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柏牧師:過去の礼拝説教

「今や、それは芽生えている ー2016年元旦礼拝説教」

2016年01月01日 聖書:イザヤ書 43章16~20節

新しい年、2016年を迎え、その最初の日の朝に、主に招かれて、こうして、皆さんと共に、礼拝を献げられる恵みを、心から感謝いたします。

新しい年を、先ず神様の御前に跪き、御言葉に聴き、主を賛美することから、始められることは、何よりの幸いです。

この年も、何はともあれ、礼拝を誠実に守ることを、大切にしていきたいと思います。

そして、今年度の主題聖句のように、ひたすらに祈る日々を、重ねていきたいと願います。

さて、お正月には、何もかもが、新しくなったような、新鮮な気分に満たされます。

日の光も、胸に吸い込む空気も、昨日と変わらない筈なのに、何故か違って感じられます。

しかし、残念なことに、この新鮮な気分も、数日のうちに、薄れていき、やがて、元の木阿弥。また、同じことの繰り返しのような、毎日に戻ってしまいます。

そのことを嘆いた人がいます。旧約聖書に登場するコヘレト、集会で語る知恵者です。

コヘレトは、言っています。所詮、人間のすることは、過去の繰り返しで、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」。延々と、同じことを繰り返す。これが人間の営みなのだ。

旧約聖書のコヘレトの言葉には、そのような嘆きが、繰り返して語られています。

でも、果たしてそうなのでしょうか。

皆さん、今朝の御言葉は、そうではないと言っています。

イザヤ書43章19節は、こう言っています。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」

神様は、新しいことを行われる、と言っているのです。そして、それは、もう芽生えている、というのです。あなた方には、それが見えないのですか、と問い掛けています。

神様は、延々と、同じことの繰り返しのような、人間の営みの中に、新しいことをなされる。

御言葉は、そう言っているのです。

そうであるなら、私たちは、その神様の御業を、見させていただきたい、と願います。

せっかく、新しい年を迎えたのですから、今年こそ、「今や、芽生えている」、神様の御業を、見させていただきたいものです。

神様の御業は、人間の営みと同じではありません。それは単なる繰り返しではありません。

天地を創造された神様は、御業をたゆみなく、前に向かって、進めておられます。

しかし、残念なことに、私たちは、それを、なかなか見つけることが出来ないのです。

ですから、いくら努力しても、現実は何も変らない。いくら祈っても、空しい。

思わず、そう呟いてしまうのです。

しかし、神様は、「新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」、と力強く言われています。それは、もう、芽生えているのです。

