら、それを聞いた人たちが驚いた、というのです。

「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。皆が、そう言って驚いた、と聖書は伝えています。

「学問をしたわけでもないのに」という言葉は、直訳すると、「この人は誰の弟子になった訳でもないのに」、となります。

権威ある律法学者に、弟子入りして、学んだわけでもないのに。そういう意味の言葉です。

人々を驚かした主イエスは、誰の弟子であったわけでもありません。

驚いている人たちに、主イエスは言われました。

「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」

主イエスを遣わされた方とは、勿論、父なる神様のことです。主イエスは、自分は、誰の弟子でもなく、父なる神様から、直接に教えを受けたのだ、と言われたのです。

これは、私たちにとっても、大切なことです。私たちは、影響力のある牧師に出会うと、聖書の御言葉よりも、その先生の言葉に、依り縋ってしまう、ということがあります。

そして、私は○○先生の弟子であるということを、誇るようになってしまうことがあります。

しかし、私たちは、どんな時も、聖書の言葉を、第一としていかなければなりません。

どんなに素晴らしい牧師でも、聖書の言葉を伝える管に過ぎないのです。大切なことは、私たち一人一人が、主イエスという幹に、直接つながっている枝になる、ということなのです。

主イエスは、更に続けて言われました。17節の御言葉です。

「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。

主イエスは、もし人が、父なる神様の御心を、真剣に願い求め、その御心を行おうとするならば、主イエスの教えが、父なる神様から出たものであることが分かる筈だ、と言っておられるのです。

日頃から、父なる神様の御心を、尋ね求めているならば、私の言葉が、父なる神様の御心と、同じであることが分かる筈だ。そう言っておられるのです。

では、父なる神様の御心とは、何でしょうか。それは、一言で言えば、「愛」です。

私たちを、どこまでも愛してくださる、限りない愛です。どんな者をも、愛してくださる、無条件の愛です。背き続け、裏切り続ける人間を、尚も愛してくださる、無償の愛です。

その御心に従って、主イエスは、この世に来てくださり、私たち一人一人に寄り添ってくださり、遂には、私たちの罪を贖うために、十字架に架かってくださったのです。

神様の御心を、真剣に尋ね求めていく時、私たちは、それが、無条件の愛、無制限の愛、そして無償の愛であることが、分かります。

そして、そのことが分かった時に、主イエスのお言葉や、御業が、その神様の御心を、実現するためのものであることが、分かる筈なのです。

そう言われた主イエスは、そのことを証しする言葉を続けて語られました。18節です。

「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。私は、父なる神様から、直接聞いた、父なる神様の言葉を語っている。

その証拠に、私は、自分の栄光ではなく、父なる神様の栄光を求めている。

私の言葉は、父なる神様から出ている。だから、それに対する栄光も、父なる神様に献げられるべきなのだ、と言われているのです。

これは、とても大切な御言葉です。なぜかと言いますと、ここで、主イエスは、ご自分の話だけを、しておられるのではないからです。

「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者」、それは、私だけではないのだ、と言われているのです。あなたがたも、そうでなければならない、と言われているのです。

私たち一人一人は、神様から、この世の、それぞれの場へと、遣わされた者として、生きています。そのように、生きる者にとって、大切なことは、「自分の栄光」は、求めないということです。遣わしてくださった、「神様の栄光」を、求めるということです。

先日、週報の【牧師室より】にて、テノール歌手ベー・チェチョルさんの話を書かせていただきました。

ベー・チェチョルさんは、甲状腺がんの手術によって、一旦は声を失ったにも拘らず、奇跡の復活を遂げて、今も歌を通して、多くの人に愛と感動を伝えています。

彼は、演奏会で歌う前に、必ず後ろを向いて短く祈りを献げています。「一音たりとも、自分をひけらかすということがありませんように。すべての音を、あなたのために歌う自分でいられるように、私を縛ってください」、と神様に祈っているのです。

私も含めて、牧師は皆、説教の前に、同じような祈りを献げます。「どうか、一言たりとも自分をひけらかすことがありませんように。ただ主の栄光のみが輝きますように。」

自分の栄光ではなく、遣わしてくださった神様の栄光を求める。これが、遣わされた者の願いではないでしょうか。

主イエスは、そういう人こそ真実な人であり、その人には不義はない、と言われています。

「臭い」という字は、自分の下に、大きいと書きます。自分の栄光を求め、自分を大きくしようとする人には、嫌な臭みが、漂います。他人を犠牲にしても、自分を大きくしようとする生き方は、美しくありません。

一方、「美しい」という字は、羊の下に大きいと書きます。この羊を、神の小羊である、主イエスのことだとしますと、主イエスを大きくする、主イエスに栄光を帰す生き方は、美しいということになります。自分を小さくして、主イエスを大きくする。或いは、自分を小さくして、他人を大きくする。そういう生き方は、美しいのです。

私たちは、自分の栄光を求める、臭い生き方ではなく、主イエスの栄光を求める、美しい生き方を、目指していきたいと、願わされます。

主イエスも、ご自身に栄光を求めませんでした。それどころか、ご自身にとって、不利になるようなことを敢えてされています。

祭りの最中に、神殿で説教をされる。それは、主イエスにとって、危険なことでした。

なぜなら、ユダヤ人の指導者たちが、主イエスを殺そうとして、探していたからです。

しかし、主イエスは、危険を敢えて犯してまで、人々に説教されました。それは、人々を救うということが、父なる神様の御心であったからです。

主イエスは、自分を殺そうとしている、ユダヤ人たちも、一人も滅びないで、永遠の命に生きて欲しいと、願っておられたのです。

そのことが、父なる神様の願いであり、また主イエスご自身の、願いであったのです。

ですから、ご自分の身を危険に晒しながら、尚も一生懸命に、ユダヤ人たちに、話しかけられたのです。決して、ご自分の栄光のためではありません。

あなたが救われるために、私は語り続ける。危険を犯してでも、語り続ける。

今朝の御言葉は、このような主イエスのお姿を、私たちに教えています。

自分の命を狙うユダヤ人たちが、悔い改めて救われるために、命の危険を冒してでも、一生懸命に語りかけられる主イエス。

このお方の中に、私たちを心から愛してくださる、神様のお姿があります。

神様とは、こういうお方なのだ。そのことを、聖書は、私たちに証ししているのです。

そして、この神様が、私たちのために、為してくださっている、御業の中に、私たちの希望があるのだ。いや、私たちの希望は、このお方の中にしかないのだ。

教会は、2千年に亘って、そのことを、命懸けで伝えてきました。

私たちも、そのことを、一人でも多くの人に、伝えていきたいと願わされます。