「起きよ、光を放て」
2017年01月01日 聖書:イザヤ書60章1~13節
新しい年2017年を、聖日礼拝をもって、始められることを、主に感謝いたします。
元旦の朝、海岸近くにお住いの方の中には、「初日の出」を見に、海岸に行かれる方も、おられると思います。
海岸に行ってみますと、思ったよりも、多くの人々が、「初日の出」を、見に来ているのに、驚かされます。
新しい年を迎え、その最初の、日の出を見て、清々しい気持ちに浸りたい。そして、励ましを与えられたい。そのような思いから、来られているのだと思います。
クリスチャンの方なら、そこで、「輝く日を仰ぐとき、月星ながむる時、雷鳴りわたる時、まことのみ神を思う、たたえよ、わが心よ、聖なるみ神を」、と心の中で、賛美されるかもしれません。
さて、今朝の御言葉。イザヤ書60章は、「起きよ」と、まず呼び掛けています。
大晦日の晩、遅くまでテレビを見ていて、朝早く起きられない人に向かって、「起きよ、初日の出を見に行け」、と言っているのではありません。
初日の出を見に行くのではなく、「光を放て」、と言っているのです。光を見に行くのではなく、光を放て、と言っているのです。
「起きよ、光を放て」。これが、この年、私たちに与えられた、最初の御言葉です。
なぜ、この御言葉が、年の初めに、与えられたのか。そのことを、心に留めつつ、ご一緒に、御言葉から聴いてまいりたいと思います。
さて、皆さん、聖書の一番初めには、何が書かれていたでしょうか。
皆さんが、よくご存知のように、創世記1章には、天地創造の出来事が、記されています。
神様が、一番初めに、なされたこと。それは、「光あれ」と仰って、この世に、光を創造されることでした。その時から、どれ位の年月が、経っているか、知る由もありません。
しかし、世界は、今もなお、暗い闇の中にあります。
政治的にも、社会的にも、経済的にも、様々な問題が、次から次へと起こって、人々は、暗闇の中にいるような、不安と恐れを、抱いています。
相次ぐテロによる、無差別な殺戮。国と国、人と人が、お互いを罵り合い、相手の不幸を喜ぶ、ヘイトスピーチの応酬。自分さえ良ければ、人のことは構わない。或いは、自分の国さえ良ければ、他の国はどうでも良い、という自己中心主義の蔓延。
障がい者はいらないと言って、平気で命を奪う、歪んだ生命倫理。拡大する一方の格差社会。
そのような現実。思わず、首うなだれてしまうような、暗い現実の中に、今、私たちはいます。しかし、そんな私たちに、御言葉は、語りかけています。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。」
御言葉は、暗い、厳しい現実の前に、ただうなだれている、私たちを、励まし、立ち上がらせようと、しています。
無力感に覆われ、先行きに確かな希望を、見出せないでいる、私たちに向かって、「起きよ、光を放て」、と言っているのです。
キリスト者である、あなたは、神の光を、この世に、持ち運ぶ役割を、託されているのです。
だから、うなだれていないで、立ち上がって、光を運びなさい。
見なさい、あなたを照らす光が、昇っているではないか。主の栄光が、あなたの上に、輝いているではないか。あなたには、それが見えないのですか。
御言葉は、そう語って、私たちに、慰めと、励ましを、与えてくれているのです。
まさに、今の私たちのために、語られているような、御言葉です。
しかし、実は、この言葉は、今から、2千5百年以上も前に、語られた言葉なのです。
これは、バビロン捕囚から解放された、イスラエルの民に、第三イザヤと呼ばれる、無名の預言者を通して、神様が語られた言葉なのです。
「起きよ、光を放て」。この言葉が示すように、これが語られた時代もまた、深い闇に覆われていたのです。バビロン捕囚から解放された後も、イスラエルの人々の、生活は困難でした。
辛い、苦しい日々が続いたのです。2節の御言葉、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」 これは、その時代の状況、そのものでした。
そのような闇の中で、人々は、どうしていたのでしょうか。
一つ前の、59章13節、14節を見ますと、その当時の状況が、より詳しく、記されています。
人々は、神様から離れ去り、虐げと裏切りが横行し、正義は踏みにじられ、真理は歪められていたのです。
しかも、そのような社会にあっても、これを正そうとして、立ち上がる人が、いなかったのです。
59章16節には、「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」、と書かれています。立ち上がる人は、一人もいない。執り成す人がいない、というのです。
皆が困っているのに、誰も助け合おうとしないのです。皆が、自分のことだけを考え、他の人のことに、心を向けようとしないのです。一人ひとりの存在が、尊ばれない社会だったのです。
人が人として、受け容れられない社会。尊ばれない社会。
まさしく、闇に閉ざされ、闇の中を、歩いているような、状況だったのです。
しかし、そのような中で、「起きよ、光を放て」という、力強い命令が、なされているのです。
そして、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」、と宣言されるのです。
民を取り巻く環境は、未だ暗い闇に、閉ざされている。暗黒が、国々を覆い包んでいる。
しかし、あなたの上には、主の栄光が輝く、というのです。まことに、力強い宣言です。
