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過去の礼拝説教

「仮住まいから永遠の住まいへ」

2017年10月22日 聖書:ヘブライ人への手紙 11:13~16、ヨハネによる福音書 14:1~3

今朝、私たちは、召天者記念礼拝を献げています。

私たちの、信仰の先輩方の、在り日のお姿を、想い起しています。地上にあっては、信仰に生き、そして、今は、天において、神様の御懐に、抱かれている家族、或いは、信仰の友を、偲ぶ時を持っています。

しかし、ただ、偲ぶだけではなく、私たちを信仰へと導いてくださった、先人たちの人生、その生き様から、今一度、学ばせて頂きたい。

その学びを通して、改めて、信仰の原点に、立ち返りたい。そのように願っています。

週報にも書かれていますが、今朝、私たちが、この礼拝において覚える、信仰の先輩方は、183名にも上ります。その内、宮澤明子姉、佐渡山正子姉、篠田壽子姉、佐藤毅兄、松尾智子姉の5人の方々は、この一年の内に、天に帰られた方々です。

多くの先輩方を、天に送って、地上に残された私たちは、寂しさを覚えています。

しかし、天国の茅ケ崎恵泉教会は、年々、数が増えて、ますます賑やかになっていることと思います。

残された私たちは、天国における、その聖い交わりが、どれ程、恵みに満ちたものなのか、そのことに、思いを馳せつつ、この時を、過ごしたいと思います。

そのような思いを、詠った詩があります。ストックという人が書いた、「天に一人を増しぬ」という詩です。明治・大正期の日本の教会の指導者であった、植村正久牧師が、日本語に訳しています。

週報の裏面に、全文が記されていますので、後ほど、お読みください。言葉が古くて、分かり難い所もありますが、心に沁みる、素晴らしい詩です。詩は、このように詠い出しています。

『家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり/愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき/さはれ 天に一人を増しぬ 清められ 救はれ/全うせられしもの一人を

家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声一つ 見えずなりぬ/行くを送る言葉 一つ消え失せぬ/別るることの絶えてなき浜辺に/一つの霊魂は上陸せり 天に一人を増しぬ』

このように、「家には一人を減じたり」で始まり、「天に一人を増しぬ」で結ぶ言葉が、この後も繰り返されています。この詩を、分かり易い言葉で、自己流で、言い変えて見ます。

地上の家からは、一人がいなくなった。楽しき団欒は破れ、愛する者の顔を、見ることも出来なくなった。たまらなく悲しい。

「お帰りなさい」と、迎える声も、「行ってらっしゃい」と、送り出す言葉も、聞けなくなった。

でも、天国の聖い交わりに、一人が、増し加えられた。そこでは、もう、別れもない。

愛する人との別れは、悲しい。誰も座っていない、空の座席を見る度に、涙が溢れる。でも、愛する人は、天国で、私を待っていてくれる。

この地上に生きる私たちは、卑しい土の器。だから、主をはっきりと、見ることが出来ない。

愛にも欠けている。そんな地上の家は、まことの家とは言えない。主を間近に、見ることができる、天の家こそが、私たちのまことの家なのだ。

天に一人が、増し加えられた。私たちを、天国に手繰り寄せる、感謝と賛美の鎖の輪が、更に大きくなった。天にある、まことの家に、一人が増し加えられた。そこでは、別れもなく、愛する人を失うこともない。

イエス様、どうか、あなたと共に座る、天の家の席を、私たち全てに、与えてください。

格調高い詩なので、平易な言葉に、言い換えることは、大変難しいですが、このような思いが、この詩には、込められていると思います。

この詩は、言っています。天国に一人が、増し加えられたことによって、私たちを、天国に手繰り寄せる、感謝と賛美の鎖の輪が、更に大きくなった。

愛する信仰の先輩が、天国に移られたことによって、私たちが、天国に行く道筋が、更に、整えられた、と言っているのです。かつて、地上において、私たちを、信仰に導いてくれた、先輩方が、今は、天国において、私たちが、天国に入るための、道備えを、してくれている、というのです。何と、感謝なことでしょうか。

クリスチャンは、誰一人として、自分だけで、信仰に入ることはできません。

キリスト教信仰とは、自分一人で修業をして、悟りを開く、というようなものではありません。

必ず誰かを通して、神様の御言葉を聞き、主イエスの救いを、教えてもらって、信仰に入れられたのです。その導き手は、必ずしも、牧師であるとは限りません。

私たちが、出会った、様々な人たちの、活き活きとした、信仰の歩み。それを通して、私たちは、神様の恵みについて、身をもって、教えられたのです。

先程、ヘブライ人への手紙を読んで頂きました。この手紙には、旧約聖書の時代に生きた、様々な信仰の先人たちの、名前が紹介されています。

何人もの人が登場していますが、その中心人物は、やはりアブラハムです。

今朝の御言葉の直前には、そのアブラハムの信仰が、語られています。

8節には、アブラハムは、「行き先も知らずに出発した」、と書かれています。

「行き先を知らずに出発する」。昔から、これは、信仰の極致であると、言われてきました。

でも、「行く先を知らずに出ていく」とは、今の私たちにとって、どのような意味を、持っているのでしょうか。寅さんのように、当てのない旅に、ふらっと出て行くことでしょうか。