未だ、球根が、土の中で、眠っているのではなくて、芽生えている、というのです。

そうであるなら、その神様の御業を、見逃さないように、しっかりと見つめていきたいと思います。

現実は、何も変わらないように見えるかもしれません。ても、私たちは、目を未来に向けていきたいと思います。

昨年一年間を振り返っても、現実の世界は、どこに、神様の御業が、なされたのか、見出し難いような、世の中でした。

世界各地で、残虐なテロが行われ、多くの尊い命が奪われました。また、シリアやウクライナの内戦でも、たくさんの犠牲者が出ました。

難民の急増も、ヨーロッパに、深刻な社会不安をもたらしました。

国内では、洪水や火山の噴火などの自然災害によって、大きな被害が出ました。

隣国との緊張が高まり、多くの人が不安を感じました。

また、安全保障関連法案を巡って、意見が対立し、人々の間に、不信感が増しました。

そういう現実をみると、神様がおられるなんて、信じられない、と多くの人々は言います。

しかし、私たちは、この現実の只中にあっても、神様が、今、この時にも、確かにいてくださる。確かに、御業をなしてくださっている、と信じていくのです。

芽生えている神様の御業を、探し求めていく。それが、私たちに、与えられた信仰です。

この世の中には、困難な問題があり、痛ましい不幸があり、納得できない不条理がある。

だから、神様なんていない。これが、多くの人々の、結論です。

でも、そうではない。その中にも、神様は、確かにおられ、働いておられる。今も、きっと御業を、なしておられる。そう信じて、神様の御業を、見出していくのが、信仰です。

人のピンチは、神のチャンスであることを、信じていくのです。

東日本大震災が起こってから、間もなく5年が経とうとしています。

福島第一原発から、一番近い教会と言われた、福島第一聖書バプテスト教会の、信徒の方々は、あの大惨事にあって、本当に、命の危険と隣り合わせの、毎日を送りました。

何一つ持たずに、飢えと寒さの中を、転々と、流浪の逃避行を続けました。

そういう未曾有の困難の中で、彼らは、もう神などいない。神など信じない、と言ったでしょうか。いえ、そうではないのです。

彼らは、口々に、「今ほど、神様を、身近に感じたことはない。神様は素晴らしい。

これからは、もっともっと、神様を信じていきたい」、と告白していたのです。

彼らは、目の前にある、困難な現実ではなく、これからなされるであろう、神様の御業に、目を向けていたのです。

目には、さやかに見えなくても、今、芽生えている、御業を信じて、期待していたのです。

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」。この御言葉を、自分のものとして、握っていたのです。

さて、皆さんお一人お一人にとって、昨年は、どのような年で、あったでしょうか。

辛いこと、苦しいこと、悲しいことを、経験なさった方も、おられると思います。

私たちは、悲しいことや、辛いことを経験すると、どうしても心が、内向きになりがちです。

「あぁ、あの時こうすればよかった」、「あんなことしなければよかった」と、後悔の思いで、心が一杯になります。また、昔の良かった時のことを思い出し、その思い出に浸ることによって、今の苦しさや、悲しさを、忘れようとすることもあります。

しかし、いくら昔のことを、懐かしんでも、過去に戻ることは、できません。

ですから、過去を見つめるだけでは、何も問題は、解決しません。過去の思い出に、浸るだけでは、この今という時を、大切に生きることは、できないのです。

先程、読みました、イザヤ書43章18節で、預言者は、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」、と語っています。

預言者か語っている、「初めからのこと」、「昔のこと」というのは、かつてエジプトの奴隷であった、イスラエルの民が、神様の御手によって、エジプトから解放された出来事を意味しています。「出エジプト」と呼ばれている、出来事のことです。

16節、17節の御言葉は、神様が、エジプトの軍隊を、紅海で滅ぼしたことを、想い起させています。「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。」

イスラエルの民は、エジプトを出る際に、驚くべき神様の御業を見たのです。

モーセが手を挙げた時に、あの紅海が分かれました。そして、その分かれた、海の底を、彼らは歩いて向こう岸に渡りました。

彼らが渡り終わった後に、水は戻ってきて、エジプトの軍隊が、戦車もろとも、海の藻くずとなって、消え去ったのです。

イスラエルの民にとって、この「出エジプト」の出来事は、彼らの信仰の原点でした。

心の拠り所でした。ですから、彼らは、どんな時も、この「出エジプト」の出来事を忘れず、いつも、その出来事を心に留めて、子供や孫たちにも、伝えていったのです。

この素晴らしい、神様の御業。勿論、そのことは、感謝をもって、想い起します。

けれども、今朝の御言葉は、そのことを想い起すよりも、もっと大切なことは、これから行われる、神様の御業を見ることだ、と言っているのです。

神様は、イスラエルの民に、新しいことを、行なおうとしておられるのです。そして、今や、それは芽生えているのです。それに気付いて欲しい。そのことを、悟って欲しい。

神様は、そう呼びかけておられるのです。

このイザヤ書43章が、書かれた時代というのは、イスラエルが、バビロン帝国によって滅ぼされ、多くの民がバビロンに、強制的に、連行されていた頃のことです。

そのような苦難の中で、人々は、かつてエジプトの奴隷から、救われた時のことや、ダビデ王やソロモン王の頃の、繁栄した時代を懐かしみ、昔のことを、思い巡らしていたのです。

それによって、国を失い、異国の地にある、苦しみを忘れ、心に慰めを見出していたのです。もちろん、神様がなさったことを忘れず、いつも感謝することは、大切です。

しかし、過去の恵みが、いくら大きくても、過去のことだけに、目を奪われてしまって、神様が、今、自分に為さろうとしていることに、気づかないようではいけないのです。

いつまでも、過去の恵みだけに、縋っていては、いけないのです。

昨日の恵みではなく、今日の恵み、明日の恵みに、生かされなければ、いけないのです。

電話を発明した、アレキサンダー・グラハム・ベルが、このように言っています。

「ひとつのドアが閉まると、もうひとつのドアが開きます。 しかし、私たちは閉まってしまったドアをずっと長い間、とても残念そうに見続けるので、私たちのために新しいドアがすでに開いていることに気づかないのです。」

この言葉は、ベルと親しい交わりがあった、へレン・ケラーが、好んで引用したため、へレン・ケラーの言葉として、知られていることが多いのですが、元々は、ベルの言葉です。

