「私たちを一つにしてください」
2017年08月27日 聖書:ヨハネによる福音書 17:20~26
皆さん、世の中には、不思議なことが、たくさんあります。今、私たちは、その中でも、最も不思議なことを、実際に体験しています。言わば、奇跡を体験しています。
2千年もの大昔に、遠く離れたユダヤの、ガリラヤという片田舎で、たった3年ほど、活動したに過ぎない、一人の貧しい、大工の息子が、語った言葉。
その男の言葉を、信じる者たちが、次から次へと起こされ、遂に、2千年の時を越えて、遥かかなたの、この茅ヶ崎の地にまで、届けられた。そして、今朝も、その男の言葉を、信じる人たちが集まって、心を一つにして祈り、その男を讃える歌を、歌っている。
その男は、一体何をしたのでしょうか。その男がしたこと。それは、ただ自分の周りの、限られた人々に、愛の言葉を語り、小さな愛の業を行い、当時の指導者たちから、妬まれて、殺されてしまった。ただ、それだけです。それしか、しなかったのです。
それ自体は、世界の歴史という、大きな流れの中に、浮かんでは消えていく、小さな泡の一つに過ぎない、まことに些細な出来事でした。世界の歴史を、揺り動かすような、大きな戦争や、革命といった、大事件ではありませんでした。
ところが、その男の語った言葉が、人から人へと、伝えられていったのです。
それも、始めは、たった一握りの弟子たちによって、伝えられただけです。
今のように、メディアが発達していた、訳ではありません。弟子たちは、町から町へ、村から村へと、足で歩き、口伝えで、伝えていったのです。気が遠くなるような、困難な仕事です。
当時の権力者たちが、その言葉を抹殺しようと、躍起になって、迫害しました。
しかし、その言葉は、押し潰されるどころか、逆に、ますます広がっていったのです。
そして、いつしか、その言葉は、「新約聖書」という、書物にまとめられました。
この新約聖書の言葉を聞いて、その男のことを信じる人々が、更に、起こされていきました。そして、その人たちが、世界中の、至る所に、教会を生み出してきました。
この茅ヶ崎恵泉教会も、その一つです。
もうお分かりでしょう。2千年前の、その男とは、主イエスのことです。
考えてみれば、不思議なことです。2千年も前に、ユダヤの片田舎で、たった3年間、活動したに過ぎない、無力な一人の男。その男が、私たちの人生を、変えてしまったのです。
これは、奇跡です。どうして、こんなことが起きたのでしょうか。
その男の人が、神ご自身であったからです。その言葉が、神の言葉であったからです。
そして、その人が、教会のために、私たちのために、祈ってくださったからです。
教会は、その祈りによって、守られ、支えられてきました。その祈りによって、迫害や困難を、乗り越えて、歩んできたのです。
先ほど読んでいただきました、ヨハネによる福音書の17章20節~26節には、主イエスによる、教会のための祈りが、記されています。
20節で、主イエスは、こう言われています。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」。
ここにある、「彼ら」とは、弟子たちのことです。ですから、「彼らの言葉」とは、弟子たちの、「福音宣教の言葉」です。
その弟子たちの、言葉を聞いて、主イエスを信じる群が、次々と起されていく。そのことを、主イエスは、ご存知でした。
主イエスは、未だ見たこともない、その人たちのために、祈っておられるのです。
そして、その人たちの中には、今、ここにいる、私たちも、含まれているのです。
主イエスは、十字架の死を前にされて、私たちのことを、心を込めて、祈ってくださったのです。いえ、今も,祈ってくださっています。
では、主イエスは、私たちのために、一体何を、祈ってくださって、いるのでしょうか。
21節を読みますと、私たちのための、主イエスの祈りは、こう始まっています。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。
主イエスは、私たちが、一つとなるように、と祈られているのです。教会が、一つでありますように、と祈ってくださっているのです。この祈りが、真っ先に、祈られているのです。
父なる神様と、御子なるキリストが、一つであるような、そのような愛の交わりが、教会において、実現しますように、と祈ってくださっているのです。
今朝の御言葉で、主イエスは、そのことを、三度も繰り返して、祈っておられます。
主イエスが、教会のために、何よりも願っておられること。それは、「教会が一つとなる」、ということなのです。では、この「一つとなる」とは、どういうことなのでしょうか。
今朝の御言葉は、13章から17章に至る、訣別説教の、纏めであり、締め括りです。
訣別説教において、主イエスは、「新しい掟」を、弟子たちに教えられました。
それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」、という教えでした。その教えの、締め括りとして、「一つとなるように」、と祈られているのです。
そうであるならば、この「一つとなるように」、という祈りは、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟の、具体的な勧めである、と言うことができます。
