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柏牧師:過去の礼拝説教

「あなたの名を呼ぶ主の御声」

2016年06月26日 聖書:ヨハネによる福音書 10:1~6

エフェソの信徒への手紙を読み終わり、またヨハネによる福音書に、戻ってまいりました。

今朝は、10章1節~6節までの御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

10章の中心的なメッセージは、11節と14節に繰り返されている、「わたしはよい羊飼いである」、という主イエスのお言葉です。

主イエスは、ご自身を、「よい羊飼いである」、と宣言されました。

当時のユダヤでは、羊飼いが、羊を飼っている光景は、ごく普通に、見られました。

当然、主イエスご自身も、羊を飼う人たちの姿を、よく見ておられました。

ここで主イエスが、譬えに用いておられるのは、そのような、日常の光景です。

主イエスは、人々の日常生活の中から、このような、身近な譬えを、引き出されるのが、とても、お上手でした。

この地方では、羊が飛び越えられない高さに、石垣などを積み上げて、囲いを作っていました。これは、羊が、夜、眠るところです。

夜になると、羊飼いは、羊をその囲いの中に入れます。囲いの門の所には、門番がいて、羊が寝ている間、番をしていました。

今朝の御言葉からも分かりますが、囲いの中にいる羊の全部が、一人の羊飼いによって、飼われていた訳では、ありませんでした。羊は、いくつかの群れに、分かれていて、それぞれの群れに、一人ずつ羊飼いが、付いていたのです。

朝になると、羊飼いが、囲いにやって来ます。羊飼いは、門番と顔見知りですから、門番は羊飼いのために、門を開けます。ですから、この門から入らずに、囲いを乗り越えて、忍び込んで来るのは、盗人や強盗なのです。

この羊という動物は、大変弱い、生き物だそうです。身を守るものは、何も持っていません。

目が弱くて、遠くの敵を、目ざとく、見つけることが出来ません。足も遅く、襲われても逃げることができません。また、鋭い牙や爪など、敵を攻撃するものも、全く身に付けていません。

ですから、羊飼いが導いてくれなければ、生きていけない、弱い動物です。

そのため、耳だけは、とても良くて、自分の羊飼いの声を、ちゃんと聞き分けるそうです。

ある人が、シリアを旅行していた時、三人の羊飼いが、羊に水を飲ませているところに、居合わせました。それぞれの羊が、混じり合っていました。

その内の一人の羊飼いが、「メナー」(アラビア語で「ついてきなさい」)と言うと、たちまち30頭ばかりが集まりました。

次にもう一人が、「メナー(ついてきなさい)」と言うと、今度は40頭ほどが、従っていきました。旅人は驚いて、三人目の羊飼いに、「もし私がメナーと呼んだら、君の羊はついてくるだろうか」、と尋ねました。羊飼いは、笑いながら、首を振りました。

しかし、旅人は、それを確かめたくなりました。彼は、羊飼いの服とターバンを身にまとって、「メナー(ついてきなさい)」と呼んでみました。しかし、羊は見向きもしませんでした。

4節に、「羊はその声を知っているので、ついて行く」、と書かれていますが、その通りのことが、起こったのです。

今朝の譬えで、羊飼いというのは、主イエスです。そして、羊というのは、私たちのことです。私たちも、この羊のように、主イエスという、良い羊飼いの声を、しっかりと聞き分け、迷わず、ついて行く者でありたいと、改めて願わされます。