以前の部屋が、どんなに素晴らしくても、ドアが閉まってしまっては、もう戻れません。

それなのに、その閉まってしまったドアを、残念がって、いつまでも眺め続けていると、私たちは、新しく開かれたドアに気付かないのです。

目を、転じて、もう一つのドア、新しく開かれたドアを、見ることが大切なのです。

過去の恵みを、感謝すると共に、今、神様が、自分にしてくださっていること、これから自分に為そうとしておられることに、しっかりと、目を向けることが、大切なのです。

神様は、あの時、イスラエルの民を、エジプトから救われたように、今度は、バビロンからも、救い出そうと、されているのです。

出エジプトは、まことに大きな、出来事でした。しかし、神様は、それをも忘れさせるほど、大きな、新しい事を、行うのだ、と言われています。

それは、荒野に道を開き、砂漠に大河を流れさせて、イスラエルの民を、祖国に導いてくださる、ということです。「荒野」に道を設け、「砂漠」に大河を流す。

ある人は、これは、紅海の水を、二つに分けるよりも、偉大な業だ、と言っています。

砂漠を歩く時には、水の問題が、一番深刻な問題です。神様は、その砂漠に、大河流れさせて、イスラエルの民に、飲ませてくださるのです。

このような、驚くべき事を見て、野の獣、山犬や、駝鳥も、神様を崇めるようになる、というのです。山犬は、荒野の狂暴な動物です。駝鳥は、自分が産んだ卵を踏みつけ、子供の面倒も見ない、愚かな動物です。

実は、これらの動物は、私たちを、象徴しているのです。私たちは、そのように、粗野で、愚かな存在なのです。

しかし神様が、そんな私たちのために、荒野に道を開き、行くべき道を、整えてくださるのです。砂漠に大河を流れさせ、その水を飲ませてくださるのです。

そのようにして、神様を崇め、褒め称える者としてくださるのです。神様の栄光を、顕わす者としてくださるのです。なんという素晴らしい約束でしょうか。

このイザヤの預言が語られた時、イスラエルの民の目には、新しいことが起こるとは、思えない状態でした。

彼らの目の前には、砂漠があり、荒れ野状態でした。荒れ野に道が敷かれることなどあり得ない状態でした。砂漠に水が湧き、大河が流れるなど、起こりえない状態でした。

そんな状態の人々に対して、神様は、語られたのです。

「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」。

皆さん。今朝、神様は、私たちの教会に対しても、「見よ、新しいことをわたしは行う」、と語り掛けてくださっている、と信じましょう。

今や、それは芽生えている と語り掛けてくださっている、と信じましょう。

私たちは、昔のことを、懐かしみ、今を、嘆きやすい者です。

昔は、教会学校に、100人を超える子供たちが集まった。

昔は、ご婦人方が、朝早くから集まって、食事を作り、愛餐会を楽しく行った。

昔は、皆で、遠くにハイキングに行った。泊りがけの修養会もして、楽しかった。

確かに、昔は、そのような恵みが、与えられていました。それは、本当に感謝なことです。

その恵みに感謝することを、忘れてはいけないと思います。

しかし、茅ヶ崎恵泉教会は、もはや、恵みから落ちてしまっているのでしょうか。

もう、神様の恵みは、以前ほど、注がれなくなって、しまったのでしょうか。

そんなことは、無い筈です。神様は、必ず、新たな恵みを、用意してくださっている筈です。

新しいことを行おうとされている筈です。そして、それは、既に、芽生えているのです。

皆さん、新しく与えられたこの年、私たちは、神様が、茅ヶ崎恵泉教会に用意されている、新しい恵みを、共に探してまいりましょう。

神様が、この茅ヶ崎恵泉教会に、これから咲かせようとしておられる、花のつぼみを、草木の芽を、ご一緒に、見出しましょう。

喜びと、期待を持って、主がなされる、新しいことに、応えてまいりましょう。

神様は、道を造られる方です。御心ならば、新会堂への道も、主が造ってくださると信じます。皆さんの人生に対しても同じです。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

皆さんの人生にも、今年、新しいことが起こると信じましょう。

年を取って、昔のように、動けなくなったかもしれません。昔は、あれもした、これもした。

でも今は、何もできない、と残念に思われることが、多いかもしれません。

しかし、神様は、新しいドアを、開けてくださっています。若いときには出来なかったことが、今ならできる。そのようなことが、必ず見つかります。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

この御言葉を、この朝、主が与えてくださった、恵みの約束として、握り締めていきましょう。

神様は過去の神ではなく、現在の神です。未来を備えてくださるお方です。

神様は昨日の神ではなく、今日の神様であり、明日を備えてくださるお方です。

昨年一年、色々なことがありました。私たちは、その全てを覚え、神様に感謝します。

しかし神様は、この新しい年も、私たちに新しいことをしてくださいます。私たちは信仰の目を持って、しっかりとそれを受け止め、前を向いて歩んで行きたいと思います。

神様が、新しい事をしてくださいます。そして、もうそれは芽生えています。

この教会において芽生えています、そして皆さん、お一人お一人の、人生において、芽生えています。皆さんのご家庭にも、芽生えています。

この年、皆さんの心の中に、命の川の水が流れ始めます。皆さんのご家庭の中にも、命の川の水が流れ始めます。この教会にも、命の川の水が流れ始めます。

新しい年が、茅ヶ崎恵泉教会にとって、そして皆さんにとって、新しい御業を体験する年となることを、信じます。

神様の祝福が、皆様の上に、豊かにありますように、お祈りいたします。