「誠実に愛し合いましょう」
2017年05月28日 聖書:ヨハネの手紙一 3:11~18
教会学校で、よく話される、例話があります。お聞きになった方も、おられると思います。
ある人が、泥沼にはまり込んで、もがいていました。このままでは、やがて、力尽きて、沈んでしまうのは、時間の問題です。
そこに、哲学者が来ました。この哲学者は、なぜこの人が、泥沼にはまったのか。この出来事は、その人の人生において、どういう意味を持つのか。それを語って、立ち去りました。
次に、教師が来ました。彼は、こうすれば、泥沼から、抜け出せるかもしれないと、方法を教えて、立ち去りました。でも、その方法は、役に立ちませんでした。
次に、篤志家が来ました。彼は、「あなたが、もし、ここまで、這い上がってきたら、助けよう」と言って、手を差し伸ばしました。しかし、その手は、届きませんでした。
最後に、主イエスが来ました。主イエスを見て、その人は、がっかりしました。
なぜなら、その人は、主イエスに、従わずに、いつも、背いていたからです。だから、そんな自分を、助けてくれる筈がない、と思ったのです。
ところが、主イエスは、その人を見るなり、自分が泥沼に飛び込んで、全力を尽くして、その人を岸に押し上げ、ご自身は、力尽きて、そのまま沈んでいった。こういう話です。
今朝の御言葉の16節は、こう語っています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」。
この御言葉を、逆に言えば、主イエスの愛に出会うまでは、私たちは愛を知らなかった、ということです。主イエスは、私たちのために、命を捨ててくださった。それによって、私たちは、まことの愛を、初めて知った、と言うのです。
このヨハネの手紙一の3章16節は、同じヨハネが書いたと言われる、ヨハネによる福音書の3章16節と、響き合っています。ヨハネによる福音書3章16節は、こう語っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ここには、私たちのために、独り子を与えてくださった、父なる神様の愛が語られています。
この福音書の3章16節を受けて、手紙の3章16節は、独り子イエス・キリストの愛を、語っています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」。
父なる神様は、私たちを、滅びの死から救い出すために、大いなる痛みをもって、独り子を、遣わしてくださった。
遣わされた独り子イエス様は、私たちを救うために、十字架に、命を献げてくださった。
これら、二つの3章16節は、お互いに響き合って、まことの愛を、伝えてくれています。
今、世の中には、「愛」という言葉が、溢れています。多くの人が、愛について、様々に語っています。
しかし、聖書が語っている、「互いに愛し合う」ということを、本当に理解しているでしょうか。
聖書が、「互いに愛し合いなさい」、と語っているのは、皆で、支え合い、助け合って、仲良く生きよう、と言っているのではありません。
そういう、ヒューマニズムを、勧めているのではありません。
それでは、教会にいる、私たち自身はどうでしょうか。私たちは、聖書が教えている、「互いに愛し合う」ということを、本当に、分かっているでしょうか。
今朝は、そのことを、御言葉から、ご一緒に、聴いてまいりたいと思います。
御言葉は言っています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」。
私たちのために、命を捨ててくださった主イエス。このお方に出会って、私たちは、初めて愛を知った、というのです。ここでの「知った」、ということは、経験した、ということです。
今まで、哲学者のように、愛について、とうとうと語ってくれた人はいた。
教師のように、愛に生きるための方法を、教えてくれた人はいた。
篤志家のように、自分が損しない程度に、慈善活動をしてくれた人はいた。
しかし、泥沼に飛び込んで、私を助けてくださり、自らは、沈んでいった人は、主イエスただお一人だった。このお方に出会って、初めて、愛を知った。このお方によって、私たちは、愛を体験した、というのです。
では、この主イエスというお方は、どのようなお方なのでしょうか。
主イエスは神様です。神ご自身です。天地万物を造られ、私たちをも、造られたお方です。
そのお方が、私たちのために、命を捨ててくださったのです。
では、神様が、命を捨ててくださるほどに、愛してくださる、この私たちとは、一体何物なのでしょうか。
神様が、そこまでしてくださるのですから、さぞかし立派で、素晴らしい存在なのでしょうか。
そうではありません。私たちは、少しも立派ではありません。
少しも素晴らしい存在ではないのです。神様の愛に、全く相応しくない者なのです。
いつも、神様に背き、神様の御心を、悲しませてばかり、している者です。そんな私たちのために、神様は、命を捨ててくださったのです。もし、立派な人のためだけに、神様が、命をささげられたのなら、私たちは、愛ということを、知らなかったでしょう。
愛するに値する者だけを、神様が愛されたのなら、私たちは、まことの愛を、経験することは、なかったと思います。