勿論、そんなことでは、ありません。

この御言葉が、私たちに、教えていることは、信仰生活の「行き先」は、自分が決定するものではない、ということです。ですから、それは、いわゆる「人生設計」とは違います。

誤解しないで頂きたいのですが、人生設計することを、否定しているのではありません。

しかし、自分が立てた人生設計を、絶対に手放さない。あくまでも、それに固執していく、という生き方は、果たして、本当に人を、幸せにするだろうか。そう問い掛けているのです。

信仰とは、必要があれば、自分の立てた人生設計を、潔く手放して、神様に委ねる生き方をすることなのです。自分が立てた人生設計に、しがみつくのではなく、神様のご計画に、信頼して生きていく。それが、信仰者の生き方です。

私たちは、しばしば、誤解します。自分が計画した通りに、物事が進むことが、幸せを保証する、と思い込んでしまうのです。

しかし、私たちが、幸せに暮せるかどうか。それは、必ずしも、自分の立てた計画が、その通りに、実行されることによって、もたらされる訳ではありません。

私たちの人生の目的は、計画を遂行すること、ではありません。計画を実行するために、人生があるのではなくて、より良い人生を生きるために、計画を立てるのです。

計画が最も大切で、それに合わせるために、人生があるのではないのです。

人生を、どう生きるかということが、最も大切で、計画はそれを支えるものなのです。

人生は、計画通りには進みません。計画通りに行かないのが、人生なのです。

箴言19章21節は、こう言っています。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」

私たちの立てる計画は、決して完全ではありません。完全でないものを、完全のように思い込んで、もっと大切な神様の御心を、見失わないようにしたいと思います。

アブラハムは、自分の計画ではなくて、神様が立てたご計画に従って、生まれ故郷を旅立ちました。しかし、その旅の、行き先は知らされていませんでした。けれども、カナンの地まで来た時に、神様が、ここが、あなたに与える、約束の地だと言われたのです。

そうであるならば、そこに家を建てれば、良いのでないかと思います。

そうすれば、そこが安住の地、新しい故郷になる筈です。

ところが9節を見ますと、アブラハムは約束の地に住んでも、そこを他国としたというのです。「他国に宿るように」住んで、きちっとした家を造らないで、テントに住んだのです。

そのことを、13節の御言葉は、語っています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」

アブラハムは、自分は、この地上では、よそ者であると言っています。では、アブラハムの、本国は、どこにあったのでしょうか。彼の本国は、天にあったのです。

天にある故郷を、仰ぎ見つつ、彼は、地上の旅を、歩み続けたのです。

ここに、「仮住まい」という言葉が出て来ます。最近は、「仮住まい」という言葉は、あまり聞かれなくなりました。

代って、「仮設住宅」という言葉が、頻繁に聞かれるようになりました。しかし、仮設住宅も、本来は、仮住まいである筈です。災害のために、一時的に住む筈の、家であった筈なのです。それなのに、仮住まいの筈の、仮設住宅に、長い期間住むことになっている方々が、大勢おられることに、本当に心が痛みます。

年配の方は、仮住まいという言葉で、戦後の焼け跡に建てられた、バラック建ての住まいを、連想されるかもしれません。私が、子供の頃は、まだバラック建ての家が、たくさんありました。今は、そのような仮住まいに、住んでおられる方は、少ないと思います。

でも、今朝の御言葉は、言っています。私たちの、この地上での生活は、所詮、仮住まいなのだ。どんなに豪華で、どんなに快適な家に、暮らしたとしても、所詮、この世の生活は、仮住まいであって、仮の家に過ぎないのだ。聖書は、そう言っているのです。

では、その仮住まいの生活は、暗くて、不自由で、侘しい暮らしなのでしょうか、

聖書は、そうではない、と言うのです。

「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」

ここにあるのは、希望と喜びです。約束された希望を、遥かに望み見て、喜びの声をあげ、自分たちが、よそ者であり、寄留者であると、堂々と言い表すことができる。

そこには、迷いも、不安も、恐れも、感じられない。それが、信仰者の姿なのだ。

聖書は、そう言っているのです。

これらの人びとは皆、信仰を持って死んだ。よそ者として死んだ。

よそ者として死にながらも、よそ者であることを喜んだ。まだ手に入れることができない、天の都を、遥かに望みながら、喜びに溢れた、というのです。

16節に、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」と書かれています。

信仰とは、故郷を出て行くことです。そして、天にある故郷を仰ぎつつ、旅をすることです。

アブラハムは、神様が、約束してくださった、天の都を、はるかに望み見て、その希望に生きたのです。ですから、困難に満ちていても、仮住まいの生活を、喜びをもって、力強く歩むことができたのです。

