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過去の礼拝説教

「聡明な子に育てる秘訣」

2016年11月13日 聖書:コロサイの信徒への手紙 2:1~5

アメリカのある神学校に、マーティーという名前の、女性がいました。

ある時、マーティーは、神学校の礼拝で、こんな証しをしました。

生後8ヶ月の時です。彼女の父親が、彼女の母親を、銃殺してしまう、という悲劇に見舞われました。幼かった彼女は、母方の親戚に、引き取られ、そこで育てられました。

母方の親戚からは、あなたのお父さんが、お母さんを殺したのよ、と何度も言われました。

この出来事は、彼女の心の中の、暗い影として、ずっと重くのしかかっていました。

彼女は後に、クリスチャンになりましたが、誰にも、自分の父親のことは、言いませんでした。いえ、言えなかったのです。

やがて彼女は、伝道者になりなさい、という神様の声を聞いて、神学校に進みました。

そして、その神学校で、素晴しい男性と出会い、結婚することになりました。

結婚式の、招待状を書いているときに、神様が、彼女に語りかけられました。

父親の親戚にも、招待状を送りなさい、と言うのです。

しかし、それは、とても難しいことでした。なぜなら、物心ついてからこのかた、一切、コンタクトがなかったからです。名前も、顔も、住所も分かりません。

でも、色々と尋ねて、やっと招待状を、出すことができました。

結婚式の当日に、父方の親戚に、初めて会いました。

その中に、おばあちゃんがいました。おばあちゃんはクリスチャンでした。

おばあちゃんは、「マーティー、わたしは、あなたのために、ずっと祈り続けてきたのよ」と言って、涙を流して、抱きしめてくれました。

それから、数日後に、彼女は、父親に会いに、牢獄に行きました。そこで、父親に、許しの言葉を、優しく語ることができたのです。彼女は、証しの最後に、こう言いました。

「私は殺人犯の娘です。でも、今は、王の王、主の主である、イエス様の子供となりました。

私はなぜ、父親の罪のために、苦しまなくては、ならないのか。それは分かりません。

しかし、知っているのは、イエス様が、私のために、傷を負ってくださったことです。

その傷によって、私の心の傷が癒されました。私は、これまで負ってきた、恥や、悲しみから、解放されたのです。主に感謝します。」

マーティーは、知らない所で、会ったことのないおばあさんから、祈られていたのです。

ずっと、祈られていたのです。

しかし、おばあさんにとって、会ったことのない、孫のために、祈り続けることは、決して、容易いことではなかったと思います。

しかも、20年以上も、ずっと祈り続けることは、大きな労苦であり、闘いであったと思います。マーティーの、幸せな結婚の背後には、会ったことのないおばあさんの、祈りの労苦、祈りの闘いがあったのです。

これは、私たちにも、当てはまることです。翻ってみた時、私たちも、多くの人たちの祈りに、支えられていたことを、思わされます。

私たちが救われた時、私たちは、自分で求め、自分で決心し、自分で申し出て、洗礼を受けた、と思っているかもしれません。

しかし、私一人が救われるために、多くの方々の、祈りの労苦、祈りの闘いがあったことを、私たちは、忘れてはならないと思います。

また、今、洗礼を受けることを、考えておられる方々も、多くの人たちが、そのために祈っていてくださることを、どうか、覚えて頂きたいと思います。

今朝の御言葉で、使徒パウロは、未だ会ったことのない、すべての人たちのために、労苦し、闘っている、と言っています。まだ会ったことのない、人たちのために働く。それだけなら、必ずしも、珍しいことではありません。

