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柏牧師:過去の礼拝説教

「神に出会う道」

2017年02月12日 聖書:ヨハネによる福音書 14:1~14

ご一緒に、ヨハネによる福音書を、読み進んできましたが、今朝から14章に入ります。

この14章から16章までは、主イエスの「訣別説教」と呼ばれています。

十字架の死を前にして、主イエスは、渾身の思いを込めて、遺言とも言えるような、愛の御言葉を、弟子たちに語られました。

今朝の御言葉において、主イエスは、ご自身の死の意味を、弟子たちに、語られました。

ご自分が、この世を去られた後、弟子たちが、動揺することが無いように、先ずご自分の死の意味を、弟子たちに語られたのです。

この時、弟子たちは、大きな不安に包まれ、心が揺れ動いていました。

主イエスが、ご自分は去って行くが、「私が行くところに、あなたたちは、来ることができない」、と言われたからです。

もし、主イエスが去っていかれたら、一体自分たちはどうなるのか。

そのような不安と、恐れの中にいる弟子たちに、主イエスは、ご自分の、十字架の意味について、心を込めて、切々と語られたのです。

1節で、主イエスは、「心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われました。

主イエスは、これまでに何度も、「恐れるな。心を騒がせるな」、と弟子たちに語られました。

しかし、ここでのお言葉には、特別の響きがあります。

これは、主イエスの、最後のお言葉だからです。それだけに、このお言葉は、弟子たちの心に、深く刻み込まれる、大切なお言葉になりました。

弟子たちばかりではありません。その後も、多くの人たちが、このお言葉によって、慰められ、励まされてきました。「心を騒がせるな」、と主イエスは言われました。

この「騒がす」という言葉は、海が嵐によって、荒れ狂う状態を表す言葉です。

私が去っていくことで、あなた方の心は、嵐に荒れ狂う海のような、混乱状態に陥るだろう。

しかし、その不安を、乗り越えて欲しい。神を信じ、そして、私を信じることによって、乗り越えて欲しい。主イエスは、そう言われたのです。

「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」。ある人が、この言葉をこう言い換えました。

「神を信じなさい。わたしを頼りにして、信じなさい」。

大きな不安と恐れに捕らわれて、神様を信じる手掛かりが、何も見えない。そう思って、打ちひしがれているあなた。そのあなたに、主イエスは、呼び掛けてくださっている。

「私が共にいる。ここに、私がいるではないか。この私を頼って、神を信じなさい」。

ここで、主イエスは、そう言ってくださっているのだ、と言うのです。

また、この御言葉は、「信じなさい」という、命令形ではなく、「信じている」、と訳すべきだ、と言う人もいます。

「心を騒がせるな。あなた方は、神を信じている。しかも、私を頼りにして、信じている」。

心を騒がせないでよい。あなた方は、神を信じているではないか。しかも、私を頼りにして、信じているではないか。この御言葉は、そう言っているのだ、というのです。

この時、弟子たちは、大きな不安と、恐れの中にいました。これまで、いつも一緒にいた、主イエスが、どこかに行ってしまう、と言われている。

なぜ、私たちを、見捨てて行かれるのか。主イエスのなさることが、分からない。

その時に、主イエスは、言われるのです。「あなた方は、神を信じているではないか。しかも、私を頼りにして、信じているではないか。それなら、なぜうろたえるのか」。

皆さん、私たちも、愛する人、かけがえのない人を、失った時に、不安と恐れで、信仰が揺らぎそうになることが、あるかもしれません。

でも、そんな時にも、主イエスは、力強く言われるのです。「私は、ここにいる。たとえ、姿は見えなくても、私は、あなたと共にいる。あなた方は、この私を頼りにして、神を信じていきなさい。いえ、信じることができるのだ」。

主イエスは、このお言葉によって、私たちの信仰を、再び呼び覚ましてくださるのです。

「心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

このお言葉は、命令ではありません。主イエスの、切なるお心が、主イエスの愛が、籠っているお言葉なのです。

「不安と恐れの中に、留まっていないで、ここへ来なさい。あなたがたは、信仰に生きているではないか」。そう呼び掛けてくださる、主イエスに、私たちはついて行くのです。

更に、主イエスは、続けてこう言われました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

ここには、矛盾している、と思われるようなことが、書かれています。

主イエスは、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」、と言われました。それなのに、なぜ、「行ってあなたがたのために場所を用意」する、と言われるのでしょうか。

たくさんあるなら、改めて、用意する必要などない筈だ。これは、矛盾ではないか、と思ってしまいます。

しかし、この時、弟子たちは、まだ、父の家に行く道を、見つけ出していないのです。

なぜなら、神様と、私たち人間との関係が、罪のために、断絶してしまっているからです。

私たちの罪のために、神様のもとに行く道筋が、途絶えてしまっているのです。

主イエスは、あなた方のための住まいは、既に、もう用意されている。たくさんあるのだ、と言われています。たくさんあるのに、私たちは、そこに行く道が、見つけられないのです。