では、ここにある、「あなた」とは、誰のことなのでしょうか。
59章20節を見ますと、そこには、こう書かれています。「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。」
この文脈から、ここにある「あなた」とは、エルサレムの、シオンの丘を指す、と思われます。
女性形として書かれていますから、シオンの娘を指している、とも解釈できます。
そして、そのシオンの娘とは、背き続ける民の中にあって、主の許に立ち返り、悔い改めた、一握りの人たちを、指しています。そのシオンの娘に、主は、語りかけられるのです。
全世界は、未だ暗闇の中にいる。しかし、あなたの上には、シオンの丘だけには、主の光が、輝き出でている。主の栄光が、あなたの上に、現れている。
だから、シオンの娘よ、あなたは、眠っていてはいけない。目覚めなければいけない。
起きて、光を放たなければいけない。そのように、力強く、呼びかけているのです。
主の栄光に照らされた、シオンは、その光を反射して、暗黒の世界を、照らさなければならない、と命じられているのです。
世界の国々が、暗黒に包まれている中で、シオンの丘だけには、主の栄光が輝いている。
だから、あなた方は、起き上がって、その光を、国々に向かって、放ちなさい。
そうすれば、国々は、その光に向かって、集まってくる。王たちも、その輝きに向かって、歩みを進めるだろう。
目の前にあるのは、ソロモンの栄華は、見る影もなくなった、廃墟のエルサレムです。
しかし、その厳しい現実の只中で、主は言われるのです。「起きよ、光を放て」と。なぜなら、「あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」からだ、というのです。
主の栄光を放て。主の光を、映し出せ。なぜなら、あなたの上だけに、主の栄光が照り、主の光が、輝いているからだ。他には、見られないのだ。ここだけなのだ。
シオンの丘の上にのみ、光が臨んでいるのだ。だから、諸国の民と、その王たちは、これを慕って、集まって来ざるを得ないのだ。御言葉は、そう言っています。
シオンの娘、そのものが、光である、と言っているのではありません。
「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」、というのです。
あなた自身の光ではなく、主の栄光に照らされて、主の光を放て、と言っているのです。
そのように語られた主は、今、私たちに向かって、力強く、語られています。
「茅ケ崎恵泉教会よ、起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」と。
日本の現状を、見なさい。闇が地を覆っているかのように、様々な問題のために、閉塞感に覆われている。多くの人々が、活き活きとした喜びに、生きることが、できないでいる。
しかし、茅ヶ崎恵泉教会よ、あなた方の上には、主の栄光が、輝いているではないか。
あなた方には、それが、見えないのですか。他が、どんなに暗くても、あなた方の上には、あなた方を照らす光が、昇っているではないか。
だから、あなた方は、そのような中にあって、起き上がって、光を放たなければならない。
今こそ、あなた方は、世の光としての使命を、果たさなければならない。
神の光を、この世に輝かす、という使命に、立ち上がらなければならない。
主は、今、私たちに、このように、語りかけて、おられるのではないでしょうか。
そして、私たちが、現代における、シオンの娘として、それに応えて、起き上がることを、待っておられるのではないでしょうか。
教会の使命とは、この世にあって、神様の栄光を、輝かせることです。
輝かせるのは、自分の光ではありません。先ず、私たち自身が、主の光に照らされるのです。
そして、その光を、反射して、暗黒の世を、照らすのです。
自分の光ではありません。主の光、主の栄光を、私たちが、反射させるのです。
私たちは、自分の力で、起き上がって、光を放つことはできません。
私たちの内に、光を宿さなければ、ならないのです。
私たちが、宿さなければならない、まことの光。それは、主イエスです。この世の闇に、まことの光として、来てくださった、主イエスです。
今、この世界は、あまりにも、偽りの光、偽りの飾りが、多くなっています。そのため、夜の闇さえ、分からなくなっています。まことの光に、気づかなくなっています。
だからこそ、私たちは、まことの光である、主イエスを、高く掲げていかなければなりません。
世の光である、主イエスを、心の内に、しっかりと宿し、その光を、伝えていかなければなりません。それが、教会に与えられた、使命なのです。
主イエスを、心の内に宿すとは、具体的には、主イエスの御言葉を、心に蓄える、ということです。主イエスの御言葉の輝きに、照らされる、ということです。
主イエスの、力ある御言葉によって、立ち上がらせて、いただかなければ、私たちは、何もできません。主の御言葉こそが、光の源泉です。
詩編の中で、詩人はこう歌っています。「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」
私たちが、放つ光は、主イエスの御言葉から、放たれます。光を放つということは、この主の御言葉に、しっかりと立つ、ということです。
「起きよ、光を放て」。この主の呼び掛けは、御言葉に堅く立って、御言葉の光を、放ちなさい、と言い換えても良いと思います。私たちの心に、いつも主の御言葉を、蓄えておくのです。