困難の中にいる、遠方の人たち。例えば、東日本大震災や、熊本地震の被災者の方々。

そういう人たち。まだ会ったことのない、人たちのために働く。それはよくあることです。

しかし、ここにある「闘っている」、という言葉は、もともとは、運動競技に使う言葉なのです。

運動競技の選手が、厳しく鍛錬するように闘う、という意味の言葉です。

マラソンの選手は、わざわざ、空気の薄い高地で、厳しいトレーニングをします。

少しでも記録を伸ばすために、自分を、極限まで追い込んで、鍛えています。

それと同じ言葉が、ここで、使われているのです。そのように、厳しい労苦、激しい闘いを、会ったことのない、人たちのためにしている、とパウロは言っているのです。

このコロサイの信徒への手紙は、パウロが、コロサイにある教会の、信徒たちに向けて、書いたものです。

コロサイの教会も、また、そのすぐ隣の、ラオディキアの教会も、パウロ自身が建てた、教会ではありません。パウロの弟子の、エパフラスが建てた教会です。

しかし、誰が建てたかに関りなく、パウロは、すべての人たちの、救いのために、労苦し、闘っている、と言っています。ただ祈っている、だけではなくて、苦闘している、というのです。

この手紙は、パウロが、牢獄から書いたものだと、言われています。

キリストを、宣べ伝えたために、捕らえられ、牢に入れられていたのです。大変な労苦と、闘いの中にいたのです。

パウロは、そのことを分かってほしい、と語り掛けています。あなたがたの救いのために、どれほど労苦し、闘っているか。そのことを、分かってほしい、と言っているのです。

私は、この言葉を、最初に読んだ時、「ちょっと浅ましいのではないか」、と思いました。

「私の苦労を、分かってよ」なんて、パウロらしくない、とも感じました。

もっとも、かく言う私たちも、自分が、人のために、こんなに苦労している。頑張っている。

そのことに気づいてほしい。分かってほしい。しばしば、そんな気持に囚われます。

本当に小さなことでも、私たちは、分かって貰いたいのです。認めて貰いたいのです。

例えば、家内が留守をしている間に、食器を洗っておいた。或いは、洗濯物を取り込んで、畳んでおいた。そんなに度々は、しないのですけれど、たまにしたとします。

帰ってきたときに、「ありがとう」、と言って欲しいのです。できれば、大袈裟に驚いてほしいのです。褒めてくれないのは、ちょっと寂しいのです。

では、パウロも、自分の労苦を、褒めてほしくて、こう言っているのでしょうか。

パウロも人間ですから、そういう気持があったとしても、不思議ではありません。

けれども、ここでパウロが、「分かってほしい」、と言っているのは、自分を褒めてもらいたい、からではありません。コロサイの教会の、信徒たちのためなのです。

あのパウロ先生が、自分たちのために、あんなに労苦し、闘っている。

そのことに、気づくことによって、コロサイの信徒たちが、自分たちの信仰や、教会への思いを、より一層、深くするように、と願っているのです。

2節にあるように、心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられて、キリストを悟るように、なるためなのです。

そのための、私の労苦なのです。だから、どうか、それが無駄にならないように、して欲しい。パウロは、このことを、伝えたかったのです。

この2節には、教会にとって、最も大切なことが、凝縮して語られています。

教会にとって、最も大切なこと。それは、教会員が、お互いに、励まし合い、愛によって結ばれ、豊かにキリストを悟ることです。これに尽きます。

そのような教会であれば、必ず、豊かに恵まれ、力強く前進していきます。

ここにある「励ます」という言葉は、もともとは、「そばに呼ぶ」という意味の言葉で、他の箇所では、「慰める」とも訳されています。ですから、ここでも、[慰める]と訳しても、良いのです。

励ましと、慰めは、一つのことなのです。いえ、一つでなければならないのです。

慰めを伴わない、励ましは、しばしば、プレッシャーとなってしまいます。

立ち上がれない人に向かって、尚も、「立ち上がりなさい」、というのは、励ましではありません。それは、その人にとっては、辛い重荷になってしまいます。

ある時、最も愛情深い子どもを選ぶ、コンクールが開かれました。

そのコンクールで優勝したのは、4才の男の子でした。その子の家の隣には、最近、最愛の、奥さんを亡くした、お年寄りが住んでいました。その子は、泣いている男の人を見て、その人の膝の上に座りました。その子がしたことは、それだけでした。

