「群衆を受け入れる主の謙遜」
2016年08月28日 聖書:ヨハネによる福音書 12:12~19
皆さんは、「サイリウム」、という光る棒を、ご存知でしょうか。コンサートやライブで、聴衆が手に持って振る、ペンライトのような、光る棒のことを、サイリウムというそうです。
私の、中学・高校時代のラグビー部の仲間で、「バラが咲いた」というヒット曲を歌った、マイク・真木という人がいます。数年前、デビュー50周年記念のリサイタルをするから、ぜひ来てほしい、と真木から頼まれました。
もはや、自分は、過去の人、歴史上の人物になっていて、あまりお客さんは来ないと思うから、昔の仲間に協力して欲しい、というのです。
そこで、かつてのラグビー仲間が、こぞって、前の方の席に陣取って、声援を送りました。
そのコンサートの中で、サイリウムが配られたのです。普通は、コンサート会場で、購入するものらしいのですが、この時は、ただで配られました。
そんなものは、初めて手にしたので、皆、勝手が分からずに、ただじっと持っていました。
コンサートも、たけなわになった時、たまりかねた真木が、ステージの上から、言いました。
「みんな、手に持っているものを、振ってくださいよ。持っているだけでは、何にもならないじゃないですか。普通は、お金を出して買うのを、こちらでわざわざ用意して、ただで配ったのだから、ちゃんと振ってくださいよ」。
そう言われて、「あー、そうだった」と気付いて、一生懸命に振りました。
そうしたら、また、真木が、大きな声で言いました。「もう、飛行場に、見送りに来たんじゃないんだから、バイバイするように、そんなに小刻みに、振らないで、もっと曲に合わせて、振ってくださいよ。」
慣れないと、ペンライトを振るのも、上手くできないものだと、初めて知りました。
若い人を見ると、ごく自然に、ペンライトを振って、歌手を応援しています。
人を、応援したり、喝采したりする時には、何かを振る、ということは、昔からされていたようです。何かを振って、その人を、応援する。これは、昔も今も変わりません。
主イエスが、最後に、エルサレムに入城された時、群集は、手にナツメヤシの枝を持って、それを振って、主イエスを迎えました。
これは、ユダヤ最大の祭りである、過ぎ越しの祭りの、直前の出来事でした。
この祭りには、ユダヤだけではなく、全世界に散らされていた、ユダヤ人たちが、エルサレムに巡礼に来ました。ですから、それはもう、大変な混雑でした。
そのような、大勢の巡礼者の群れが、主イエスを迎えたのです。この日は、イースターの一週間前の、日曜日でした。
ナツメヤシの枝に因んで、教会は、この日を、「棕櫚の主日」と呼んで、大切にしています。
遠くから来た巡礼者は、様々な危険を乗り越えて、やっと憧れのエルサレムに着いた所でした。祭り独特の雰囲気も手伝って、恐らく、彼らは、興奮状態にあったと思います。
更に、あの噂の主イエスが、エルサレムに来られると聞いて、彼らの興奮は、一層高まりました。なぜなら、彼らは、主イエスが、ラザロを、生き返らせたという奇蹟を、既に聞いていたからです。
17節以下に、このように書かれています。
「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」。
ここには、二種類の、群衆がいました。一つは、エルサレムと、その周辺に、住んでいる人たち。もう一つは、はるばるエルサレム訪ねて、旅をしてきた巡礼者たちです。
エルサレムと、その周辺に、住んでいる人たちは、主イエスが、ベタニアで、ラザロを墓から呼び出したということを、聞いていた人たちです。実際に、ラザロを見た人も、いたでしょう。
彼らは、そのことを、興奮をもって、エルサレムに来た、巡礼たちに、話しました。
そこで、この二つの群れが、一つになります。一つの、大きな興奮になります。
この光景を見て、ファリサイ派の人々が、19節で、諦めの言葉を、語っています。
「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
何をしても、駄目だった、という諦めの言葉で、今朝の御言葉は、終わっています。
主イエスの、輝かしい勝利であるかのような、書き方です。
しかし、皆さん、どうでしょうか。私たちは、この記事を、素直に読むことができるでしょうか。むしろ、複雑な気持ちに、なるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書は、群衆が、喜んで、主イエスを迎えたことを、強調しています。
人々が、ナツメヤシの枝を振って、迎えたことを、強調しています。
しかも、13節にある、「迎えに出た」、という言葉。そして、18節の「イエスを出迎えた」、という言葉。これら二つの言葉は、王を迎える時に、用いられる、特別な言葉なのです。
人々は、主イエスを、王として迎えた、というのです。
そうであればあるほど、私たちの気持ちは、ますます、複雑になっていきます。
なぜかと言いますと、この時、主イエスを迎えた群衆が、この後、すぐに、主イエスを、十字架につけろ、と叫び始めることを、私たちは知っているからです。
「世を挙げて主イエスの後について行った」、とファリサイ派の人々が、嘆いたほどに、多くの群衆が、歓喜して、主イエスを迎えました。王として、主イエスを迎えました。
しかし、この後、ファリサイ派の人々が、主イエスを、十字架につけようとした時、この人たちが、体を張って、自分たちの王を、守ったとは、どこにも書いてありません。
