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柏牧師:過去の礼拝説教

「豊かな人生の秘訣」

2016年05月22日 聖書:エフェソの信徒への手紙 4:25~5:5

古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けなさい。

今朝の御言葉の直前の、4章22~24節において、御言葉は、このように勧めていました。

キリストによって、救われた者は、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けなさい。

心の衣替えをしなさい、と勧めていました。

続いて、今朝の御言葉では、心の衣替えをすると、どのような生活になるのか、ということが述べられています。そこで、特に、取り上げられているのは、言葉です。

今朝の箇所全体に亘って、言葉の問題が、繰り返して、取り上げられています。

新しく生まれ変わることによって、言葉が変わる筈だ、というのです。

では、言葉が、どのように、変わらなくては、ならないのでしょうか。

25節の御言葉は、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」、と言っています。

救われて、新しい衣を着た者は、偽りを捨て、真実を語りなさい、と言っているのです。

ここにある、捨てなさい、という言葉も、脱ぎ捨てなさい、という意味の言葉です。

つまり、心の衣替えをした者は、言葉においても、衣替えをしなさい、と言っているのです。

ここで、「真実」と訳されている言葉は、21節や24節で、「真理」と訳されている言葉と、同じ言葉です。アレセイア中学・高校の名前にある、アレセイアという言葉です。

ですから、「真実を語りなさい」とも、「真理を語りなさい」とも、訳せる言葉なのです。

では、「真理を語りなさい」とは、どういうことでしょうか。聖書で言う真理とは、主イエスのことを指します。ですから、真理を語りなさいとは、主イエスを語りなさい、ということです。

でも、主イエスを語れ、と言われても、良く分かりません。

もう少し分かり易く言えば、それは、「主イエスの愛に、裏打ちされている、言葉を語りなさい」、ということです。主イエスの愛に、裏打ちされた言葉を語るのです。

ですから、真実を語ると言っても、ただ単に、本当のことを語る、ということとは、少し違います。時として、本当のことを、ストレートに語ることが、相手を傷つけることがあります。

「あなたは、間違っている。全然わかっていない。ここはこうすべきだ」。

たとえ、そのような指摘が、正しくても、相手の気持ちを、思い量ることもなく、一方的に言い切る。相手の人の心に、土足で、ドカドカと、上がり込むような言い方。

それは、主イエスの愛に、裏打ちされている言葉とは言えません。

勿論、嘘を言うことは、いけませんが、無遠慮に、本当のことを言うことで、他人を傷つける、ということは多いと思います。

では、主イエスの愛に、裏打ちされた言葉を、誰に対して、語るのでしょうか。

御言葉は、「それぞれ隣人に対して語りなさい」、と言っています。

このエフェソの信徒への手紙で、パウロは、一貫して、教会のことについて、語っています。

ですから、ここでいう「隣人」も、教会の中における、隣人のことです。

ここで、パウロは、たとえ、世の中は、偽りの言葉に、満ちていても、せめて教会の中においては、偽りの言葉を避けて、愛の言葉を語ろうではないか、と呼び掛けているのです。

なぜなら、私たちは、互いに、体の一部なのだからだ、と言うのです。

私たちは、キリストの体である、教会の一部であって、それぞれの部分は、頭なるキリストに、繋がっています。

もし、体のそれぞれの部分が、偽りの言葉を、頭に伝えたら、一体どうなるでしょうか。

私たちの、体の事を考えてみれば、良く分かります。各部分の、感覚や神経が、偽りの情報を、頭脳に伝えたらどうなるでしょうか。

実際には、火傷しそうに熱いものを、偽って、冷たいものだ、という情報を、頭脳に伝えるなら、私たちは、たちまち命を失ってしまいます。

教会という体は、それぞれの部分である、私たち一人一人が、その頭であるキリストに、真実を語るときに、正しく、その働きを、進めていくことが出来るのです。

それは、教会員お互いの間でも、同じです。もし、教会の中で、偽りの言葉、愛に欠けた言葉が、語られているなら、それは、キリストの体の働きを、損なうことになるのです。

ですから、主イエスの愛に、裏打ちされた言葉を、語り合おうと勧められているのです。

続いて、パウロは、そのことを、具体的に、説明しています。

怒る場合にも、キリストの愛をもって、怒りなさい、と言っています。

御言葉は言っています。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」

聖書は、怒ることが、すべて悪いとは、言っていません。

もちろん、身勝手で、感情の赴くままの怒りは、善いことではありません。

しかし、不正を憤る場合の怒りは、この世を正すための、大きな力となります。

主イエスも、威厳をもって、怒られたときがあります。

マルコによる福音書3章5節には、「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」と記されています。

ここで主イエスは、怒っておらます。律法学者やファリサイ派の人々が、安息日に、主イエスが、片手のなえた人を、癒すかどうか、窺っていた時のことです。

主イエスが怒られたのは、ご自身に対する、非難のためではありません。

律法学者やファリサイ派の人々が、片手のなえた人に、全く愛を示さず、その人の不幸を、自分たちの企みのために、利用しようとしていたことを、怒られたのです。

また、主イエスは、神殿の境内で、両替をしたり、犠牲の動物を売って、法外な利益を貪っていた人たちに対して、怒られました。祈りの家である神殿を、強盗の巣にしていたからです。