ママが、「その人を慰めるために、何をしたの」と聞くと、その子は、こう答えたのです。

「なんにも。ただ、泣くのを、手伝っただけだよ。」

この子のように、悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣く、ということは大切です。

静かに寄り添うことが、まことの慰めとなります。

主イエスは、救いを求めてきた人に、度々、「立ち上がって、歩きなさい」、と言われました。

でも、その時、必ず、「安心しなさい。あなたの罪は赦されました」、というお言葉を、添えておられます。励ましと共に、慰めの言葉を、与えられているのです。

弱った者を、無理やり立たせて、空手で行かせようとは、されませんでした。

立ち上がるための、慰めを、同時に与えておられます。この主イエスのお姿が、私たちのお手本です。慰めが伴っていなくては、まことの励ましにはなりません。

また一方、慰めにも、励ましが、伴わなければ、ならないでしょう。

気休めに過ぎない、慰めで、終ってはいけないのです。

共に泣くことは、大切です。でも、いつまでも泣き続けているだけでは、いけないのです。

最後は、喜ぶ者と共に、喜べるようになることを、目指していかなくては、なりません。

復活された主イエスは、落ち込んでいる弟子たちを、慰めて言われました。「私は、世の終わりまで、あなた方と共にいる。だから、あなた方は、どんな時にも、決して一人ではない」。

そして、また同時に、言われました。「だから、あなた方は、出て行って、すべての人々を、

私の弟子にしなさい」。これは、励ましの言葉です。慰めの後で、励ましています。

このことについても、主イエスが、私たちのお手本です。

そのように、励まし合い、慰め合うためには、お互いが、愛によって結び合わされていなければなりません。

愛がなければ、慰めも、励ましも、空しくなります。真実に、人を生かしません。

教会は、そのように、励まし合い、慰め合い、愛によって結ばれることを、目指して歩む群れなのです。

では、何のために、愛をもって、励まし合い、慰め合いながら、歩むのでしょうか。

御言葉は言っています。それは、「神の秘められた計画である、キリストを悟るため」です。

教会は、「イエス・キリストを悟ること」を、目的として、歩んでいるのです。

御言葉は、その主イエスのことを、神様の秘められた計画である、と言っています。

ガリラヤの田舎から出て来た、一介のユダヤ人が、ローマ帝国によって、死刑の判決を受け、十字架につけられて、殺された。

主イエスの時代には、ローマ帝国によって、十字架につけられた人は、数多くいました。

ですから、人類全体の歴史から見ると、それは、小さな出来事に過ぎません。

しかし、十字架にかかられたのは、実は、私たちを造ってくださった、神ご自身であった。

創造主である神が、私たちの罪を、すべてを負って、私たちに代って死んでくださった。

その死によって、私たちの罪が、赦され、永遠の命の希望に、生きる道が、開かれた。

これは、私たちの、思いを遥かに超えた、壮大なる、神様のご計画です。

まさに、秘められたご計画です。教会の、すべての業は、この神様の秘められたご計画である、主イエスを、悟ることを目的としています。

この神様の秘められたご計画を、悟るのには、高等教育や、難しい学問は、必要ありません。必要とされるのは、御言葉を、素直に受け入れ、心から祈ることです。

ですから、無学な人も、大学教授以上に、キリストの知識に、富むことができるのです。

あるアメリカの教会に、小学校しか出ていない老婦人が、転入したいと、願い出ました。

その教会は、とてもプライドの高い教会で、いわゆる知識人が、多く集まっていました。

ですから、この無学な老婦人に、冷たく接しました。

転入のための、役員面接が行われました。役員の一人が、彼女に尋ねました。

「転入したら、あなたは、この教会のために、どんな貢献ができますか」。

婦人が答えました。「私は、毎晩、寝る時に、その日の新聞を持って、ベッドに入ります」。

役員が、腹立たしく、尋ねました。「一体それが、何の役に立つのですか」。

「はい、私は、まず、死亡通知の欄を見て、ご遺族にために、慰めを、祈ります。

次に、誕生通知を見て、赤ちゃんが、健やかに育つようにと、ご両親にために祈ります。

最後に、結婚通知を見て、祝福された、幸せなご家庭が、築かれますようにと、祈ります。」

この教会は、この老婦人によって、全く変えられたそうです。愛によって、互いに励まし合い、慰め合う教会へと、変えられていったのです。祈ることを通して、キリストを知ったからです。