私たちは、その事を知っています。ですから、この群衆の心を、初めから疑って、読んでしまいます。人間とは、何ともいい加減なものだ。およそ群集心理とは、そういうものだ。
そういう思いを、抱きながら、この箇所を、読んでしまいます。
しかし、ここで、私たちが、注目しなければ、ならないのは、群衆の心ではありません。
そうではなくて、そんな群衆に対する、主イエスのお心です。主イエスは、どのような思いで、この群衆の歓迎を、受けられたのでしょうか。
群衆は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」、と叫びました。そして、ここでは、主イエスは、この歓迎を、受け入れておられます。
これは、それまでの、主イエスのお姿とは、まるで違います。
たとえば、主イエスが、五つのパンと、二匹の魚で、五千人の男性を、養った時。あの時も、興奮した人々は、主イエスを、自分たちの王にしようと、押し寄せました。
それを見て、主イエスは、「ひとりでまた山に退かれた」と、御言葉は記しています。
このパンの奇蹟に、興奮した時の、群衆の心理と、エルサレム入城を、出迎えた時の、群衆の心理は、よく似ています。
それならば、ここでも、主イエスは、さっさと退いて、もう一度、ベタニア村に、引き籠ってもよかったのです。その方が、主イエスらしいのです。
でも、ここでは、そうしておられません。なぜでしょうか。
その答えを探る前に、主イエスが、ろばの子に、乗られたことの、意味について、考えてみたいと思います。
主イエスは、王として、入城されました。しかし、この王が乗られたのは、大きな馬ではありませんでした。王が、力を誇示するために、乗るような、名馬ではありませんでした。
ろばの子を見つけて、お乗りになったのです。何故、ろばの子であったのでしょうか。
それは15節で引用されている、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の言葉が、説明しています。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」。
主イエスは、王として、来られました。しかし、権力を誇示しながら、軍馬に乗って、入城されたのではなく、預言者ゼカリヤの言葉のように、ろばの子に乗って、入られました。
ろばは、戦争の役には立ちません。平和な日常生活の中で、荷物を運んだり、畑を耕すために、用いられた家畜です。
主エスが、軍馬ではなくて、ろばの子に乗って、入城されたということは、主イエスがもたらされる、神の国は、戦争によって、実現するのではなく、人々が、まことの神様に、立ち返ることによって、実現する。そのことを、示しています。
ろばの子に、乗られたということは、この王の、柔和さと、低さを、強調しています。
ろばは、体に相応しくないほどの、重い荷物を、運ぶことができる動物です。
大丈夫かと思うほどの、重荷に耐えて、ろばは、黙々として、荷を運びます。
また、大きな人が乗ると、足が地面についてしまうほど、背が低いのです。子ろばが、なぜ救い主の、乗り物に選ばれたのでしょうか。それは、その柔和さと、低さの故です。
子ろばこそが、柔和で、低くされた、救い主を運ぶのに、相応しいからです。
かつて、カトリック教会の、エルサレムの大司教は、棕櫚の主日には、ろばの子に乗って、街を練り歩いたそうです。
しかし、ろばの子に、桶や樽を背負わせて、それに、ごみや残飯を投げ込み、街の外に、捨てに行かせるのを見た、教会の人たちが言いました。
ごみを運ぶのと、同じろばの子に、大司教を乗せるのは、あまりにも、可哀そうだ。
大司教が、ごみと同じ扱いをされるのは、見るに忍びない。この教会の声によって、大司教が、子ろばに乗って、町を練り歩く行事は、中止となったそうです。
しかし、私たちの主は、自ら進んで、その子ろばに、乗られたのです。私たちの主とは、そういうお方なのです。主イエスは、子ろばに乗られて、エルサレムに入られました。
それは、十字架への道を、進まれるためでした。
主イエスが、担って歩まれた、十字架の重さを、一体、誰が知り得たでしょうか。負いがたい重荷を、負いながらも、尚も、主イエスは、ご自分を、「柔和で謙遜な者」とされたのです。
十字架は、勇敢な戦士が、担うものではありません。十字架は、人をどこまでも愛する、神ご自身だけが、負うことができるものなのです。
主イエスは、私たちの罪を、負われました。でも私たちは、自分の罪の重さを、知りません。
知ることができません。それを、本当に知っておられるのは、主イエスだけです。
私たちの罪の重さは、主イエスが担われた、十字架の重さでしか、計ることができないのです。私の罪を負ってくださるために、神の御子の十字架という、とてつもなく大きな犠牲が、必要だった。私の罪の重さと、釣り合う重さは、主イエスの十字架の重さしかない。
その重荷を、主が負ってくださった。私たちの罪の、一つひとつが、主の肩に、ずっしりと喰い込む、重荷となったのです。
そして、主は、これを、柔和な心と、謙遜をもって、黙って、担ってくださったのです。
この後、主イエスは、「顔に唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、あるいは平手で打たれて」嘲りを、受けられます。徹底的に傷つけられます。徹底的に低くされます。
そして、その低さは、十字架において、完成されるのです。