考えてみてください。私たちが、遠い所に、旅に出るとします。未だ一度も行ったこともない遠い所です。しかし、既に、そこに素晴らしい宿を予約し、その代金も、払い込んでいます。

ですから、最高の宿は既に用意されているのです。

しかし、もし、私たちが、そこに行く道を知らず、どうやって、そこに行くかが、全く分からないならば、その宿が用意されていると、言えるでしょうか。

そこに辿り着く方法が、全く分からないなら、どんなに素晴らしい宿が、用意されていても、それは無意味です。それは、実際には、用意されていないのと、同じことです。

主イエスは、既に用意されている場所を、本当に、私たちの住み家とするために、十字架にかかられ、そして復活されて、その道を整えてくださいました。

「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。私たちを、その場所に、連れていくために、主イエスは、十字架にかかられ、復活され、そして、父なる神様の許に、昇られたのです。

人間は、本来は、神様のもとから来て、神様のもとに帰る存在として、造られました。

それなのに、罪を犯して、神様との関係が、切れてしまいました。神様のもとに帰る、道筋を見失って、帰れなくなってしまったのです。

そのような人間の罪を、主イエスが、十字架において、すべて引き受けてくださり、私たちに代わって、死んでくださいました。それによって、神様と、人間の交わりが、回復され、人間は故郷に帰るように、神様のもとに、帰ることが、できるようになったのです。

既に、たくさん用意されている、父の家の住いに、辿り着く道が、再び開かれたのです。

1節から4節までの御言葉は、教会のご葬儀の時に、よく読まれる聖句です。

ご葬儀の時、「今や、召された方は、懐かしい故郷に帰られました」、とよく言います。

以前用いていた讃美歌1編の482番も、このように歌っていました。「懐かしくも 浮かぶ想い あまつふるさとは ややに近し ふるさと ふるさと こいしき故郷 ややに近し。」

愛する人が召されたので、天国というふるさとが、より一層近く感じられるようになった。

そのような思いを、歌っているのだと思います。讃美歌は、「ふるさと ふるさと こいしき故郷 ややに近し」、と歌っていますが、天のふるさとは、本当は、近くはなかったのです。

私たちにとっては、どのようにしたら、辿り着けるか、思いも及ばないような、遠い所だったのです。恋しい故郷に帰ることが出来ない。それは、本当に辛いことです。

福島第一原子力発電所から、一番近い教会と言われた、福島第一聖書バプテスト教会の教会員の方々は、今、いわき市に新しい会堂を立てて、教会生活を送っています。

しかし、教会員の方々は、いつか、恋しい故郷に帰ることを、祈り願っています。

彼らは、集会の都度、最後に、小学校唱歌の「ふるさと」を、皆で歌うそうです。

「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」、と歌い進み、「志を果たして いつの日にか 帰らん 山は青き ふるさと 水は清き ふるさと」。この歌詞になると、皆が、涙を止められなくなって、涙ながらに、歌うそうです。いつ、あの恋しい故郷に、帰ることができるのか。

その見通しは、全く立たないのです。帰る道筋は、全く見えないのです。どんなにか、お辛いことであろうか、と思います。

私たちの、共通の故郷である、天の住み家も、同じだったのです。いつ、どのようにして、帰るか、全く見えなかったのです。

それを、主イエスが、見えるようにしてくださったのです。十字架の贖いによって、帰る道を造ってくださったのです。何と、嬉しいことでしょうか。

私たちに、故郷を、取り戻させてくださった、主イエスに、心から感謝したい、と思います。

ここに、「住む所」と訳されている言葉は、とても珍しい言葉です。聖書では、他にもう一箇所だけに、記されている言葉です。

ただ、この言葉の動詞形は、ヨハネによる福音書には、非常に頻繁に出てきます。

例えば15章で、「わたしはまことのぶどうの木」、と主イエスが語られた時、「私につながっていなさい」、と言われました。或いは、「私の愛にとどまっていなさい」、と言われました。

この「つながる」とか、「とどまる」と訳された言葉が、同じ言葉から、出ているのです。

ですから、ここで言う「住む所」とは、私に繋がっている場所、私に愛の内に、とどまっている場所、という意味を含んでいます。

主イエスは、ここで弟子たちに対して、「あなたがたが、私に繋がり、私の愛の内に、留まる場所が、既に、父なる神様の所に、用意されている」、と告げられたのです。

永遠に変わらない、主イエスの愛が、既に、弟子たちを、捕らえているのです。

そして、それは、私たちをも、捕らえているのです。私たち、すべての者が、永遠に、主に繋がり、主の愛の内に、留まるための、住まいが、既に用意されているのです。

主イエスは、その住まいへの、道を整えるために、十字架に架かってくださったのです。

さて、今朝の箇所で、最もよく知られているのは、6節の御言葉だと思います。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

