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柏牧師:過去の礼拝説教

「あなたはかけがえのない存在」

2016年05月01日 聖書:エフェソの信徒への手紙 4:7~16

先週、私たちは、「教会とは、主によって、呼び集められた者の群れである」ということを、御言葉から聴きました。一人の主によって、呼び集められた群れなのですから、教会は、一つとならなければならない、と教えられました。

それを受けて、今朝の御言葉は、このように語っています。

そのように、一つとされた群れの、一人一人に、それぞれ異なった賜物が、恵みとして与えられている。

教会を、キリストの体として、造り上げるために、教会員一人一人には、その人でなければできない、務めが与えられている。

だから、一人一人が、大切にされ、生かされなければならない。

お互いの違いを、受け入れ、敬い合う群れ。それが教会なのだ。

御言葉は、そのように、心を込めて語りかけています。

7節で、「キリストの賜物のはかりに従って」、と書かれています。「人間のはかりに従って」、と書かれているのではありません。

「キリストのはかり」なのです。人間の目には、どう映ろうと、キリストのはかりに従えば、一人一人に、皆、賜物が与えられているのです。

ヘルマン・ホイヴェルスが言ったように、何もできなくなった手も、祈ることはできます。

かつては、教会の中心メンバーとして、様々な働きをしてきた。しかし、今は、歳を取り、病も得て、何も出来なくなった。そんな自分に代わって、奉仕の業を担ってくれる人がいる。

その人に、心を込めて祈る、感謝の祈り。その祈りこそが、キリストのはかりに従えば、限りなく尊いのです。その祈りが、教会を支えるのです。

教会には、様々な人が、呼び集められています。皆、違っています。

その一人一人に、キリストから、恵みの賜物が、与えられているのです。その人でなければ出来ない、尊い務めが、与えられているのです。

7節の御言葉は、原文では、「一人一人に」という言葉が、一番始めに置かれています。

いきなり「一人一人に」、と書かれているのです。この言葉が、特に強調されています。

一人一人に、霊の賜物が、分け与えられているのです。では、何か特別な才能でないと、賜物とは言えないのでしょうか。他の人より秀でた業でないと、いけないのでしょうか。

そんなことはありません。聖書の考え方は、全く逆です。

私たちに与えられたもの。たとえそれが、人の目には、どんなに小さく見えようとも、感謝して用いるならば、それはすべて、恵みの賜物なのです。

神様から、与えられたものであるなら、どうしてそれが、小さなものと言えるでしょうか。

ですから、お一人お一人が、かけがえのない存在なのです。

誰一人、欠けてはいけないのです。

金子みすずの作品に、「私と小鳥と鈴と」、という詩があります。

『私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、

地面(じべた)を速くは走れない。

私が体をゆすっても、きれいな音はでないけど、

あの鳴る鈴は私のように、たくさんの唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。 』

「みんなちがって、みんないい」。茅ケ崎恵泉教会の、合言葉にしたくなるような言葉です。

「みんなちがって、みんないい」。愛する兄弟姉妹、私たちは、この言葉のように、お互いの違いを、敬い合い、喜び合う群れを目指して、歩んで行きたいと思います。

教会はキリストの体です。体は、いろいろな部分からなっています。教会に繋がる一人一人は、その部分なのです。どの部分も、なくてはならない、かけがえのないものです。

どれ一つとして、不要なものはありません。一つ一つの部分が、結び合わされ、協力し合って、一つの体として、機能しています。それが、体です。

それは、ちょうど、オーケストラのようなものです。

オーケストラにも、様々な楽器があります。一つ一つの楽器は、それぞれに違っています。

しかし、その違いを生かしつつ、それぞれのパートを分担し、一人の指揮者のもとに、一つの楽譜に従って、演奏します。

様々な楽器が、それぞれの持ち味を、活かしながら、しかもバラバラにならずに、一体となって働いて、一つのハーモニーを、造り出しています。

皆さん、教会も同じです。主イエスという、一人の指揮者のもとに、聖書という、一つの楽譜に従って、一人一人が、与えられた賜物を活かして、それぞれのパートを担い合うのです。

