「あなたは光の中にいますか」
2017年05月07日 聖書:ヨハネの手紙一 2:7~17
皆さんは、こんなことを言う人に、出会われたことは、ないでしょうか。
「主イエスが、素晴らしい方だということは、よく分かる。聖書が、素晴らしい書物である、ということも分かる。でも、信仰を持つと、これをしてはいけない、あれをしなければいけないと、色々な戒めに、縛られてしまって、窮屈そうだ。
だから、今、暫くは、好きなことをして、気楽に暮らしていきたい。そして、死ぬ寸前に、信仰を持つ。これが、一番、得な生き方のような気がする。」 何とも都合の良い話です。
私の知り合いに、言うだけでなく、実際に、そういう生き方を、実行した人がいました。
その人は、私が、かつて銀行で働いていた時に、大変お世話になった人で、その銀行の頭取、会長となり、全国銀行協会の会長まで務めた、立派な経済人でした。
この方の奥様は、本当に、素晴らしいクリスチャンで、お二人のお子様も、熱心な信仰者でした。偶然にも、長女の方は、私が、教会学校の教師をしていた時の、生徒さんでした。
この方は、仕事がないときには、ご家族と一緒に、よく礼拝に出席されていました。
本当に長いこと、求道生活を続けられました。
奥様は、ご主人が信仰を持たれるようにと、どれほど熱心に、祈られたことでしょうか。
私が、「もうそろそろ、洗礼を受けたら、如何ですか」と尋ねると、いつも、「いや、まだ早い気がする」と言って、逃げていました。
ところが、最愛の奥様が、亡くなられると、その翌年に、洗礼を受けられたのです。
私は、それを聞いて、「そんなことなら、奥様がご存命中に、洗礼を受けられたら、どれほど喜ばれたことか」、と思いました。
私たちは、「掟」とか「戒め」という言葉を聞くと、直ぐに「窮屈だなぁ」、という思いを持ちます。
「掟」とか「戒め」は、人を縛り付ける、窮屈な決まりごとである。そういう印象を、持ちます。
恐らく、この先輩も、今、暫くは、そういう戒めに縛られずに、好きなことをしていたい。
そう思って、洗礼を受けられるのを、先延ばしにして、おられたのだと思います。
しかし、聖書が語る「掟」とか「戒め」は、人を縛り付けるための、決まりごとではありません。
それは、神様が、私たちに、期待しておられることを、言い表したものなのです。
神様は、私たちに、期待しておられるのです。戒めは、その徴なのです。
神様が、私たちに、何も期待しておられないなら、確かに気楽かもしれません。
「お前は、どうせダメだから、私は、お前に、何も期待していないよ」。そう言われたなら、それは、確かに気楽かもしれません。しかし、反面、それは、とても悲しいことです。
でも、神様は、私たちに、期待しておられるのです。願いを持っておられるのです。
「お前は、どうせダメだろうけど、試してごらん」。神様は、そんなお気持ちで、戒めをくださったのでは、ありません。
或いは、私たちを挫折させて、惨めにさせるために、戒めを与えられたのでもありません。
確かに、神様の期待は、高いかもしれません。しかし、神様の、戒めには、私たちを、そこまで引き上げたい、という願いが籠められているのです。
更に言えば、私たちを、そこまで引き上げるぞ、という熱い思いが、籠められているのです。
ですから、掟とは、神様からの、恵みの招きなのです。私たちは、この招きに応えて、小さな一歩を、踏み出すのです。その時、私たちは、初めて知るのです。
「あァ、神様が、一緒に歩いてくださっている。神様が、弱い私たちの手を引いて、助けてくださっている」。そのことが、分かるのです。
神様が、どんなに、私たちに期待されているか。どれほど、私たちに、熱い思いを、注いでくださっているか。掟を守ろうとして、一歩踏み出す時、初めて、そのことが、分かるのです。
そして、掟を守れない私のために、主イエスは、十字架にかかってくださったのだ。主イエスの十字架は、この私のためであったのだ、ということが、真実に分かるのです。
さて、今朝の御言葉で、ヨハネは、新しい掟を、語ろうとしています。
しかし、ヨハネが、ここで、語ろうとしている掟は、初めて聞く言葉ではありません。以前から、聞いていた掟です。