キリスト者の生活にも、怒りはあります。しかし、それは、正しい怒りでなければならない、と御言葉は言っています。怒ることがあっても、罪を犯してはならない、と言っているのです。

私たちは、怒っている時には、自分が正しいと思っています。

しかし、たとえ、自分が正しいと思う、正義の怒りであっても、そこで一瞬、立ち止まって、改めて考えてみる、必要がある、というのです。

果たして、この正義の怒りが、相手を、本当に生かすかどうか。その事を考えてみるのです。主イエスは、怒りの中でも、どこまでも、人を生かそうとされました。

正しい怒りであっても、人を裁いて、切り捨てている、ということは、ないだろうか。

相手の人の、過ちを正し、その人を、生かすような、怒りであっただろうか。

立ち止まって、そのことを考えてみるのです。

ですから、ここでも、鍵になっているのは、愛です。愛に裏打ちされた、怒りの言葉になっているか、そのことが、問われているのです。

ある時、三浦綾子さんが、友人の家を、訪ねた時のことです。その友人が、未だ少学校に入ったばかりの男の子を、叱っていました。

何か、とてもいけないことをしたのでしょう。その怒り方は、激しいものでした。

男の子のカバンを、庭に放り出して、叱っているのです。子供を育てたことがない、三浦さんは、ハラハラしながら、眺めていました。こんなに、激しく怒って、大丈夫なのだろうか。

ところが、その男の子は、泣きながら、母親にすがって、懸命に謝っているのです。

「ごめんなさい。もうしません」と言って、懸命に謝っているのです。

母親が、自分のために、怒っている。自分を生かすために、怒っている。そのことが、子供心に、分かっているからです。愛に裏打ちされた怒りは、相手の人を、生かします。

しかし、感情に流された怒りは、相手を傷つけ、そして、自分をも苦しめます。

怒りをコントロールできない時、自分も、その怒りに支配され、平安を失ってしまいます。

ですから、パウロは、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」、と言っています。

当時のユダヤ人の暦では、日が暮れると、翌日になります。

ですから、ここでは、怒りを、翌日まで持ち越してはならない、と言っているのです。

いつまでも、怒りに身を任せていては、駄目ですよ、と言っているのです。

一日の終わりに、考えてみるのです。自分の怒りは、正義の怒りで、あったかもしれないが、相手を生かすものだったかどうか。キリストの愛に、裏打ちされた怒りであったかどうか。

そういう吟味をすることが、勧められているのです。

詩編4章5節に、こういう言葉があります。「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。」

この御言葉は、以前の口語訳聖書では、このように訳されていました。

「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」

この詩は、夜、床に入った時、静かに、自分の心と、語ってごらんなさい、と勧めています。

お前の怒りは、自分の感情の、赴くままの怒りであったか、それとも相手を生かす怒りであったか。キリストの愛に、裏打ちされた怒りであったか。

夜、床の中で、静かに、自分自身に、問い掛けてごらんなさい、と言っているのです。

これは、私たちが、心にすべき、大切な、呼び掛けだと思います。

怒りが、相手を生かすものでないときに、それは、争いや分裂を、引き起こします。

そして、その時、悪魔は、私たちの戸口に、立っているのです。教会の争いや、分裂は、悪魔に、絶好の働きの機会を、与えることになります。

ですから、私たちは、たとえ、自分が正しくても、関係修復への第一歩を、自分の方から、踏み出さなければ、ならないのです。それは、とても難しいことです。

しかし、そのような、寛大な心を与えてくださいと、祈るのです。その祈りがない時に、教会は、分裂していきます。

感情に流された、怒りの言葉は、相手の人を生かしません。そして、それは、29節で言う、「悪い言葉」に繋がっていきます。

御言葉は、こう言っています。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。

ここで、「悪い言葉」、と訳されているのは、「腐った言葉」、或いは「悪臭を放つ言葉」、とも訳せる言葉です。愚かな言葉は、腐ったような、悪臭を放つ、というのです。

以前にもお話ししましたが、「臭い」という漢字は、自分の「自」の下に、「大」と書きます。

自分を大きくする、と書くのです。相手を生かすことを、考えずに、自分を大きくすることばかりを、考えて語る言葉。そういう言葉は、嫌な臭気を放ちます。

そういう言葉ではなくて、聞く人に、恵みが与えられるような言葉。相手の人を、造り上げるような言葉。そういう言葉を、語りなさい、とパウロは、勧めているのです。

別の手紙で、パウロは、「塩で味付けられた、やさしい言葉」を語りなさい、と言っています。

私たちは、自分を大きくする、臭い言葉ではなく、人を生かす、「塩で味付けられた、やさしい言葉」を、語り合う群でありたいと願います。

もし、そうでないなら、私たちは、「神の聖霊を悲しませて」しまうことになります。

「神の聖霊を悲しませてはいけません」。これもまた、心に深く、刻むべき言葉です。

教会において、私たちが、悪い言葉を語るなら、誰が悲しむかと言えば、誰よりも、聖霊なる神様が、悲しまれるのです。

教会は、本来は、聖霊の爽やかな風が、吹いている所です。それなのに、私たちの悪い言葉から発せられる、嫌な臭気が立ち込めているなら、誰よりも、聖霊が悲しまれるのです。