音を出すべき時には、楽譜に従って、指揮者を仰ぎ見つつ、しっかりと音を出します。

しかし、音を出すのを控えるべき時には、静かにして、他の人の出す音に耳を傾けるのです。そうやって、全体として、調和の取れた、一つのハーモニーを奏でるのです。

そうでなければ、教会は、この世に対して、美しいハーモニーを、奏でることはできません。

この世に対して、教会が発信する音が、不協和音であっては、主イエスを証しすることができません。

茅ヶ崎恵泉教会には、素晴らしいパイプオルガンが、与えられています。パイプオルガンが奏でる、美しく、力強い音色は、茅ヶ崎恵泉教会の特色です。

しかし皆さん、パイプオルガンは、あくまでも伴奏のために、用いられるものです。

茅ヶ崎恵泉教会が、この世に向かって、奏でる主旋律。それは、主イエスの愛です。

教会員一人一人が、お互いの違いを、受け入れて、敬い合い、喜び合って歩む姿。

その姿が醸し出す、愛の音色。主イエスの愛を、指し示す音色。それが、主旋律です。

パイプオルガンは、それ応援するための、助け手なのです。

様々に違う一人一人が、バラバラになって、不協和音を奏でるのではなくて、それぞれの違いを生かして、美しいハーモニーを奏でる。

これを指揮することは、人間にはできません。牧師が、どんなに優秀でも、人間の力では、出来ません。この指揮者の務めは、主イエスでなければ、担うことができません。

最も高い所に、おられたにも拘わらず、最も低い所にまで、降りて来られ、すべての人の悩み、苦しみを、知っていてくださるお方。主イエスでなければできません。

そのことを、パウロは、8節以下で語っています。

教会は、キリストが満ち満ちている所です。そのキリストは、天の高みの、栄光の座におられたお方です。そのお方が、陰府の底にまで、降りて来てくださったのです。

あらゆるものを、支配されておられるお方が、あらゆる人に仕えるために、僕となられたのです。そして、十字架の贖いを、成し遂げられた後、再び、天の高みへと戻られ、全能の父なる神様の、右に座して、私たちを、守っていてくださるのです。

このお方が、限りない愛をもって、教会というオーケストラを、指揮してくださるのです。

一人一人は、違っていても、皆が、この一人のお方を見上げて、演奏するなら、一つになって、美しいハーモニーを、奏でることができます。

11節には、そのお方が、教会に、「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」という、教職者を、立ててくださった、と書かれています。

初代教会には、このような教職者が、立てられていました。このような教職者の働きによって、教会は守られてきたのです。

では、その人たちに、託された任務とは、何だったのでしょうか。12節です。

それは、「聖なる者たちを、奉仕の業に適した者」とする、ということでした。

聖なる者たち、というのは、特別な人たちのことでは、ありません。

私たち教会員のことです。救われて、信仰に入れられた者たちのことです。

「適した者とする」、と訳された言葉は、口語訳聖書では、「整える」となっていました。

教職者の務めは、教会員を「整える」ことであった、というのです。教会員を整えて、「キリストの体」を造り上げること。それが、教職者に託された、務めであったのです。

キリストの体である、教会が立て上げられて、教会員が、主イエスに対する、信仰と知識において、一つとなって、成熟すること。

そのために、教職者が立てられて、それぞれの役目を、担っている、というのです。

御言葉は、教会が、教会であるためには、すべての教会員が、神の子、主イエスに対する、信仰と知識において、一つとなることが、大切である、と言っています。

そのことにおいて、成熟することが、大切なのだ、と言っているのです。

教会は、皆が、主イエスに対して、一つの信仰を持った時に、初めて教会となるのです。

信仰の一致がなくて、ただ集まっているのであれば、それは、同好会のような、クラブと同じです。教会には、様々な考えや、様々な個性を、持った人たちが集まります。

しかし、主イエスを信じる信仰においては、一致していなければなりません。その信仰を、皆が、一つとなって、告白した時に、初めて教会になるのです。

また、主イエスを知る、知識においても、一致することが、必要です。

主イエスを知るといっても、それは、頭だけで、勉強することではありません。

主イエスに関することを、色々と勉強して、知識として蓄えることではありません。

いくら、主イエスのことを勉強して、知識として蓄えても、それで本当に、主イエスを知っている、ということにはなりません。

例えば、私のことを、知識として、一番良く知っているのは、恐らく、私をチェックした、人間ドックの医師でしょう。しかし、彼は、私という人間の、人格については、全く知りません。

主イエスを知る、ということは、主イエスを、人格的に知る、ということです。

知識として、主イエスを知るのではなく、主イエスの御心を知る、ということです。

言い換えれば、主イエスの心を、自分自身の心とすることです。

教会員が、皆、主イエスの心を、自分の心とするならば、教会は必ず一致します。

分裂や争いが、起こる筈はありません。皆が、主イエスにあって、まことに一つとされます。

そのように、主イエスの心を、自らの心とする人こそが、成熟した人間なのです。

私たちは、そのようにして、キリストの、満ちあふれる豊かさに与って、成長することを、目指していくのです。それが、私たちの目標なのです。

成熟した人間とは、単に、年を取ることではありません。それは、霊的に成長した人間のことです。いつも、主イエスの御心を尋ねつつ、自分の行動を、決定していく者のことです。

ある人が、「キリストの目的は、この世に、キリストの民を、生み出すことであった」、と言っています。そうであるなら、キリストの体である、教会の目的も、キリストを映し出す人を、生み出すことにある、と言えると思います。

