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柏牧師:過去の礼拝説教

「すべてを満たしてくださるお方」

2016年03月06日 聖書:エフェソの信徒への手紙 1:15~23

先週から、この聖日礼拝においては、エフェソの信徒への手紙から、ご一緒に、御言葉に聴いています。

エフェソの信徒への手紙は、前半で、教会とはどのようなものであるかを語り、続いて後半では、その教会に招き入れられた者は、どのように生きるべきなのか、を語っています。

さて、今朝の御言葉で、パウロは、先ず、感謝をささげています。

何に感謝しているか、と言いますと、「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること」。そのことに、絶えず感謝しています、と言っているのです。

エフェソを中心とした諸教会が、主イエスを信じる信仰に、固く立っている。

そして、その正しい信仰の実りとして、教会員が、お互いに愛し合っている。

そのことを聞いて、感謝しているのです。

確かな信仰と、そこから生まれる、愛の行為。これは、教会にとって、最も大切なことです。

この二つは、教会が健全に成長するための、鍵であると言えます。

教会にとって、最も大切な、第一のこと。それは、神を愛する信仰です。

そして、次に大切なことは、その神を愛する信仰から生まれる、隣人への愛です。

神を愛し、隣人を愛する。この二つのバランスが大切です。

どちらか一方だけに偏っていては、健全な教会とは言えません。そして、また、この順序も大切です。まず神への愛、そして、次に隣人への愛なのです。

もともと、私たち人間は、隣人を、自分のように愛する愛など、持ち合わせていません。

人を愛することができない。そんな私たちを、まず神様が、命懸けで、愛してくださいました。その神様の愛に応えて、神様を愛するようになった時に、私たちは、初めて、真実に人を愛する歩みの、小さな一歩を、踏み出すことができるのです。

私と同じように、この人も、そしてあの人も、神様の、限りない愛の対象なのだ。

この人のためにも、そしてあの人のためにも、主イエスは、十字架にかかられたのだ。

そのことが、本当に分かった時、私たちは、初めて、真実に、他人を愛することができるのです。神様を愛することと、他人を愛することとが、重なってくるのです。

あの、インドの聖者と言われた、マザー・テレサは、路上に倒れている人の中に、キリストのお姿を見て、「オー、病めるキリスト」と言って、ひたすら愛を注ぎました。

彼女は、神様を愛する熱い思いを、隣人を愛することにおいて、実現していったのです。

パウロは、彼の愛する教会が、この神を愛する信仰と、隣人への愛において、正しく成長していることを知って、心から感謝しているのです。

そして、祈りのたびに、そのことを想い起しているのです。

パウロの最大の喜びは、愛する教会が、正しく成長していく姿を、見ることでした。

パウロは、そのために、命懸けで働きました。

チイロバ牧師として親しまれた、榎本保郎先生は、持病の肝臓病に、永年苦しみました。

ある時、入院して、医者から、安静を言い付けられていましたが、教会の事が、心配で、心配で堪らず、病院を抜け出して、教会に帰って来てしまいました。

教会員たちは、「先生、もっとご自分のお身体を、いたわってください。先生のご病気が、癒されるために、私たちが、一生懸命に祈っているのに、その先生が、病院を抜け出すようでは、困ります」、と苦情を言いました。

すると榎本先生は、「もし、私のために、祈ってくださるなら、私が、もっと主に用いられ、もっと教会のために、働けますようにと、祈ってください。それが、私の一番の願いなのです」、と言われたそうです。榎本先生の、最大の喜びは、自分が癒されることではなくて、教会と信徒が、愛において成長していく姿を、見ることであったのです。

パウロも、榎本先生も、いつも、教会のことを覚え、教会のために、ひたすらに祈っていたのです。

明治初期に沢山保羅というキリスト者がいました。彼が、明治9年に、アメリカ留学から帰って来た時、明治政府から、月給150円という高給で、招きを受けました。

しかし、彼は、これを断って、月給わずか7円の、浪花教会の牧師になりました。

この沢山保羅の献身に、心打たれた人々が、次第に集まり、教会の信徒も増え、やがて大阪を代表する教会に、成長しました。

余談ですが、今、NHKの朝の連続ドラマ「あさが来た」が放映されています。

このドラマに、成瀬仁蔵という人物が登場しています。主人公のモデルである、広岡浅子と共に、日本女子大学設立に尽力し、初代校長となった人です。

この成瀬仁蔵はクリスチャンで、彼の影響もあって、広岡浅子は62歳の時に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

浅子が信仰を持つきっかけを作った、成瀬仁蔵。その成瀬仁蔵に、洗礼を授けたのが、沢山保羅でした。

この沢山保羅が、召された後、病院の枕の下から、短冊のようなカードが出てきました。

そのカードには、毎日祈る人たちの名前が、びっしりと書かれていました。

数年前、私は、大阪に行ったとき、浪花教会に立ち寄り、そのカードを見せてもらいました。

浪花教会の宝物なので、滅多に、人には見せないものだそうですが、折角来たのだからと言うので、特に見せていただいたのです。もうボロボロになった、紙包みを開くと、黒ずんだ、古い画用紙のような、カードが出てきました。