でも、いつも、神様に背を向け、神様の御心を悲しませ、神様に愛される資格など、全くないような、私たちのために、主イエスは、命を捨ててくださったのです。愛するに値しないような、私たちを、救うために、死ぬ必要のないお方が、死んでくださったのです。
それは、優先順位において、私たちを救う、ということを、ご自分の命よりも、大切なものとしてくださった、ということなのです。
主イエスは、私たちのために、十字架に命を捨ててくださいました。
十字架において、どんなに恥ずかしい目に遭ったとしても、どんなに苦しい目に遭ったとしても、父なる神様から、呪われて、打ち捨てられるとしても、私たちが救われるのであれば、そちらの方を、大切にしてくださったのです。
そういう優先順位を、選び取ってくださったのです。
私たちは、このお方を見るときに、初めて、愛ということを、知るのです。このお方に出会うときに、初めて、愛を体験するのです。
では、そのような愛を知った、私たちは、どうすべきなのでしょうか。御言葉は、続けて言っています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
主イエスの愛を体験すると、今度は、自分の生き方が、示されます。それは、「兄弟のために命を捨てる」、という生き方だ、というのです。
これは、そんなに簡単に、聞き流すことができない言葉です。本当に、すごい言葉です。
兄弟のために命を捨てなさい、と言われても、私たちは、実際に、命を捨てることなどできません。では、「兄弟のために命を捨てる」、とはどういうことなのでしょうか。
主イエスは、優先順位において、私たちを救うことを、ご自身の命よりも、大切なものとしてくださいました。
そうであるなら、私たちも、優先順位において、自分のことではなく、相手のことを、第一にしていくべきなのでは、ないでしょうか。それが、「兄弟のために命を捨てる」、ということだと思います。自分にとっての、最善ではなくて、相手の最善を、第一に考えるということです。
命を捨てて、私たちを愛してくださった主イエス。
その主イエスの愛に、少しでも応えたいと思う時、主イエスの御言葉が、聞こえてきます。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神様を愛しなさい。そして、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。
自分のことではなく、先ず、神様を愛し、そして、わたしがあなたがたを愛したように、身近にいる隣人を愛しなさい。それが、主イエスの愛に、応える生き方なのだ、というのです。
言い換えれば、それは、自己中心的な生き方から、神中心の生き方に、転換しなさい、ということです。
主イエスの愛を、体験した者は、自己中心の生き方から、神中心の生き方へと、変えられていく。自分が、自分が、という生き方から、神のため、人のために生きる、生き方へと、変えられていく。それが、兄弟のために命を捨てる生き方へと、繋がっていくのです。
今朝の御言葉は、自己中心的な生き方の、典型として、カインという人を、紹介しています。
自己中心的な生き方ではなく、互いに愛し合いなさい、と勧めた後で、カインのようになってはいけません、と言っています。
カインとは、最初の人、アダムとエバの長男です。弟はアベルです。
彼らのことは、創世記4章に記されています。ある日、二人の兄弟は、神様に献げ物をしました。ところが、弟アベルの献げ物が神様に喜ばれ、カインの献げ物は喜ばれなかったのです。そのことを妬んだカインは、アベルを逆恨みして、とうとう弟を殺してしまいます。
カインは、人類最初の、殺人者になってしまいました。
なぜ、神様が、アベルの献げ物を喜ばれ、カインの献げ物を、喜ばれなかったのか。
昔から、このことについて、様々な解釈が、なされてきました。しかし、聖書は、その理由を、明確に記してはいません。ですから、本当の理由は分かりません。これは謎です。
しかし、聖書の御言葉から、私たちが知り得ることがあります。御言葉は、こう言っています。「カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
カインは激しく怒りました。そして、彼は、顔を伏せたのです。
でも、もし、カインの怒りが、正当なものなら、彼は顔を伏せる、必要はなかった筈です。
顔を上げて、正々堂々として、怒ればよかったのです。「神様、なぜなのですか」、と訴えれば、よかったのです。
カインが顔を伏せたのは、自分の中に、正しくないものがあることを、知っていたからです。
それが一体何であったのか、私たちには分かりません。
しかし、カイン自身は、その理由に、気付いていたのです。
でもカインは、そのことに気付きながらも、それを素直に認めていません。
適切な献げ物が、出来なかったことが、罪ではないのです。
心の中に抱いている、不正な思い。それを、認めようとしなかったことが、罪なのです。
カインは、神様から、自分の不正を、示されたにも拘らず、それを認めようとしませんでした。却って、神様から顔を背けて、自分を正当化しようとしました。
これは、神様を神とせず、自分の思いを、神としていることです。これが罪なのです。
カインのように、神を神とせず、自分を神とするような人。そういう、自己中心的な生き方をする人は、兄弟を愛することはできない。却って、カインが、アベルを殺したように、兄弟を殺す者になってしまう。御言葉は、そういうのです。
