「光に生きるか、闇にとどまるか」
2016年09月25日 聖書:ヨハネによる福音書 12:44~50
今日の箇所の冒頭に、「イエスは叫んで、こう言われた」、という言葉が、記されています。
主イエスは、叫ばれたのです。福音書で、主イエスは、6回叫ばれています。
その内の4回は、マタイ、マルコ、ルカの福音書に、記されている、十字架での、叫びです。
「我が神、我が神、なぜわたしを、お見捨てになったのですか」、という叫び。
そして、「父よ、わたしの霊を、御手にゆだねます」という、最後の叫びです。
私たちを、罪から贖い出すために、主イエスが、代わって苦しまれた。その時の叫びです。
ヨハネによる福音書にも、主イエスの叫びが、二ヶ所で、記されています。しかし、それらは、十字架での叫び、ではありません。
一つは、ラザロの、墓の前での叫び。「ラザロ、出てきなさい。」
そして、もう一つが、今朝の御言葉です。
これら六つの叫びには、滅びの死へと向かう、私たちを、何とかして、救い出したい、という主イエスの、熱意が、込められています。
私たちを、何としてでも、救いたいという、主イエスの、激しい思いが、このような叫びを、生み出しているのです。
主イエスは、そこまで熱心で、いてくださいました。そこまで真剣で、いてくださったのです。
今も、私たちの、救いのために、叫ばずにいられないほど、主イエスは、熱心でいて、くださるのです。私たちは、この主イエスの、熱心さによって、救われているのです。
この朝、そのことを、今一度覚えて、感謝を、新たにしたいと思います。
主イエスは、そのような熱い思いをもって、語られました。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」。
ここでは、「見る」という言葉と、「信じる」という言葉が、同じ目的で、用いられています。
ですから、ここで言う、「見る」というのは、ただ眺めて、主イエスの存在を、認める、ということではありません。その人の、本来の姿を、正しく見る、ということです。
実際に、主イエスを、目で見ていながら、そのまことのお姿を、見ていなかった人が、多くいたのです。いえ、殆どの人が、そうだったのです。
主エスを見た時に、その背後に、主イエスを遣わされた、父なる神様を見る。
いえ、それをも越えて、主イエスご自身の中に、神そのものを見て、信じる。
そのような、眼差しを、持つことは、決して、簡単なことではありません。
しかし、主イエスは、私たちが、更に、もう一歩先に、進むことを、望まれておられます。
主イエスという、お方の中に、神様を見て、信じる。それは素晴らしいことだ。
しかし、更に、そのことをも越えて、たとえ肉の目で、見なくても、御言葉を聴いて、心の目で主イエスを見て、信じる。それは、もっと幸いなことなのだ。
主イエスは、私たちが、その幸いに、生きることを、望んでおられます。
復活の主は、トマスに言われました。「見ないで信じる者は、幸いである」と。
主イエスは、私たちが、見ないで信じる幸いに、生きることを、望んでおられるのです。
私たちは、今、主イエスを、肉の目をもって、見ることはできません。
しかし、私たちには、御言葉が、与えられています。そして、御言葉を通して、主イエスを、心の目で見て、信じる幸いに、生かされています。
それこそが、最も幸いな生き方である、と主イエスは、言われたのです。
ペトロの手紙一の1章8節に、このような御言葉があります。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。
これは、使徒ペトロが、激しい迫害の中にいる、アジア州の諸教会に、送った言葉です。
ここで、ペトロは、驚いています。ショックを受けている、と言っても良いと思います。
何故でしょうか。主イエスを、見たことが無い人たちが、主イエスを信じており、言葉に言い尽くせないほどの、喜びに、満ち溢れているからです。
ペトロは、主イエスの、一番近くにいて、主イエスを、毎日、見ていました。主イエスと、生活を共にしていました。主イエスの御言葉を、毎日、聞いていました。
それにも拘らず、主イエスが、捕えられた時に、ペトロは、逃げてしまったのです。
ところが、アジア州の教会の人たちは、主イエスを、見たことが無いのに、主イエスを信じ、激しい迫害の中にあっても、喜びに満ち溢れているのです。
何という幸いに、生きているのだろうか。ペトロは、それを見て、驚いているのです。
主イエスが語られた、幸いとは、このような幸いです。主イエスを、肉の目で見て、その中に、しっかりと、神を見ることができる者は、幸いである。
しかし、それにも増して、たとえ肉の目で、主イエスを、見ることが出来なくても、御言葉を通して、主イエスを、心の内に見て、信じることが出来るなら、その人は、更に幸いである。
主イエスは、そう仰っています。私たちも、そのような幸いに、生かされたいと思います。
主イエスは、言われました。私を信じるとは、私のまことの姿を、正しく、見ることだ。
そして、私のまことの姿を、見たなら、あなた方は、私を受け入れざるを、得ない筈だ。
なぜなら、私を遣わされた、父なる神様の御姿が、そこに、見える筈だからだ。
主イエスは、このことを、大切なこととして、語られました。
ですから、叫んで言われたのです。なぜ、これが、大切なのでしょうか。