主イエスは、ご自身のことを、道であると仰いました。道にも色々ありますが、主イエスという道は、どのような道なのでしょうか。それは、父なる神様に、通じる道です。

その道によって、私たちも、父なる神様のもとに、行くことができる。そういう道です。

この素晴らしい御言葉を、導き出したのは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」、というトマスの問いでした。

このトマスの問いは、私たち自身の問いでもあります。

私たちも、トマスのように、主イエスを見失って、途方に暮れることの、多い者です。

トマスは、もし主イエスが、共にいてくださるならば、どんな苦しいところでも、ついて行ける、と思っていたかもしれません。しかし、主イエスが、おられなくなったならば、どうやって、ついて行く道を、見出すことができるのか。

その不安に襲われて、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」、と問い掛けたのです。

主イエスは、このトマスの問いに対して、「わたしは道であり、真理であり、命である」、と答えられました。

主イエスが、ご自分を「道」であると言われたとき、その道は、神様と人とを、つなぐ道という意味です。神様が、人間に近づかれ、人間が、神様の御許に、行く道のことです。

主イエスの十字架は、私たちと神様の間にある、深い、大きな溝に掛けられた道なのです。そこを通らなければ、私たちは、神様の御許に、決して、行くことができないのです。

私たちは、主イエスの十字架という道を、渡らせていただいています。

私たちだけではありません。今までに、何億、何十億、いや何百億という人たちが、この、主イエスの十字架という、道の上を歩いて、神様の御許に行きました。

そのすべての人の下に、主イエスは、身を投げ出して、支えてくださったのです。今も、支えてくださっています。

私たちは、罪に汚れた足で、汚れた土足で、その道を踏みしめながら、神様の御許に、近づいて行きます。喜び勇んで、その道を、歩いて行きます。

しかし、主イエスは、すべての人の下に、身を投げ出して、担い続けて下さっているのです。

何十億、何百億という人たちの、汚れた足が、ご自身を、踏みつけていくのを、限りない忍耐をもって、支えていてくださるお方。それが、私たちの救い主、イエス様なのです。

主イエスが、道であるとは、そういうことなのです。

「道」は、自分が、それを歩いてみて、初めて、目指す目的地に、辿り着くものです。

では、私たちが、目指している目標とは、何でしょうか。それは、福音の真理です。言い換えれば、永遠の命です。私たちは、それを、目指しています。

私たちを、真実に生かす、福音の真理、永遠の命。それは、私たちが、信じて受け入れ、それに従って生きて見て、初めて、自分の救いとなり、また、まことの力となるのです。

頭で考えているだけでなく、それを目指して、自らの足で、道を歩んでみて、初めて、自分のものとすることが、出来るのです。

主イエスが、ご自分を、父なる神様に至る道である、と語られた時、フィリポは、「主よ、私たちに御父をお示しください」、と願いました。

主イエスは、これに答えて、「私を見た者は父を見たのだ」、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」、と言われました。

ここで、主イエスが、何よりも仰りたいことは、父なる神様と、ご自身が、ひとつである、ということです。ここに、ヨハネによる福音書が語りたい、最も大切なメッセージがあります。

いえ、この福音書だけではなく、キリスト教全体の、中心メッセージが、このことなのです。

私たちと同じ、肉体を持った人間として、人々と共に生きてくださった、主イエスこそ、神が、私たちに見える形で、近づかれたお姿なのです。

私たちは、イエス・キリストにおいて、神を見ることができるのです。

アメリカに夫婦と幼い一人息子の家庭がありました。深い愛に満ちていた家庭でした。

ところが、ふとした病気で、父親が亡くなってしまいました。残された母と息子は、寂しい日々を送っていました。ある日、母親は、息子が、客間にじっと立っているのを見て、不思議に思って、近寄りました。息子は、父親が亡くなる少し前に描かせた、肖像画の前に立っていました。そして、こう言っていたのです。「パパ、そこから、出てきて頂戴」。

この息子の言葉は、主イエスのご降誕以前の、人間の心を、表しています。

しかし、私たちは、もう、このように言わなくても良いのです。私たちは、聖書が示す、主イエスにおいて、神を見ることができるのです。聖書に記された、主イエスの言葉によって、神の言葉を、聴くことができるのです。

その主イエスが、私たちに、言われるのです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。これは、祈りの勧めです。

祈りは必ず聞かれる。そして、主イエスの名によって祈るなら、つまり御心に沿った祈りであるなら、必ず叶えられる。そのことが約束されています。

ですから、主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」、と言ってくださったのです。そして、祈ったら、必ず聞かれる、と言ってくださいました。

信じることは、祈ることです。どんなに教理的な学びを、深めたとしても、祈らなかったなら、信仰は空しいのです。それは、信じていることになりません。

私たちは、自らの身を投げ打って、私たちのために、道を備えてくださった、主イエスのお姿を仰ぎ見つつ、共に祈り合っていく、お互いでありたいと願います。