主イエスは、新しい掟を与える前に、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われました。
主イエスが、弟子たちの足を、洗われた出来事。そこに示された御心が、新しい掟として教えられ、それが最後に、「一つとなるように」という祈りによって、締め括られているのです。
最後の晩餐の場面を、振り返ってみますと、弟子たちの足を、洗われたという、最初の出来事と、最後の、「一つとなるように」との祈りが、しっかりと結び合って、お互いに、響き合っていることが分かります。
「足を洗い合う」、ということは、お互いに仕え合い、お互いに赦し合う、ということです。
そのような愛に生きる、ということです。
私たちが、先ず主イエスから、足を洗って頂き、罪を赦して頂き、無条件の愛を頂きました。
その私たちに対して、主イエスは、今度は、あなた方が、お互いに、愛をもって、仕え合い、赦し合いなさい、と教えられたのです。
この時、この祈りを、献げておられる、主イエスの、お心にあったもの。それは、愛し合い、仕え合い、赦し合う群れとしての、教会の姿でした。
そのような教会が、生まれるために、主イエスは、「どうか信じる者たちを、一つにしてください」と、渾身の祈りを、ささげられたのです。
主イエスが、命懸けで、贖い取った教会が、一つであること。それが、主イエスの、第一の祈りであったのです。なぜ、このことを、第一に、祈られたのでしょうか。
それは、一つになることが、教会においても、難しいからです。教会は、なかなか、一つになれないからです。ですから、心を込めて、このことを、祈ってくださったのです。
もし、この茅ケ崎恵泉教会が、一つとされているなら、それは、私たちが、偉いから、ではありません。私たちが、愛に豊かであるから、でもありません。また、私たちの、努力によるのでもありません。
私たち一人一人は、愛に欠けた者です。赦すことのできない者です。
そんな私たちが、一つになれるとするなら、それは、主イエスが、祈ってくださっているからなのです。私たちは、主イエスの、祈りによって、支えられて、一つとされているのです。
扇子の骨は、一本一本は、バラバラですが、要に繋がって、一つの扇子となっています。
そのように、教会も、元々は、関係のなかった者たちが、要である主イエスに結び合されて、一つの群れになっているのです。
主イエスは、祈ってくださっています。どうか、一本一本の骨が、しっかりと扇子の要に、結び合されますように。一つの要に結び合わされた、一つの群れとなりますように。
主イエスは、今も、祈ってくださっているのです。
教会は、この主イエスの祈りによって、支えられ、守られています。そうであるなら、私たちは、この主イエスの祈りに、全身全霊をもって、応えていかなくてはなりません。
この主イエスの、必死の祈りを、ないがしろにするなら、主イエスは、どれ程、悲しまれるでしょうか。わたしたちが、一つであることを、ご覧になって、主イエスが、喜んでくださる。
その主イエスの、微笑みを、心に描きつつ、一つとなって、歩んで行きたいと思います。
続いて、主イエスは、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」、と祈られました。今朝の箇所でも、「栄光」という言葉が、何回も出て来ます。
この「栄光」という言葉は、大変広い意味を、持っていますが、ここでは、「愛」と置き換えて読むと、分かり易くなります。
主イエスは、「あなたがくださった愛を、わたしは彼らに与えました」、と祈られたのです。
私たちを、このまま、ありのままで、神の子としてくださる。それは、神様の、究極の愛の現れです。この愛を頂くことが、私たちの栄光なのです。
そのことは、続く主イエスの祈りからも、明らかです。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」。
ここにある、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」、という言葉は、「わたしのいる所に、共におらせることにいたします」とも、訳すことができる言葉です。主イエスの、決意を表す言葉、と読むこともできるのです。
むしろ、そう読むべきだ、と言っている学者も、多くいます。
「父よ、あなたがわたしに与えてくださった者たちを、わたしのいる所にいつもおらせるようにいたします」。それが、あなたのご意志であり、また、わたしの意志でもあるのです。
そのように、主イエスは、祈りの中で、決意されているのです。
「わたしのいる所に共におらせる」というのは、どんな時にも、私たちを、ご自分の傍に、置いてくださる、という決意を表す、御言葉なのです。
主イエスは、それほどまでに、私たちを、ご自分の傍に、置いておかれようと、決意されて、おられるのです。それなのに、肝心の私たちは、その主イエスの御心に反して、主イエスから離れよう、離れようと、してしまいます。
今は、主イエスが、傍におられては、ちょっと困る。見られてはまずい。傍にいて欲しくない。そんな思いから、主イエスの傍から、逃げ出そうとするような者です。
そんな私たちを、主イエスは、どのような思いで、見ておられるでしょうか。
これは、私たちだけでなく、弟子たちも、同じでした。ここでの、主イエスのお言葉は、別れのお言葉です。この祈りは、弟子たちに対する、別れの祈りです。