今朝の御言葉の前の、9章には、生まれながらに、目の見えなかった人が、主イエスによって、癒されたという、奇跡が記されていました。

癒された男の人は、主イエスに、敵対する人々によって、宗教裁判にかけられた後に、追放されてしまいます。追放された後に、この人は、主イエスに出会います。

でも、目が見えるようになってからは、一度も主イエスに、会っていませんでした。ですから、目の前にいる方が、主イエスだとは、分かりませんでした。

そこで、主イエスの方から、「あなたを癒したのは、この私だ」、とご自身を示されたのです。

すると、この人は、直ぐに、「主よ、信じます」と言って、主イエスの足元に、跪きました。

主イエスが、一言「私だ」と、仰っただけで、直ぐに「信じます」、と言って跪いたのです。

主イエスのお声を、たった一言、聞いただけで、信じたのです。

恐らく、この人は、心の中で、主イエスのお声を、ずっと、聞き続けていたのだと思います。

「この人が、目が見えないのは、両親が悪いのでもなく、この人が悪いのでもない。神様の御業が、この人に現れるためなのだ」。そう言われた、主イエスのお声。

愛に満ちた、そのお声が、ずっと心の内で、聞こえていたのだと思います。

繰り返して、そのお声を、想い起していたのです。ですから、たった一言でも、「あっ、これは、主イエスのお声だ」と、分かったのです。

私たちも、この人のように、主イエスのお声を、はっきりと、聞き分けられる者で、ありたいと思います。

私たちの心には、私たちを誘惑する、様々な声が、聞こえてきます。

しかし、日頃から、主イエスという羊飼いが、語り掛けてくださる声に、聞き慣れているなら、他の声に、惑わされることはありません。

私たちは、やがて、天国に行った時、主イエスのお声を、直接聞くことになると思います。

その時、「聞き慣れない声ですね。失礼ですが、どちら様でしょうか」、などと尋ねてしまって、主イエスを、悲しませることがないように、したいと思います。

「主よ、聞き慣れたお声でしたから、直ぐに分かりました」と、喜んで応えられる者でありたい、と思います。そして、主イエスから、「私の声を聞き分けてくれて、ありがとう」、という喜びのお声を、聞かせて頂きたいと思うのです。

当時、ユダヤの羊飼いは、自分の羊をよく知っていて、名前まで付けていたようです。

例えば、「耳長君」とか、「丸顔ちゃん」とかいうような、名前を付けていたようです。

羊飼いは、その名前を呼んで、囲いの外に連れ出します。

そして、群の先頭に立って、羊を牧草地へと、導いて行きます。私たちも、主イエスに、一人一人、名前を覚えられています。名前を呼ばれて、導かれています。

先程も、「一人一人、主に名前を呼ばれて、この礼拝に招かれました」、と申しました。

そう言いますと、中には、「そんなこと信じられない。だって、世界には、何十億という人がいるのに、そのすべての人の名前を、主イエスが、ご存知だなんて、信じられない」、という人が、おられると思います。

もし、私たちが、私たちと同じ、人間の延長線上に、神様を置いているなら、そういう疑問が生じると思います。しかし、主イエスは、私たちの、延長線上に、おられるのではありません。全く、別の次元におられる神様です。無から、有を造り出されるお方。それが神様です。

ですから、私たちと、神様との関係は、1対何十億ではないのです。

いつも、1対1なのです。1対1の関係が、何十億組とあるのです。

私たちは、何十億分の一、として主イエスに、覚えられているのではありません。

かけがえのない、1対1の存在として、名前を覚えられているのです。

ですから、主は、「私の目には、あなたは高価で尊い」、と言ってくださるのです。

そして、失われた一匹のために、どこまでも、探し求められるのです。

羊が、一匹、一匹、名前を呼ばれて、導かれて行く。主イエスは、そんな光景を、何度も、見ておられたと思います。

そんな時、主イエスは、恐らく、旧約聖書のある御言葉を、思い起こしていたのではないか、と思います。それは、エゼキエル書の34章の御言葉です。

エゼキエル書34章には、悪い牧者たちによって、間違った養われ方をしている、羊について、このように書かれています。

神様は、ご自身の羊を、牧者に託された。イスラエルという羊を、国の指導者たちに、託されたのです。ところが、その牧者たちは、羊を養うことをせずに、自分たちの利益のみを求め、羊たちを、食い物にしました。

羊たちを、権力をもって支配し、過酷な目に遭わせたのです。

そのため、飼う者のない羊たちは、散らされ、さ迷い、獣の餌食となってしまいました。

散り散りになった、羊をご覧になって、神様は、深く悲しまれました。

そして、悪い牧者たちに、立ち向かわれる、決心をされます。もはや、悪い牧者たちに、羊を任せることをせず、ご自身で、散らされた羊を、探し出し、養われることを、決心されます。

エゼキエル書34章16節で、神様は言われています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。

このエゼキエル書に語られている、父なる神様の御心を、どのように実現していくか。

主イエスは、そのことを、いつも、ご自身に、問い掛けておられたと思います。

主イエスの時代のユダヤも、指導者たちが、悪い牧者となって、人々を支配していました。

主イエスは、それを見ておられました。そして、「群衆が、飼い主のいない、羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」のです。

「深く憐れまれた」という言葉は、もともとは、「はらわた」を、意味する言葉です。

主イエスは、はらわたを痛める思いを持って、打ちひしがれている、人々のことを、憐れまれたのです。

私たちは、このような、良き羊飼いとしての、主イエスのお姿は、理解できます。

しかし、ここに、ちょっと理解しにくい、不思議なことが、書かれています。

6節の御言葉です。「イエスはこのたとえを、ファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が、何のことか分からなかった」。

ファリサイ派の人たちは、この譬えが、何を意味するのか、分からなかった、というのです。

ここに、わざわざ、「ファリサイ派の人々に話された」、と書いてあります。主イエスは、他の誰でもなく、ファリサイ派の人々に向かって、直接、語られたのです。

それにも拘らず、分からなかった、というのです。一体何が、分からなかったのでしょうか。

譬え話の内容は、簡単です。ファリサイ派の人々も、日常のこととして、羊飼いたちの姿を見ていました。主イエスから、そんな話を聞かなくても、羊飼いたちが、どのようにして、羊を養っているか。それを良く知っていました。それなら何が、分からなかったのでしょうか。