その一枚一枚に、「何日、誰誰」というように、その日に祈る人の名前が、一枚のカードに10人位書かれていました。そうやって教会員一人一人を、繰り返して、祈り続けていたのです。カードもボロボロで、強く掴むと崩れそうでしたが、沢山保羅の熱い思いが、一枚一枚に込められているように感じました。

牧師は教会を愛しています。教会員を愛しています。牧師にとって、教会と教会員は命です。沢山保羅も、教会員を、自分の命のように、或いは命以上に大切にし、その一人一人を、いつも覚えて祈っていたのです。

パウロが、どんな時にも、たとえ牢獄に繋がれていても、教会を覚えて、絶えず祈っていたことと、重なるものがあります。

教会の素晴らしさは、牧師や、信徒一人一人の、そのような祈りによって、支えられている、ということではないでしょうか。

17節から19節までには、パウロの、もう一つの祈りが、記されています。ここに記されている祈りは、一言で言いますと、「悟ることができますように」、という願いです。

神様がどんなに偉大なお方であるか。その神様によって、与えられる恵みや希望が、どれほど素晴らしいものであるか。どうか、それを分からせてくださいますように。

知恵と啓示の霊が与えられ、私たちの心の目が、開かれますように、と祈っているのです。

皆さん、聖書が示す、私たちの神様とは、どういうお方でしょうか。

かつて、私は、ある集会で、そこに集まった方々に、それぞれが抱いている、神様のイメージについて、語っていただいたことがあります。

一番多かったのは、神様とは、「いつも共にいて、励まして下さるお方」、という答えでした。

その他、全能なるお方、聖なるお方、義なるお方、愛なるお方、など色々ありました。

それぞれが捉えている、神様のイメージについて、自由に意見を、述べ合いました。

皆さんでしたら、どう答えられるでしょうか。

最後に、私の意見を、求められましたので、このような話を、させていただきました。

聖書の神様の、ユニークな特色は、私たちに、自らを示して下さるお方だ、ということです。

それを、ちょっと難しく、教会用語で言いますと、自らを啓示されるお方だ、ということになります。「啓示」というのは、除幕式において、幕を取り外す、という意味の言葉です。

神様が、自ら、幕を取り外して、ご自身を、顕わしてくださるのです。そうでなければ、私たちには、神様のことが、分からないからです。

英語で、神様のことを「God」と言いますが、この言葉は、ゲルマン語の「グス」という言葉から来ています。

ゲルマン民族に、キリスト教を伝えようとした、ウィルフィラという人が、聖書をゲルマン語に、翻訳しようとしました。ところが、彼は、すぐに難題に、突き当たってしまいました。

ゲルマン語には、ギリシア語の「テオス」、つまり「神」という言葉に、相当する言葉がなかったのです。そこで、彼は、考え抜いた末に、ゲルマン語で、「語りかける者」、という意味の言葉、「グス」という言葉を、男性語に置き替えて、「ゴス」と訳しました。

この「ゴス」が、英語になって、「God」となった、と言われています。ですから、神様とは、語り掛けられるお方なのです。

神様は、主イエスによって、自らを顕わしてくださいました。除幕式のように、幕を取り外して、はっきりと見えるように、ご自身を啓示してくださったのです。

私たちは、自分の力や、自分の努力によっては、神様を知ることはできません。

聖霊の導きによってのみ、神様を知ることができるのです。パウロは、教会の人たちの、心の目が開かれて、神様を、更に深く知ることができますように、と祈っているのです。

その心の目も、自分の力によって、開くのではありません。開いていただくのです。

主イエスが、十字架にかかられるために、エルサレムに向かわれる途中、エリコの町で、バルテマイという、一人の盲人に出会います。

バルテマイは、通り過ぎようとされる、主イエスに、必死に叫びます。

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

主イエスは、立ち止まられて、彼に問い掛けられます。「何をして欲しいのか」。

バルテマイが答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。

この時、バルテマイは、目が見えるようになることだけを、願ったのではないと思います。

彼は、こう言いたかったのではないでしょうか。「ダビデの子イエスよ、救い主イエスよ、どうか、目を開けてください。あなたを正しく見ることができるように。あなたをもっと親しく見ることができますように」。

その願いの通り、バルテマイは、肉体の目だけではなく、心の目も開けていただきました。

そして、その後、主イエスの弟子となって、従って行ったのです。

皆さん、私たちの信仰生活は、常に順風満帆であるとは限りません。主を、見失いそうになることもあります。

そのような時には、このバルテマイのように、必死に叫ぼうではありませんか。主は、必ず立ち止まってくださいます。そして「何をしてほしいのか」と、優しく問いかけてくださいます。