実際に、この後、主イエスは、十字架への道を、たった一人で、歩まれます。その時、弟子たちは、皆、逃げてしまいました。一人も、主イエスのお傍には、いませんでした。
主イエスは、既に、そのことを、良くご存知でした。ご存知の上で、まさに裏切りが、起ころうとしている、その所で、「これらの者を、私のいる所にいつもおらせるようにします。そう決意しています」と、祈られているのです。
裏切っても、裏切っても、尚、主イエスは、私たちを、傍に呼び寄せようと、されるのです。
私たちの裏切りを越えて、主イエスが、私たちと、いつもと共にいてくださる、という約束が、ここで与えられているのです。その決意を、ここで、祈られているのです。
私たちが、生きていけるのは、この主イエスの、決意があるからです。
どんな時にも、「あなたは決して一人ではない。わたしが共にいる。この約束は、決して崩れない」、と言ってくださる、主イエスが、おられるからです。
この主イエスの決意なくしては、私たちは、生きていかれません。
今朝の箇所で、主イエスは、教会の一致を、繰り返して、祈っておられます。
主イエスが、このように祈られた、理由の一つは、教会の外にいる人々が、教会における、愛の一致を、見ることによって、神様の愛に触れて欲しい、と願われたからです。
21節で、主イエスは、「すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」、と言われています。
23節でも、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」、と祈られています。
まだ信仰を持っていない人も、教会の姿を見て、あぁ、あの人たちは、神様に愛されている、人たちなのだ。だから、あんなに嬉しそうに、愛の交わりを、しているのだ。
それが分かる。教会が、そのような、愛の実践の場となって欲しい。主イエスは、そのように、祈っておられるのです。
もし、私たちが、この主イエスの祈りに、応えることが出来るなら、それこそが、私たちが神の子とされ、神の栄光を表わす、ということではないかと思います。
教会が、伝道に熱心である、ということは、大切です。しかし、教会員の間に、互いに愛し合う、愛による一致がないなら、伝道の業は進みません。
ですから、教会において、最も大切なことは、この愛の交わりによる、一致です。
ある牧師が、このようなことを書いています。熊本県の、ある教会を、訪ねた時のことです。
その教会で、Mさんご夫妻と、会いました。Mさんは、当時、八十六歳になる元僧侶で、その数年前に、キリストを信じて改宗し、寺を捨てた人でした。
Mさんが、信仰を持ったきっかけは、ご夫人の回心でした。ある土曜日の夜、ご夫人は、特別伝道集会のチラシを見て、生れて初めて、教会の門をくぐりました。
でも、その時の話は、あまりよく分らなかったそうです。しかしご夫人の心を、捕らえて離さなかった、一つのことがありました。
それは教会の中にあった、何とも形容しがたい、和やかで、心休まる空気でした。
様々な人がいるのに、どうしてこれほど、仲良くしていられるのか、とても不思議に感じました。その温かい交わりに、魅せられて、ご夫人は、その翌日も、教会へ行きました。
そしてやがて、信仰を告白するに、至ったのです。
こともあろうに、僧侶の奥さんが、クリスチャンになったのですから、後が大変でした。
ご主人のMさんは、何度も、キリスト教信仰を捨てるようにと、奥さんを責め立てました。
しかし、それが繰り返されるうちに、Mさんにも、奥さんの中に、確かな信仰があることが、少しずつ見えてきたのです。そしてやがて、Mさん自身も、神様を信じるようになって、二人はすべてを捨てて、寺を出ました。
その牧師が、お会いした時、二人は物置のような、小さな小屋に、住んでおられたそうです。しかし、ご夫人は輝いたお顔で、こう言ったそうです。「今が、私たちの生涯で、最も幸せな時です」。
この牧師の話は、例外ではなく、数ある事例の、一つに過ぎないと思います。
人が、教会に来て、主イエスの愛に触れるのは、牧師の説教によるよりも、教会員相互の、愛の交わりに、心打たれることの方が、遥かに多いのです。
教会における、愛の交わりは、百万の言葉にも勝る、伝道の業なのです。
世の人たちが、不思議に思うほどに、教会が愛の交わりに、活き活きとしているなら、必ず、そこに、人は集まって来ます。その交わりに、魅せられて、教会に通う人たちが、必ず起こされます。そのようにして、私たちは、神様の栄光を、輝かせることができるのです。
だからこそ、主イエスは、ここで、「すべての人を、一つにしてください」、と祈ってくださっているのです。私たちは、この主イエスの祈り以外に、立つべき場所を、持っていません。
私たちの群れは、完全ではありません。欠けだらけの、不完全な群れです。
しかし、主イエスが、心を込めて、私たちが一つとなるようにと、祈っていてくださいます。
私たちは、私たち自身の、力に頼るのではなく、この主イエスの祈りに、希望をおいて、愛の一致を求めて、歩んでいきたいと思います。
「主よ、どうか、私たちを、一つにしてください」、と祈っていきたいと思います。
主イエスは、私たちに、無限の愛を、示してくださいました。そして、これからも、示し続けてくださいます。日ごとに、新たな、恵みと愛を、豊かに注いでくださいます。
私たちは、この主イエスにあって、一つになることができる、という望みを抱きつつ、共に歩んでまいりたいと思います。