その話が、この自分と、どんな関係があるのか。それが、分からなかったのです。

主イエスは、この譬え話で、ファリサイ派の人々に、何を語ろうとされていたのでしょうか。

そして、彼らは、どうしてそれが、分からなかったのでしょうか。

先程も申しましたが、10章は、9章の出来事の、続きとして、語られています。

9章には、目が見えなかった人が、癒された奇跡が、記されています。その癒しの業が、安息日に行なわれたため、この人は、宗教裁判にかけられました。

ファリサイ派の人々は、「お前を癒した、あのイエスを、否定しろ」。「あのイエスが、特別な存在だ、などと言うな」、と責め立てたのです。

でも、その男の人は、「そんなことはできない、あの方こそ、神から来られた方だ」、と言って、一歩も譲りませんでした。その結果、その人は、ユダヤ人社会から、追放されてしまったのです。このことを、こう言い換えても、良いと思います。

この男の人は、「よき羊飼い」、「まことの羊飼い」である、主イエスの声を、聞き分けることが出来た。そして、私は、このお方について行きます、と言ったのです。

でも、その男の人を、ファリサイ派の人々は、追放しました。

それを、4節の、主イエスのお言葉で言うと、こういうことになります。「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」。

お前たちは、この男を、追放した。しかし、実際は、この男が、お前たちから逃げたのだ。

なぜ逃げたのか。お前たちが、まことの羊飼いではないと、分かったからだ。

お前たちは、本当は、この民を養うべき、羊飼いであった筈だ。しかし、実際は、そうではなかった。ここで、主イエスは、ファリサイ派の人々のことを、門から入らずに、囲いを乗り越えてくる、盗人や強盗である、と言っておられるのです。

あなた方が、この男の人にとって、良い羊飼いに、なっていない。だから、私はこの人を、あなた方から取り上げ、私自身がこの人を、養うのだ。

この人も、私が良い羊飼いである、と知っている。私の声を、知っている。

だから、私について来たのだ。あなたがたから逃げて、私について来たのだ。

主イエスは、そう言われているのです。

「羊はその声を知っている」、「羊はその声を聞き分ける」、主イエスは、3節でも4節でも、その言葉を繰り返しておられます。この言葉に、主イエスの、お心が籠められています。

週報の【牧師室より】にも、書かせていただきましたが、今日、6月26日は、ホーリネス教会の、弾圧記念日です。弾圧によって、投獄された牧師たちは、暗い牢の中で、語りかけてくださる、主イエスの御声を聞いて、励まされ、厳しい状況に、耐えることができたのです。

ちょうど同じ頃、ヒトラー率いるナチスが、ドイツを席巻し、ヒトラーは、聖書が語る、神の言葉よりも、自分の言葉に、聞き従うように、教会に圧力をかけてきました。

これに、対抗した「告白教会」、と呼ばれるグループは、バルメンという町の教会に集まって、声明を発表しました。この声明が「バルメン宣言」と呼ばれるものです。

この宣言は、六つのテーゼから成っていますが、その第一テーゼの冒頭に、今朝の御言葉、10章1節が、引用されています。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」。

この御言葉に続いて、更に、言っています。

「わたしたちのために、聖書において証しされている、わたしたちの主イエス・キリストこそ、わたしたちが聞くべく、また生きているときにも死ぬときにも、信頼し、従うべき唯一の神の言葉である」。とても単純明解ですが、しかしとても感動的な言葉です。

このバルメン宣言が、はっきりと、告げているように、主イエスの御言葉こそが、生きているときにも、死ぬときにも、信頼すべき唯一の言葉、神の言葉なのです。

いつの時代にも、どのような状況においても、私たちが帰るべき所は、ここです。ここだけです。ここ以外にはありません。この確信に立ち続けたいと思います。

主イエスは、自分の羊が、盗人や強盗に、襲われているのを見て、お心を痛めておられます。羊を取り戻すために、命懸けで戦っておられます。

ご自分の羊を、強盗や盗人から、取り返すために、戦ってくださっているのです。

偽りの声で、誘おうとする者たちから、私たちを、神の羊・神の子として、取り戻すために、主イエスは、命を捨ててくださいました。

私たちが、どんな時にも、ひたすら見るべきものは、この主イエスのお姿です。

私たちが、どんな時にも、ひたすらに、聞いていかなくてはならないのは、この主イエスの御声です。私たちは、その主イエスの御姿を見、主イエスの御声を、正しく聞き取ることを、日々努めていくのです。

名前を呼んでくださる、主イエスの御声を、聴き洩らすことなく、先頭に立って進んで行かれる、主イエスの後に、従って行くのです。

主イエスは、必ず、私たちを、緑の牧場、憩いの汀へと、導いてくださいます。