でも、昔から聞いているから、今更、改めて聞かなくてもいい、というのではなくて、是非これを、新しい掟として、聞いて欲しい。ヨハネは、そう言っているのです。
あなた方は、この掟を、昔から聞いている。だから、分かっていると思っている。だけど、本当の所は、分かっていない。だから、古いけれども、新しい掟なのだ、というのです。
その掟の、本当の意味を、分からせるために、まことの光である、主イエスが、来てくださったのだ。これが、ヨハネが、語ろうとしている、メッセージなのです。
では、その、古くて、新しい掟とは、どのような戒めなのでしょうか。
恐らく、ヨハネは、ここで、主イエスの御言葉を、想い起していると思います。それは、ヨハネによる福音書13章34節の御言葉です。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
この掟は、古くて新しいのですよ、とヨハネは言っているのです。
どういう意味で、古くて新しいのでしょうか。
この教えは、既に、旧約聖書の中にも、見られた教えでした。レビ記19章18節は、こう言っています。「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。わたしは主である」。
既に、ここに、「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」、という戒めが、語られています。その意味では、これは、古い戒めである、と言えます。
私たちは、遠くにいる人のことは、比較的容易く、愛することができるかもしれません。
遠い国の、飢えた子供のために、献金をする。そういうことは、できるかもしれません。
しかし、本当に、身近にいる人は、どうでしょうか。私たち誰もが、知っていることは、ごく近くにいる隣人を、愛することが難しい、ということです。
旧約聖書が語る、人類の歴史は、それを、明らかに示しています。
最初の夫婦である、アダムとエバ。この二人は、既に、罪のなすり合いをしています。
その息子である、カインとアベル。一番親しい筈の兄弟の中に、既に、憎しみが生まれ、兄が弟を殺してしまう、という悲劇が起こります。
アブラハムの孫の、ヤコブとエサウ。双子の兄弟なのに、愛し合うことができませんでした。弟は兄を騙し、兄は「弟を殺してやる」と叫ぶ。そんな憎しみの闇に、陥って行ったのです。
身近にいる隣人を愛しなさい。これは、レビ記の御言葉が教えている、この古い戒めです。
しかし、人間は、この古い戒めを、守ることができないのです。ですから、この戒めは、今も、生きています。今も、新しいのです。
教会の中においても、同様です。あの兄弟、あの姉妹を、愛することができない。
あの人は、私を受け入れてくれる。でも、あの人は、私に冷たい。私のことを軽蔑する。私を無視する。私の意見に反対する。だから、愛することができない。
色々な言い訳が、あるでしょう。様々な理由を、挙げることが、できるかもしれません。
けれども、同じ神様を信じ、同じ御言葉に、生かされている、お互いである筈です。
それなのに、教会の兄弟・姉妹を、愛することができない、という現実があるのです。
愛と慰めの、道場であるべき教会で、愛が生きてないのです。
皆さん、愛とは、感情ではありません。愛とは、意志です。そして、その意志から生まれる、行動なのです。
アメリカのある有名な牧師の所に、一人の婦人が、深刻な顔をして、訪ねて来ました。
そして、激しい口調で、こう言いました。「先生、私は、夫と離婚したいのです。でも、離婚するだけでは、足りません。今まで、私が受けてきた、数々の屈辱を仕返しするために、出来るだけ夫を痛めつけた上で、離婚したいのです。どうしたらいいでしょうか」。
それを聞いて、その牧師は、こんな提案をしました。