御言葉は、聖霊の悲しみは、私たちの保証人としての、悲しみでもある、と言っています。

30節の御言葉は、終末において、私たちが、神様の前に立って、裁きを受ける時、聖霊が、私たちを保証してくれる、と言っています。聖霊が、保証人となってくださる、というのです。

私たちが、悪い言葉を語ると、私たちを保証してくださっている、聖霊が悲しまれるのです。

なぜなら、私たちを信じて、私たちに期待して、保証してくださった聖霊を、裏切ることになるからです。

皆さん、私たちは、神様の悲しみを、どれほど真剣に、考えたことがあるでしょうか?

こんな事をしたり、こんな事を言ったら、神様が悲しまれる。そのことを、どれほど真剣に思っているでしょうか。

私たちのために、言葉ならない、切なるうめきをもって、今も、執り成していてくださる、聖霊を悲しませることが、ないようにしたいと思います。

御言葉は、そのように聖霊を悲しませないために、私たちの人生から、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」を、すべて消し去らなければならない、と語っています。

そして、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによって、あなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」、と勧めています。

「親切にし」、という言葉は、もともとは、「お人好し」、という意味の言葉です。

お互いに、お人好しとなって、憐れみの心で接しなさい、と言っているのです。

世間一般では、「お人好し」という言葉は、誉め言葉ではありません。

善人だが、いつも馬鹿を見ている人。損な生き方をしている人。そういう人を指す言葉です。

しかし、パウロは、敢えて言うのです。「あなた方は、お人好しでいなさい。損な生き方を、引き受けなさい」。なぜなら、あなた方は、キリストによって、無条件に、そして無制限に、赦されているのだから、と言うのです。

そんな大きな恵みを、ただで頂いているのだから、あなた方は、とんでもなく得をしているのだ。だから、その恵みを頂いた者として、損な生き方をしてご覧なさい。それでも、有り余るほどの、お釣りが来る筈だ、と言うのです。

本来は、赦される筈がない罪が、キリストによって、一方的に赦されたのだから、お人好しと思われるほどに、赦しなさい、というのです。

しかし、実際には、心から赦す、ということは、そんなに簡単な事ではありません。とても、難しいことです。

明治・大正期に、日本の教会のリーダーであった、植村正久牧師は、ある時、説教の中で、「私は、この年になっても、まだ赦すことができない人がいる」、と言った途端に、絶句してしまって、説教を続けられなくなった、と伝えられています。

あの植村先生にして、そうなのです。私たちにとって、難しいことであるのは、当然です。

しかし、御言葉は、難しいからと言って、諦めて良いとは言っていません。私たちが、赦すことができるための、秘訣を示してくれています。それが、5章2節の言葉です。

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして、わたしたちのために、神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

5章2節では、主語が、それまでの、「あなたがた」から、「わたしたち」に、変わっています。

このことから、この御言葉は、当時の教会の、信仰告白の一部だと、言われています。

皆さん、私たちは、何を信じているのでしょうか。何によって、新しくされたのでしょうか。

主イエスが、私たちを愛してくださったこと。自らの命を、十字架に献げてまで、その愛を証ししてくださったこと。そして、主イエスの十字架によって、私たちの罪が、無条件に、そして無制限に、赦されたこと。私たちは、このことを信じています。

32節にある、「赦す」という言葉は、単に、水に流す、というような、軽いものではありません。無価値な者に、恵みを授けるという、積極的な行為を、表す言葉です。

赦されるに値しない者。無価値な者に、主が、限りない恵みを授けてくださって、赦してくださったのです。私たちが、赦そうとするのは、いえ、赦したいと願うのは、この恵みを受けたからです。この恵みに、何とかして、応えたいと願うからです。

私たちが、愛に裏打ちされた言葉を、語りたいと、切に願うのも、心の奥底にある怒りを、捨て去りたいと、真剣に悩むのも、人を赦すことができますようにと、ひたすらに祈るのも、すべては、主が私たちを、愛してくださったからなのです。

その主の、愛と赦しに、何とかして、応えていきたいと願うからです。

主の恵みに、応えていく生き方。それは、損な生き方に見えるようで、実は、素晴らしい生き方なのです。自分を生かし、人をも生かす、まことの豊かさに、生きる生き方なのです。

教会は、そのような信仰者の群れです。この恵みの中を、共に歩んで行きたいと願います。