更に、御言葉は、実際に、殺していなくても、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」と言っています。これは、衝撃的な言葉です。
兄弟を憎むだけで、人殺しとは、あまりにも厳しい、と思うのではないでしょうか。
しかし、私たちは、憎しみに捕らわれている時、あんな人は、いなければよいと、ふと思うことは、ないでしょうか。それは既に、「秘かな殺人」が、犯されているのです。
聖書は、そのような憎しみに、捕らわれている、人間のことを、霊的に死んだ人間である、と言っています。
でも、神様は、私たちが、そんな状態にあることを、望んではおられません。
神様は、私たちに、生きて欲しい、と願っておられるのです。どうか、「死から命へ」と、移って欲しい。あなた方は、滅んではならない、と言われているのです。
そして、人を、「死から命へと」、移すために、独り子を送ってくださったのです。
そのために、主イエスが、十字架に、命を捨ててくださったのです。
霊的に死んだ状態の私たちを、永遠の命に生かすために、命を捨ててくださったのです。
それによって、私たちに、まことの愛を、体験させてくださいました。
その主イエスの愛を、体験することによって、私たちは、兄弟を憎む者から、兄弟を愛する者に、変えられていくのです。
主イエスは、私たちを、死から命へと、移してくださるお方です。
兄弟を憎む者から、兄弟を愛する者へと、変えてくださるお方なのです。
この主イエスの愛を、体験するたびに、私たちは、少しずつ、変えられていくのです。
続いて、御言葉は、貧しい兄弟に、同情を寄せることの大切さを、語っています。
兄弟のために、命を捨てるのは、無理だけれど、同情することなら、自分にできる、と思うかもしれません。しかし、この二つは、同じことではないでしょうか。
「必要な物に事欠く、貧しい兄弟に対する同情」は、兄弟のために、命を捨てる愛から、生まれるのではないでしょうか。
遥か高みの安全地帯に、身を置いての行為は、真実の同情ではありません。
同情とは、痛みを共有する、という意味の言葉です。その人の痛みを、自分の痛みとして、苦しむことです。単なる憐みではありません。
自分のことよりも、相手の人のことを、大事にするという、優先順位。そこに立たなければ、そのような、まことの同情は、生まれないのです。
以前、愛とは、単なる感情ではなく、愛とは、意志であり、行動である、と申しました。
いくらその人を、助けたいと思っても、行動が伴わなければ、何の役にも立ちません。
愛は、形を伴って、初めて伝わるのです。
言葉や、口先だけでなく、誠実に愛の業を、行っていく時に、私たち自身も、愛というものが、次第に分かって来るのだと思います。
かなり前のことですが、ニューヨークのブロードウェイで上演され、大ヒットした、「南太平洋」という、ミュージカルがありました。
主演女優のメリー・マーティンの歌と演技は、大好評を博しました。
このミュージカルの、脚本と歌の歌詞を書いたのは、オスカー・ハマースタインという人です。ある日、メリー・マーティンの許に、ハマースタインから、手紙が届きました。
その時、ハマースタインは、重い病で、死の床にありました。ハマースタインは、最期の時に、自分の大切な作品を演じているメリーに、何とかして、自分の思いを伝えたかったのです。
その手紙には、こう書いてありました。
「親愛なるメリー、ベルというのは、あなたが鳴らさなければ、ベルではない。歌というのは、あなたが歌うまでは、歌ではない。あなたの愛というのは、あなたの内側に止まるために、あるのではない。愛というのは、それが、次の人に、手渡されて、初めて、愛となるのだ」。
メリーは、その晩、特別の思いを込めて、ステージに立ちました。そして、その晩のステージは、それまでで、最も素晴らしい公演となりました。
「素晴らしかった!一体、何があったの」と、賞賛する人々に、メリーは、静かに、その手紙を見せました。
愛とは、それが、誰かに、手渡されるまでは、愛ではないのです。
神様が、私たちに、愛を注いでくださった。神様が、私たちに、愛を示してくださった。
でも、私たちが、本当の意味で、愛を知るとは、どういうことでしょうか。
神様の愛を受けて、今度は、私たちが誰かを、愛することをしないと、私たちは、本当の意味で、愛が分かった、ということにならないのです。
ですから、聖書は言うのです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
主イエスが、私たちのために、命を捨ててくださった。それによって、私たちは、愛を知りました。そして、憎しみから解放され、死から命へと、移されました。
沈むことも恐れずに、泥沼に飛び込まれた、主イエス。この主イエスの愛によって、生かされた人は、「兄弟のために命を捨てる」生き方へと、導かれる筈です。
それができるか、出来ないかが、問題なのではありません。何が出来るかが、問題なのではないのです。
先立って歩まれる、主イエスを見上げて、一歩踏み出すことが、大切なのです。
その時、私たちは、愛するということの、本当の意味を、体験することになるのです。
ご一緒に、その小さな一歩を、踏み出しましょう。御言葉は言っています。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」