「それでは、こういう作戦で行きましょう。これから3ヶ月間、あなたが、いかにも、ご主人を、愛しているかのように、装ってください。本当に、ご主人を愛しているかのように、親切に振舞ってください。ご主人が好まれることは、全部してあげるのです。ご主人が嬉しがることは、何でも、気前よくしてあげてください。そして、あなたが、ご主人を愛していることを、信じ込ませてください。その後で、爆弾を落とすのです。離婚を宣言するのです。そうしたら、ご主人は、きっと、立ち上がれないほど、傷つくと思います。」
その婦人は、顔を輝かせて言いました。「先生、素晴らしい作戦です。それで行きます」。
そして、その婦人は、大変な努力をして、ご主人を愛している、振りをしました。
やがて3ヶ月が過ぎたので、その牧師は、婦人に電話して、言いました。「そろそろ、計画を実行したらいかがですか」。
すると、その婦人が言ったのです。「先生、離婚なんて、考えられません。私は、主人を、心から愛しています。私にとって、彼が、どれ程、大切な人かが、分かってきました」。
愛とは、感情ではありません。愛とは、意志であり、行動なのです。
愛する力とは、小さな愛の業の、積み上げによって、育っていくものなのです。
あなたの身近にいる、隣人を愛しなさい。この戒めは、愛せるかどうかを、問い質しているのではありません。愛するという行動を、取るようにという、勧めなのです。
いえ、そう言われても、あの人だけは、どうしても愛せません。
今、私の話を聞かれながら、皆さん方の、心の中には、具体的な、誰かの顔が、浮かび上がっているかもしれません。
でも、神様は、その人を、愛しなさい。その人を、受け入れなさい。あなたの方から、その人に、愛の言葉を掛けなさい、と言われているのです。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
今、この主イエスの御言葉が、私たちの耳に、響いてきます。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
主イエスは、古い掟に、全く新しい光を注がれました。主イエスは、私たちが、互いに愛し合うことの、根拠を示してくださいました。
私たちが、互いに愛し合うのは、主イエスが、先ず私たちを、愛してくださったからです。
主イエスの内に、愛を見るまで、私たちは、本当の愛を、知りませんでした。
主イエスは、ご自分を十字架につけた人たちのために、「どうかこの人たちを、赦してください」、と祈られました。
今も、主イエスは、私たちすべてのために、同じ祈りを、祈っていてくださるのです。
この主イエスの愛を、知るまでは、私たちは、本当の愛を、知らなかったのです。
私たちを、これほどまでに、愛してくださる、主イエスの愛。
その愛が、この人にも、あの人にも、いえ、すべての人に、注がれている。皆が、主イエスの限りない、愛の対象なのだ。主イエスは、この人のためにも、十字架にかかられたのだ。
そのことを知った時、私たちは、隣人を愛さない訳には、いかなくなるのです。
私が、どうしても愛せない、と思っている、あの人も、主イエスは、命懸けで愛しておられる。
そして、「どうか、あなたも、あの人を愛してください」、と十字架の上から、呼び掛けておられる。この主イエスの、切なる願いに迫られて、お互いに愛し合う。この愛が、教会の交わりの土台です。
隣人を、自分のように愛する、という掟は、古いものでした。しかし、愛そのものが、主イエスにおいて、全く新しいものと、なったのです。私たちが愛し合うのは、主イエスが、これほどまでに、私たち一人一人を、愛してくださっているからなのです。
生まれながらの私たちは、そんなに、愛に満ちた人間ではありません。あの人も、この人も、苦手だ。心から愛するのは、難しい。そんな思いに、直ぐに捕らわれてしまうような者です。
けれども、まことの光である、主イエスの内に、留まり続ける時に、愛せないと思っていた、あの人も、この人も、愛することができるように、少しずつ、変えられていくのです。
主イエスは、愛そのものです。ですから、愛するということは、主イエスの中にいる、ということです。まことの光である、主イエスの、光の中を歩いている。
その時、私たちの体の中に、光が差し込んできます。主イエスの愛が、じわじわと、沁み込んでくるのです。