46節で、主イエスは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」、と言われています。
「私を見るということは、わたしを光として見ることなのだ。そして、私を、光として見たなら、あなた方は、暗闇から、光の中に移るのだ」。
ここでも、主イエスというお方は、人間を、否応なしに、二つに分けて、しまわれます。
主イエスに出会って、闇から光に移るか、それとも闇の中に、留まり続けるか。
二つに分けて、しまわれるのです。私たちどうでしょうか。
私たちは、ともすると、「光と闇」の、いずれかに徹して生きる、という選択を、ためらってしまう傾向が、あるではないでしょうか。
「あなたは光の子ですか」、と問われると、はっきりと、「はい、そうです」と、言い切れない。
「それなら、あなたは、闇の子なのですね」、と言われと、「とんでもない、光の子ではないけれども、だからと言って、闇の子ではない」、と反発します。
要するに、闇でもなく、光でもなく、闇と光が、混じり合って、いるよう者である。
自分を、そのように、捉えていることは、ないでしょうか。それでいい、と思っているのでは、ないでしょうか。日本人は、特に、そのような、曖昧さを、中庸の徳として、好みます。
しかし、神様の御前に、立った時、私たちの姿は、光か闇かの、どちらかなのです。
主イエスのお言葉を、光として受け入れるか。それとも、主イエスのお言葉を、拒んで、闇に留まるか。その、どちらかなのです。
あなたは、そのどちらを、選びますか。それが、ここで、問われているのです。
主イエスは、私たちの心の中に、暗い部分、影の部分があることを、私たち以上に、ご存知です。その上で、私の光の中に来なさい、と言われているのです。
あなたの影の部分も、暗いところも、すべて、私の光の中に、さらけ出しなさい。
覆い隠しているのでなく、私の光に照らされなさい。その時、あなたの闇は、取り去られる。私の光の中で、闇は光となる。なぜなら、あなたの闇は、すべて、この私が、代わって負っているのだから。私は、そのために、来たのだ。主イエスは、そう言われているのです。
インドの孤児院に、路上生活をしていた、一人の男の子が、連れて来られました。
その子は、どんな時にも、左の手を、ギューっと握り締めていて、決して開こうとしません。
施設の人たちが、不思議に思って、その子が、深く眠っている時、強引に、その手をこじ開けました。すると、その手の中には、干からびた、小さな肉片があったのです。
孤児院には、食べ物が、いっぱいあって、もう何の心配も、いらないのです。それなのに、その子は、この小さな肉片だけは、誰にも渡さないと、ずっと握り締めていたのです。
この子の愚かさを、私たちは、笑えるでしょうか。この子の姿は、私たちと重なります。
神様は、私たちのことを、私たち以上に、ご存知なのです。
それなのに、私たちは、心の中の、一番暗い部分、一番醜い部分は、神様にも、打ち明けようとしません。神様にも、さらけ出しません。
そのように、神様の前でも、愚かにも、自分を装ってしまいます。
そんな、私たちに、主イエスは、言われています。あなたのすべてを、私の光の中に、さらけ出してご覧なさい。
「私は、あの人が愛せない。あの人のことを赦せない。誘惑の力に、勝つことができない」。そんな醜い部分を、すべてさらけ出して、祈ってごらんなさい。私の光を信じて、祈ってごらんなさい。
その時、あなたの闇は、すべて、私が代って負って、十字架についたことが、分かるようになる。そして、その時、あなたは、闇から、光に移されるのだ、
あなたは、闇に囚われたままで、あってはいけない。私の光の中に、来なさい。
主イエスは、熱い思いをもって、叫んでおられるのです。
先ほど、私たちの心の中には、影の部分、暗い部分がある、と申しました。
その最も暗い部分。それは、憎しみに、捕らわれている部分、ではないでしょうか。
憎しみを越える道。憎しみに勝つ力。それは、赦しです。愛から生じる、真実の赦しです。
そのことを示す、一つのエピソードがあります。
ドイツのベルリンの南に、大きな墓地が、あるそうです。1946年、第二次世界大戦が終わった翌年、その墓地で、一人の男が、毎日、黙々と、働いていました。
ベルリンでの、激しい戦いで、多くのドイツ兵が、命を失いました。
とにかく早く、片付けなければならない、というので、兵士たちの死体は、纏めて、その墓地に、埋葬されました。
この人は、土の中に、葬られている遺体を、一人一人、掘り起こして、その体に付いている認識票を調べて、身元を明らかにしていきました。
身元が分かると、近親者に連絡をとって、改めて、新しい墓を作って葬る。
いつ終るとも、知れないような、困難な仕事を、この人は一人で、黙々と続けたのです。
実は、その人は、戦争中、ナチスの強制収容所に入れられていた、ユダヤ系のクリスチャンでした。
なぜ、あなたのような人が、こういう仕事に、力を入れるのですか、と尋ねられたとき、この人はこう答えました。「何としてでも、私は、憎しみを、葬らなければなりません」。
憎らしい敵を葬る、というのでは、ないのです。誰かの憎しみを、葬るのでも、ないのです。
自分の中にある、憎しみを葬るために、この愛の業を、しなければならない。その人は、そう言ったのです。憎しみは、自分で墓を作って、入る訳ではありません。
また、時が経てば、消え去る、というようなものでも、ありません。時と共に、却って、憎しみが増す、ということさえ、あり得ます。