クリミア戦争の最中、敵味方なく、負傷兵を看護し、後に、国際赤十字の、シンボル的な存在になった、フローレンス・ナイティンゲールという人がいます。

ある夜遅く、彼女は、野戦病院の病棟に立ち寄り、重傷の兵士たちを、見舞いました。

その時、負傷兵は彼女を見上げて、「あなたは、私にとってキリストです」と言ったそうです。

「キリストが、その中に生きている人」。そのような人を、生み出すことが、教会の目的です。

そのように成熟した者となるために、御言葉は、私たちに、勧めています。

14節、15節です。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」

この御言葉は、2千年の時を経た、現在でも、そのまま、私たちに、活き活きと語りかけてくる、素晴らしい言葉です。

私たちは、未熟なために、嵐の中を航海する舟のように、この世の風に、引き回されそうになることがあります。また、悪賢い人たちの、悪巧みに、迷わされそうになります。

どうしたら、そのようなことから、自分を守ることが、出来るでしょうか。

様々な、間違った教えの風に、引き回されることなく、また、悪賢い人たちの、悪巧みに、迷わされないための鍵。それは、愛と真理に生きることです。

「愛に根ざして、真理を語る」、とあります。

教会にとっても、また一人一人の信仰生活にとっても、最も大切なことは、愛と真理です。

愛と真理において、バランスの取れた、成長を続けることです。

愛と真理。どちらも、主イエスの本質です。ですから、愛と真理において、成長するとは、主イエスに向かって、成長していく、ということです。

教会における真理とは、福音と言い換えても、良いと思います。

「愛に根ざして、真理を語る。つまり福音を語る」。このバランスが、大切です。

教会を生かす真理は、愛によってでなければ、成長しません。また、人に対して、語ることも出来ないのです。いくら熱心に、福音を語っても、愛がなければ、伝わりません。

長年、名古屋で働いた、アメリカ人の婦人宣教師は、ある時、求道者からこういわれました。

「あなたたちは、熱心に、キリスト教を、勧めてくれるけれども、ちっとも私を愛してくれないではないですか。私のことを、伝道の対象としてしか、見てくれないではないですか。私は、もっと愛して欲しいのです」。この言葉に、婦人宣教師は、打ちのめされました。

頭を、ハンマーで殴れたような、衝撃を受けたのです。彼女は、心から、悔い改めて、「愛に根ざして、真理を語る」人へと、造り替えられたそうです。

皆さん、私たち、茅ヶ崎恵泉教会は、どうでしょうか。愛に根差して、福音の真理を語っているでしょうか。「私たちの教会は、愛に根差しています」、と確信を持って言えたなら、本当に幸いだと思います。

「私たちの教会には、愛が満ち溢れています」と言えたなら、何と素晴らしいことでしょうか。

しかし、教会において、愛が高らかに語られているのに、実際には、「教会に愛がない」、と言われることがあります。

それは、ある意味では、当然です。私たちの内には、主イエスが示してくださったような、愛はないのです。先週、教えられたような、アガペーの愛を、私たちは、持っていません。

ですから、「教会に愛がない」、と言われることも、残念ながら、実際にはあり得るのです。

しかし、「愛がない」、と言われたときに、「はい、その通りです。私には、愛がないのです。私は、愛の欠けた人間です。どうか、私のために祈ってください」、と言うことができたなら、その人の中で、愛は、確実に成長していきます。

逆に、「いや、何を言うのか。私には愛がある」、と反論している時、その人の中で、愛は、縮小していきます。

更に、「そういうあなたこそ、愛がないではないか」、と言って、相手を裁いているとき、私たちは、絶望的に、愛から遠く離れています。

しかし皆さん、私たちの、欠けだらけの愛が、主によって集められ、お互いの欠けを、補い合って、教会全体として、より大きな愛へと、成長していくなら、それは素晴らしいことです。

欠けだらけの愛が、呼び集められ、補い合って、成長していくこと。それが、教会の目指す目標なのです。

先ほど、「私たちの教会は、愛に根差しています」、と言えたなら、幸いだと申しました。

「私たちの教会には、愛が満ち溢れています」、と言えたなら、素晴らしいとも言いました。

しかし、実際は、このように言うべきなのでしょう。

「私たち、一人一人には、愛が足りません。私たち、一人一人は、愛に欠けた者です。

しかし、教会の頭である、主イエスには、愛が満ち満ちています。

教会は、その主イエスの体なのです。ですから、教会は、皆で、欠けを補い合いながら、主イエスの愛に向かって、成長していくことを、目指しているのです。」

このことを、パウロは、16節で語っています。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」

不完全な私たちが、キリストの体の、節々として、組み合わされて、お互いに補い合って、それぞれの務めをなしていくなら、教会には、キリストの愛が、満ち溢れます。

そして、その時、教会には、人が満ち溢れることになると思います。

なぜなら、すべての人は、愛を求めているからです。

愛する兄弟姉妹。そのような教会を目指して、共に歩んで行こうではありませんか。

主イエスという、一人の指揮者に導かれて、聖書という、一つの楽譜に従って、愛のハーモニーを奏でる教会を目指して、歩んで行きましょう。

一人一人が、精一杯の音色で演奏しつつ、共に成長させられてまいりましょう。