キリストを悟るとは、御言葉と祈りを通して、キリストの内に、隠されている、宝を発見することです。その宝には、人生について、一番大切な、知恵と知識が、収められています。

ですから、私たちは、この宝を、一人でも多くの人に、分け与えたいと、願うのです。

特に、愛する家族に、とりわけ子供たちが、この宝を、しっかりと握り締めてもらいたい、と願います。

私たちは、子供たちが、聡明な子に、育ってほしいと願います。それは、単に、勉強ができて、いい成績を取って欲しい、ということではないと思います。

幸せで、実り豊かな、人生を生きるために、必要な知恵と知識を、身に付けて欲しい、ということだと思います。

御言葉は、言っています。もし、心からそう願うなら、そのような知恵と知識の宝が、隠されている、主イエスを伝えなさい。主イエスのことを、証ししている、聖書を教えなさい。

昔から、そのことを、真剣に願った、親たちが、多くいました。

アメリカの16代大統領、アブラハム・リンカーン。リンカーンの母のナンシーは、リンカーンが10歳の時に、天に召されました。

彼女は、召される前に、リンカーンを枕元に呼んで、聖書一冊を与えて、こう言いました。

「私は、あなたが百万エーカーの大地主になるよりも、この聖書をよく読み、聖書に生きる人と、なってくれることを望みます」。

リンカーンは、この母の遺言を守り、聖書を愛読しました。そして、大統領になった時、「私の、今日あるのは、母の遺言のお蔭です」、と感謝の言葉を、述べたそうです。

母親だけでは、不公平ですので、父親の願いも、紹介します。

旧約聖書の学者で、また詩人でもあった、松田明三郎先生は、嫁ぎゆく娘さんに、父親として与えることが出来る、最高のプレゼントを、詩に託して、こう詠っています。

『娘よ、調度品の目録の劈頭に/ 一、聖書/ とパパは書くよ。/ これは鏡台などに先立つものだ。/ 鏡はそなたの姿をうつくしくしてくれるが/ 聖書はそなたの魂を/ うつくしくしてくれるばかりでなく/ その昔、嫁ぎゆく日に/ 夫の危篤の日を思いつつ/ 鏡台のひきだしの奥深く/ 秘かにしまっておいたという 人の黄金よりも/ そのまじりなき黄金よりも尊いものだ。』

嫁ぎゆく娘さんの、幸せを祈る時、真っ先に心に浮かんだこと。それは、娘さんが、これからも聖書を大切にし、信仰に生きていって欲しい、ということだったのです。

これさえあれば、お前は、幸せに生きられるのだよ。だから、これを、何よりも大切にして、生きていって欲しい。これは、父親の信仰を、娘に押し付ける、ということとは、違います。

娘に、最も大切なものを、与えたいと願う、父親の切なる気持ちです。

ただ、娘さんの幸せだけを、心から祈る。そんな父親の思いが、込められた、愛の詩です。

今日、クリスチャンホームにあっても、このようなことを、はっきりと言う親が、少なくなってきているのではないかと思います。

子供の幸せにとって、何が一番大切か。それを、はっきりと言うことが出来る、クリスチャンの親が、少なくなってきているのではないでしょか。

もし、そうであれば、私たちは、もう一度、御言葉の素晴らしさ、御言葉の価値、御言葉の力を、自らも改めて知り、そして、それを子供たちに、はっきりと伝えることが出来る、親にならせていただきたいと願います。

『知恵と知識の宝は、すべて、キリストの内に、隠されています。』

このキリストを悟らせることこそが、聡明な子供に、育てる秘訣なのです。