人々から見れば、滑稽とさえ見えた、子ろばに乗っての、エルサレム入城。それは、十字架を目指すものでした。主イエスは、その使命を目指して、ひたすらに進んでいかれました。
使命とは、命を使うと書きます。主イエスは、十字架というご自分の使命にために、文字通り「命を使われた」のです。
さて、群集は、そのような主イエスの使命を、全く理解しないまま、主イエスを、歓呼の声をもって迎えました。9節の御言葉です。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に。」
この歓喜の叫びをもって、主イエスを迎えた人々が、それから数日後に、王として迎えた、主イエスの顔に、唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打ち、嘲り罵る群衆となったのです。
私たちは、そのことを、知っています。ですから、この時の群衆の、歓喜の声を、複雑な思いをもって、読まざるを得ません。
では、主イエスご自身は、この群衆の歓迎を、どのように受け止めて、おられたのでしょうか。「愚かな者たちよ、お前たちは、何も分かっていない。お前たちは、今は、王として、私を、迎えているが、数日後には、私を十字架にかけようとするのだ。お前たちは、それ程に、無知なのだ。だから、そんな、うわべだけの、歓迎の叫びなど、止めて欲しい」。
そういう、冷ややかな思いをもって、群衆を見つめておられたのでしょうか。
そうではありません。主イエスは、この群衆が、罪ある人間の、集まりであることを、見抜いておられました。
この人たちによって、自分は、十字架にかけられて、殺される、ということをも、見抜いておられました。
そうであっても、主イエスは、この歓迎の言葉を、拒否されることは、なさらなかったのです。分からずに叫んでいる、群衆の声を、受け入れておられるのです。
「そうか、あなた方は、最後まで、私を理解できずにいるのか。誤解したままでいるのか。
それで良い。それで良いのだ。私は、そのようなあなた方のために、十字架にかかるのだ。
私を理解できずに、やがて殺そうとする。そんな、あなた方のために、私は、十字架にかかるのだ。そのための道を、私は、今、進んでいるのだ。低くなって、限りなく低くなって、進んでいるのだ。」
主イエスは、そういう思いを持って、子ろばに乗られ、低い姿勢になって、この歓迎を、お受けになられたのです。
この時、子ろばに乗られた、主イエスは、周りの群集よりも、実際に低かったのです。
そして、この後、主イエスは、更に、低くなって行かれます。十字架は、その低さの極致です。最も、罪深い罪人に対する、処刑の場。それが十字架です。これ以上、低い所はありません。主イエスは、その究極の低さに向かって、進まれているのです。
そして、それに相応しく、子ろばに乗られたのです。
何も分かっていない、私たちが、主イエスの顔に、唾を吐きかけ、こぶしで殴り、嘲った。
そのことさえも、主は、許してくださいました。私の様な者が、主イエスを、平手で打ち、嘲った。それをも、主は、受け入れてくださいました。何故でしょうか。
このような私にも、尚も、望みを置いていて、くださっているからです。
必ずこの人は、自分のところに、帰ってくると、望みを置いて、くださっているからです。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」。
私たちは、この群衆の、歌を聞いても、本気で歌っているとは、思いません。
この歌は、偽りの叫びだ、と捉えます。私たちは、この群衆を、信頼しません。この群衆に、望みを置きません。
しかし、神様は違うのです。神様は、私たち人間を、それでも信頼し、尚も、望みを置いて、くださっているのです。
神様が、これほどまでに、期待してくださっているのに、人間は、その期待を、裏切り続けています。本当に、救い難い者です。しかし、そんな私たちに、尚も、聞こえてくる主イエスの御言葉があります。
「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているか分からずにいるのです」。
私たちは、この主イエスの、執り成しによって、初めて救われます。
この主イエスこそが、まことの救い主です。私たちは、このお方に、心から「ホサナ」、と叫びたいと思います。
この「ホサナ」、という言葉は、もともとは、「どうぞ、救ってください」、という意味の言葉です。
しかし、段々と、その意味が薄くなり、「万歳」、というような意味で、使われることが、多くなっていきました。
そうであったとしても、この言葉は、救い主をお迎えするのに、最も相応しい言葉です。
なぜなら、救い主をお迎えするのに、最も相応しい言葉は、「救ってください」、という言葉だからです。
私たちは、教師に対しては、「教えてください」、と頼みます。医者に対しては、「治してください」、と願います。そうであれば、救い主に対しては、「救ってください」、と叫びます。
「棕櫚の主日」の出来事。それは、2千年前の、一回だけの出来事ではありません。日々、新しく、私たちを、救い主へと、導く出来事なのです。
私たちを救うために、どこまでも低くなられ、無知と誤解の叫びの中を、黙々として、進まれた、主イエスに対して、私たちも叫んで良いのです。
「救い主、イエス様、私を救ってください。何も分からない私を、どうか救ってください」。
このように、叫ぶことが、許されていることを、心から感謝したいと思います。