教会が、いつも、御言葉に満ち溢れ、御言葉に生きているなら、そこに光が輝いています。
教会が、光を放つということは、御言葉に堅く立った教会を、造り上げて行く、ということです。
何か、他の力に、依り頼むのではなくて、どこまでも、御言葉それ自体の力に信頼し、そこに立ち続けて行く。御言葉の光を、高く掲げていくのです。
もし、それを失ったら、教会は教会でなくなります。
今、会堂について、考える時を持っています。どのような形になるか、まだ分かりません。
ですから、私たちは、祈りを通して、主の御心を、尋ね求めています。
しかし、仮に、立派な新会堂が、与えられることに、なったとしても、そこに、御言葉が満ち溢れていなければ、何にもなりません。御言葉の光が、放たれていなければ、無意味です。
形だけの会堂では、どんなに立派でも、そこから光を、放つことはできません。
ですから、キリストの言葉が、豊かに満ちている、茅ヶ崎恵泉教会を、立て上げていきたい、と心から願わされます。
あなた方の上に、主の栄光が現れる、と励ましてくださった主は、更に言われています。
4節です。「目を上げて、見渡すがよい」。
主は、目を上げて、見渡せ、と言っておられます。一体、何を見るのでしょうか。
4節から9節までには、「来る」とか、「集まる」とか、「押し寄せる」という言葉が、続いて出て来ます。主は、「来る」ということを見なさい、と言われているのです。
息子たち、娘たちも、あなたのもとに来る、遠くから進んで来る。
国々の富はあなたのもとに集まる。シェバの人々は、皆、黄金と乳香を、携えて来る。
タルシシュの船が、あなたの子らを、遠くから運んで来る。
このように、息子たち、娘たち、そして全ての民が、やって来るというのです。
主の栄光が輝く地に、全ての者が、招かれて、やって来るのです。
ここに来なさい、私は、ここで待っている、と主が招かれるからです。
主がおられ、主の栄光が輝く地に、全ての者が、招かれて、やって来る。これは、まことに壮大な、幻です。主が、シオンの娘に、与えられた、幻です。
現代において、主の栄光が、輝く地とは、どこでしょうか。主が、おられる地とは、どこでしょうか。それは、教会です。
教会が、現代における、主の栄光が輝く地です。主がご臨在される地です。
御言葉は、言っています。教会に、あなたの息子たち、娘たちが、やって来る。今は、教会から、遠く離れているかもしれない。
しかし、主が招いてくださっている。だから、遠くから、進んでやって来る。
あなたは、その幻を、見ているか。その幻を信じて、期待しているか。
その幻を信じて、今、なすべきことを、なしているか。そのために、祈っているか。
もし、教会が、本当に、主の栄光に輝き、教会から、主の光が、放たれているなら、あなたの息子、娘は、どんなに遠く離れていても、必ず、あなたのもとに、やって来る筈だ。
息子、娘だけではない。全て民も、やって来る筈だ。あなたは、その希望に生きているか。
主が描かれている、幻を見て、それに期待しているか。そのために、祈っているか。
御言葉は、私たちに、そう語りかけています。
では、人々がやって来る時、教会がなすべきことは、何なのでしょうか。
11節の御言葉は言っています。「あなたの城門を、常に開いておきなさい」、と。
誰もが、自由に、出入りすることが出来ように、城門は常に開かれているか。
昼も、夜も、閉ざされることなく、やって来る人を、迎える準備をしているか。
勿論、ここで言う城門とは、具体的なドアーのことではなく、教会の態勢のことです。
いつも、訪ねてくる人を迎える、用意ができていますか。どんな人をも、迎え入れる、態勢が、整っていますか、ということです。
せっかく、主が招いてくださった人を、締め出してはいませんか。戸口に立って、叩いているのは、主イエスだけではありません。主が、招かれた人も、戸口に立っているのです。
私たちは、そのような人に対して、いつも門を開いているでしょうか。今、改めて、問われています。
主イエスは、ご自分のことを、「私は門である」、と言われました。
城門とは、普通は、敵と味方を、隔てるものです。しかし、主イエスという門は、人と人を、隔てるのではなく、敵と見方を、和解させて、一つにしてしまう門です。
教会は、その主イエスを、頭とする、主の体です。ですから、頭である主イエスに倣って、いつも門は、開かれていなくては、いけないのです。そして、教会の門の、内側では、敵も味方もなくなっている筈です。それが、主イエスを頭とする、教会の姿である筈です。
教会の上に、主の光が昇り、教会が、主の栄光に輝いているなら、教会は、暗く、厳しい、この世にあって、人々に救いと、安らぎを与える場となります。
教会が、主イエスという、まことの光に生かされ、まことの光を、反射しているなら、教会に人々がやって来ます。離れている息子も、娘も、私たちの許に、戻って来ます。
教会が、いつも門を開いているなら、教会は、この世にあって、平和と和解の、基となることができます。
私たちが、まことの光である、主イエスの御言葉を、心に蓄え、それによって生かされているなら、私たちは、光の子として、歩ませていただけます。そして、曲った、邪悪な、この世にあって、星のように輝く者と、なることができます。
新しく与えられた2017年。私たちは、この主の励ましの言葉に、押し出されて、第一歩を、踏み出したいと思います。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。」