憎しみを葬る、唯一の力は、愛です。愛の業のみから、憎しみを越える、赦しが生まれるのです。そして、その愛は、外から来るのです。私たちの内には、ありません。
外から、主イエスの光から、来るのです。主イエスは、憎しみが渦巻く、心の闇から出て、私の愛の中に来なさい。私の光の中に来なさい、と言っておられます。
私を見て、私を信じて、私の光の中に、入りなさい。闇の中に、留まっていてはならない。
私の光の中に入る時、あなたは、大いなる祝福に、生きることが出来る。
その、大いなる祝福のことを、主イエスは、こう言われています。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」。
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。
これは、本当に、驚くべき言葉です。
私たちは、主イエスのお言葉を、守ることができません。主イエスのお言葉を、実行できません。でも、そんな、私たちのことを、主イエスは、裁かない、と言われるのです。
裁かないどころか、救ってくださる、と言われているのです。
一体、これは、どういうことでしょうか。ここで、想い起されるのは、主イエスが、山上の説教の、締め括りで、語られたお言葉です。
主イエスは、山上の説教の中で、大変厳しいことを、教えられました。
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい。
決して復讐してはならない。情欲を抱いて、女性を見てはならない。人を裁いてはならない。
このような、厳しい教えを、語られた後で、主イエスは、最後に言われました。
これらの教えを聞いて、それを行う者は、岩の上に、家を建てた者であり、聞くだけで、行わない者は、砂の上に、家を建てた者である。
この言葉は、私たちを、途方に暮れさせます。とてつもなく、大きなチャレンジとして、私たちに、のしかかってきます。
厳しい教えを聞いた後で、「あなたはこれを行いますか」、と問われているのです。
行うなら、岩の上に、家を建てた者だが、行わないなら、砂の上に、家を建てた者だ、と言われているのです。
皆さんも、この御言葉を、知っておられると思います。皆さんは、ここを読んで、どのように思われたでしょうか。
ご自分は、岩の上に、家を建てた者であると、思われたでしょうか。それとも、砂の上に、家を建てた者であると、思われたでしょうか。
立ち止まって、聖書全体の、メッセージを、想い起した時、ここで、示されることがあります。
それは、「行う」ということ、英語の「do」は、「できる」ということ、英語の「can」とは違う、ということです。
主イエスが、「しなさい」と、言われているのですから、行わなければなりません。
でも、この山上の説教を、割り引くことなく、本気で行おうと、一歩踏み出す時、私たちは、如何に、それができないかを、思い知らされます。
地面に足を、ベタッと付けて、一歩も動こうとしない時、私たちは、引力の力が、分かりません。しかし、少しでも、地面から足を離して、飛び上がろうとすると、引力は、凄まじい力で、私たちを、地面に引き戻します。
同じように、この御言葉を、行おうとしないなら、サタンの力は、分かりません。
しかし、行おうとして、一歩踏み出す時、私たちを引き戻す、サタンの恐ろしい力が、良く分かります。そして、自分の罪の深さを、思い知らされます。
その時、本当に、十字架の赦しが、なくてはならないものとして、自分に迫って来るのです。
「主イエスの十字架、我が為なり」と、心から告白する者と、されるのです。
岩の上に、家を建てるとは、この十字架の救いを、土台とした、生き方のことです。
私たちは、主イエスの御言葉を、行おうとしても、出来ないのです。守りたいと願っても、守ることが、出来ないのです。
そのような私たちを、赦し、救うために、主イエスは、十字架にかかってくださったのです。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」。
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。
この御言葉は、私たちにとって、何物にも優る、かけがえのない、救いの言葉です。
尊い真珠にも優る、私たちの宝です。
しかし、この救いの御言葉を、受け入れようとしない者が、いるのです。
そのような人たちについて、主イエスは、言われています。
「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。
ここで、主イエスの叫びは、更に高くなっています。どうか、私の言葉を、受け入れて欲しい。私の救いを、受け取って欲しい。あなた方は、断じて滅んではならない。救われなければならない。あなた方すべてが、救われて、永遠の命に、生きることが、父なる神様の御心なのだ。そして、それが、私の願いなのだ。主イエスの、命懸けの、叫びが、聞こえてきます。
今朝の箇所で、主イエスは、まことに熱心です。熱意を込めて語っておられます。
私たちも、この主イエスの、熱意に応えて、精一杯の真実をもって、生きることが求められています。そこに、光が見えて来ます。私たちは、その光の中に、招かれているのです。
そのことを、真剣に、熱心に、受け止めていきたいと、願わされます。