その時は、「主よ、あなたをもっと確かに、もっと親しく、見ることがでるようになりたいのです」、と願いましょう。何にもまして、そのことを、願っていきましょう。

そのように願っていくなら、私たちは、きっと、私たちの目に触れてくださる、主イエスの、温かい御手を、感じることができると思います。

では、そのように見えるようにさせられて、何が分かるのでしょうか。御言葉は、心の目が開かれた時、私たちは、三つのことが、分かるようにされる、と言っています。

第一は、私たちに与えられている、永遠の命の希望が、どれほど素晴らしいものであるか。それが分かるようにされる、というのです。

次に、私たちが受け継ぐ、神の国の栄光が、どれほど豊かであるか、ということ。

そして、三番目は、神様の偉大な御力です。神様の全能の御力が、分かるようにされる、というのです。

では、私たちは、その神様の偉大な力を、どこに見るのでしょうか。パウロは、その神様の偉大な力を、私たちは、主イエスの復活と、昇天において、見るのだと言っています。

20節に、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ」、とあります。

父なる神様は、主イエスを復活させられました。しかし、それだけでなく、天において、御自分の右の座に、着かせられたのです。

主イエスは、復活されただけではないのです。天に上られ、全能の父なる神の、右の座に、着かれたのです。

使徒信条で、「天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」、と告白している通りです。

復活して、ただ人間世界に戻ってきた、というのでは、救いにはならないのです。

主イエスは、死者の中から、甦られただけでなく、同時に、父なる神様の、右の座に着かれたのです。聖書において、右というのは、力や、正義や、聖さを、表しています。

ですから、父なる神様の右の座に着かれた、ということは、父なる神様と同じ力、同じ正義、同じ聖さを、ご自分のものとされた、ということなのです。

それは、主イエスが、すべての支配、すべての権威、すべての力の、上に置かれた、ということです。

私たちが生きている、この世には、様々な支配や、権威や、力があります。

それらによって、私たちは翻弄されています。それらによって、一喜一憂させられています。

私たちは、そういう、どうにもできないような、ものによって、押さえ付けられています。

この世の現実の只中で、しばしば、そのような思いに覆われ、佇んでしまうことがあります。

誰もが、平和を求めていながら、憎しみと暴力の連鎖は、止まることを、知りません。

それはなぜでしょうか。一体、何が、この世を、支配しているのでしょうか。

戦争や、テロや、環境破壊。私たちは、そのようなものに、取り囲まれています。そのようなものに、脅えながら暮らしています。

神様は、どこにおられるのか、と叫びたくなるような、世界の現実があります。

しかし、御言葉は、言うのです。それら、すべてのものの上に、主がおられる。

父なる神様は、主イエスを、あらゆる支配と、権威と、力の上に、置かれたのだ。

だから、あなた方には、希望があるのだ。あなた方は、生きていけるのだ。

御言葉は、そう言っています。

主イエスは、憐れみ深い方です。私たちのために、十字架にかかってくださり、私たちのために痛みを負われた方です。

その主が、死者の中から復活され、天において神の右の座に着かれ、すべての支配と、権威と、力とを、足元に従わせている、というのです。

たとえ、この世が、暴風雨で、荒れ狂っていても、雲の上には、輝く陽の光がある。やがて、雨風は、必ず消え去り、明るい陽の光を、喜ぶことができる。

私たちは、心の目で、その光を仰ぎ見て、希望に生きることができるのです。

だからこそ、この世にあって、教会が重大な意味を持ちます。なぜなら、父なる神様は、すべてのものの上におられる、このキリストを、教会にお与えになったからです。

キリストが、「教会の頭」として、教会に与えられています。教会は「キリストの体」です。

またキリストが、満ち満ちている所です。頭なしでは、体に命はありません。

体が、頭に繋がっている限り、体には、命が満ちています。

どんな小さな体の器官でも、脳からの指令が無ければ、動きません。体である教会が、頭であるキリストに繋がっている限り、どんな小さな業の中にも、キリストの御心が、満ち満ちているのです。神様の恵みが、隅々にまで、満ち溢れている教会。

その教会は、混沌とするこの世にあって、十字架の灯を、高く掲げて、まことの希望を、指し示す場とならなければ、なりません。教会が、そこに、立ち続けなければならないのです。

ある教会で、洗礼を受けられた、一人のご婦人の、歓迎会が持たれました。その席上で、洗礼を受けられたご婦人が、こういう話をされました。

その方の、ご主人のお母さんが、クリスチャンであったそうです。そのお母さんが、ご高齢でお亡くなりになりました。その時、その息子さん、つまりその方のご主人が、「十字架の灯」を消すわけにはいかない、と言って、洗礼を受けたというのです。

そのご主人も、最近亡くなられました。そして今、自分が洗礼を受けた。「十字架の灯」を、消すわけにはいかない、というのです。

これは、一つの家族の話です。しかし教会の話でもあると思います。

私たちは、十字架の灯を、消すわけにはいきません。十字架から溢れ流れる、主の恵みを無にするわけにはいきません。主の恵みの支配に、生かされ続ける、教会がなくてはならないのです。混沌とする社会のただ中にあって、本当の慰めを与えてくれるのは、主の十字架の恵みに、満ち満ちている教会だけです。ですから、十字架の灯を掲げる教会は、立ち続けなければ、ならないのです。

受難節のこの時、私たちは、今一度、この思いを、新たにしたいと思います。