主イエスという、まことの光の中を、歩いている時、私たちは、身近な隣人を、愛することができるように、少しずつ変えられていくのです。
私たちが、兄弟を愛するなら、私たちは、光の中を歩いています。しかし、憎しみの中にいる時、私たちは、闇の中を歩んでいます。闇の中では、私たちは、見ることが出来ません。
ですから、躓きます。でも、もし私たちが、兄弟を愛するなら、私たちは、光の中を歩いています。ですから、躓くことはありません。
躓くということに関連して、最近面白いことを、知りました。
日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」、と教えますが、インドでは、「お前は、人に迷惑かけて、生きているのだから、人のことも、許してあげなさい」、と教えるそうです。
ある人が、このことをもじって、こう言っています。
日本のクリスチャンは、ともすれば、「人を躓かせてはいけない」、という責任感が強い。しかし、「人を躓かせちゃダメですよ」、と教えるよりも、「お前は、人を躓かせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」、と教える方が、良いのではないか。
なかなか面白い指摘です。しかし、その続があります。
この人は、更に言っています。どうも、「躓かせること」と、「躓くこと」とは、表裏一体のようである。愛において、成熟しているキリスト者は、あまり人を、躓かせることをしないし、また、人にも躓かないようである。
しかし、人を躓かせる人は、自分も人に躓く、という現実が、あるようである。
ところが、当人は、自分は、人を躓かせている、ことには気が付かずに、自分は、いつも、人に躓かされてばかりいる、と思い込んでいるのである。
耳が痛い指摘ですが、確かに、そういうことはあると思います。愛を失っている時に、私たちは、人を躓かせ、また同時に、自分自身も、人に躓いているのではないでしょうか。
人間の愛は、結局のところ、自己中心的な愛です。その中に真理はありません。
主イエスにおいて、愛は初めて、真理となったのです。永遠に変わらない、真実な愛が、主イエスにおいて、初めて示されたのです。
そして、この真実な愛を、日毎に、新たに頂く者が、クリスチャンです。クリスチャンとは、この主イエスの愛の戒めを、毎日、新しい掟として、受け止め直していく、人たちのことです。
今朝の御言葉の後半の、12節から14節には、詩のように美しい言葉が、並んでいます。
ヨハネは、自分の愛する教会員たちに、呼び掛けています。教会員一人一人の顔を、思い浮かべながら、呼び掛けています。
愛する者たちよ、あなた方が、どういう者であるかを、今一度、想い起して欲しい。
あなた方に、与えられている祝福を、もう一度、想い起してもらいたい。
あなた方は、主イエスの名によって、罪赦された者ではないか。
自分を、愛の対象として、造ってくださった、創造主なる神様を、知っているではないか。
その神様の御言葉をいただいて、既に、勝利を得ているではないか。
だから、世も、世にあるものも、愛してはいけません。神様の恵みに生かされて、欲の支配から、解放されなさい。ヨハネは、心込めて、語り掛けているのです。
「世も、世にあるものも愛してはいけません」。これは、世を拒絶して、生きなさい、ということではありません。
神様のものとされ、神様を主とし、神様を愛する人生を、生きなさい、ということです。
自分の思いではなく、神様の愛をもって、この世を愛しなさい、ということです。
欲望の対象、としてではなく、愛の対象として、この世を見なさい、ということなのです。
それは、主イエスが、私たちを愛されたように、互いに愛し合う生き方を、生きなさい、ということに繋がります。
まことの光である、主イエスが、輝いています。まことの光である主イエスは、愛することのできない私たちに、愛を満たしてくださいます。
主イエスは、十字架の上から、今も、言われています。「お互いに愛し合いなさい」。
この主イエスの呼び掛けに、精一杯、応えていく者でありたいと願います。