私たちも、アブラハムと同じように、天に故郷を持つ旅人です。神様が、用意してくださった、天の住まいを、望み見て、歩む旅人です。

そのことを、主イエスも、弟子たちに、教えておられます。

ヨハネによる福音書14章には、十字架に向かわれる主イエスが、弟子たちに語った、訣別説教が、記されています。そこで、主イエスは、こう言っておられます。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

私たちが、どこか遠い所に、旅に出るとします。未だ一度も行ったこともない、遠い所です。

しかし、既に、そこに素晴らしい宿が、予約されていて、その代金も、払い込まれている。

最高の宿が、既に用意されている。そうであれば、安心です。

主イエスは、私たちのために、天国に、場所を用意していてくださる、というのです。

最高の住まいが、既に、天に用意されている。しかも、たくさん用意されている。

だから、そこが満員になって、入れないというようなことはない。

そこには、勿論、主イエスもおられます。主イエスのおられる所に、私たちは、いつもいるようにされる。主イエスご自身が、そう約束してくださっているのです。

私たちは、その約束を、望み見て、喜びをもって、歩むことができるのです。天の故郷を、待望しつつ旅をする。それは、この世を最後の拠り所としない、ということです。しかし、だからと言って、この世の生活を、いい加減に生きて良い、ということではありません。

私たちは、この世に生きるものとして、この世に、忠実であることが、求められているのです。与えられた、この世の生活を、真剣に歩むことが、求められています。

しかし、この世の旅路を、真剣に歩むということは、決して、容易いことでは、ありません。

アブラハムの人生も、決して、平坦なものではなく、困難の連続でした。

困難が続く旅において、尚も、天にある故郷を仰ぎ見て、希望をもって歩む。それは、決して、簡単な事ではないのです。

ある牧師が、自分の母親について、書いている文を、読んだことがあります。

その母親は、長女を、ということは、その牧師にとってはお姉さんに当たる娘を、広島の原爆で、失いました。その娘さんが、17歳の時でした、

なぜ、私の娘は、あのようなむごい、原爆症の苦しみの中で、死ななければならなかったのか。神様を、呪いたくなるような思いと、信仰者としての自覚との、激しい格闘の日々が、続きました。母親は、毎朝、聖書を読んでは、古いわら半紙に、いくつかの短歌を書いて、その闘いを、記しました。その中に、このような、歌があります。

「夜も昼も 地をはい回る 母ごころ 神許しませ しばらくの間を」

娘さんの死を思うとき。この母の心は、夜も昼も、地べたをはい回るような思いに覆われる。

御心だからと、単純に受け入れることなど、とても出来ない。神様、しばらくの間、あなたに、文句を言うことを、許してください。そんな、思いを、詠ったものだと思います。

「夜も昼も 地をはい回る 母ごころ 神許しませ しばらくの間を」

しかし、それから、60年近く経って、この母親が、亡くなる寸前、彼女は、息子の牧師に、こう言ったそうです。「神様のなさることは、何一つ間違いがなかったよ。」

辛く、苦しかった、旅路の末に、この言葉が、出てきたのです。

「神様のなさることは、何一つ間違いがなかった。」 これが、天の故郷を熱望して、旅した信仰者の、最後の言葉だったのです。

今朝、私たちが覚えている、信仰の先輩たちの、殆どの方が、戦争を体験されています。

軍国主義で、塗り固められた、青春の日々。明日の命さえも分からない、戦時中の日々。

何もかもが、不足していた、戦後の混乱期。

そのような困難な時代を、生き抜いてこられました。恐らく、地べたをはい回るような思いで、毎日を生き、子どもを育てて来られたのだと思います。

神様、なぜですか。なぜこのようなことが、起こるのですか。このような叫びを、何度も神様に、ぶつけたことが、あったと思います。

しかし、そんな中でも、天に約束された、故郷を仰ぎ見て、力を与えられ、希望を見出して、生き貫かれたのです。

そして、「神様のなさることは、何一つ間違いがなかった」、と言い残して、天に召されて行かれたのです。

このような、信仰者を。神様は、喜んでくださいます。

16節に、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」とあります。

これは、まことに慰めに満ちた言葉です。

神様は、この私の神と呼ばれることを、恥とはなさらない。この私の神になっていてくださる。この世の旅路には、さまざまな困難があります。しかし、いつも神様は、私の神でいてくださいます。私が、どんなに迷っても、どんなに惨めになっても、神様は、私の神でい続けていてくださいます。

お前のような、だらしない者の神であるなどとは、恥ずかしくて口にもできない。そんなことを、言われる神様ではないのです。

私は、あなたの神だ。今も、そして、永遠に、あなたの神でいる。それが、私の意志なのだ。この約束は、決して、変わらない。

たとえ、あなたが、地べたを這いずり回るような、思いの中で、私のことを、忘れることがあろうとも、私が、あなたを忘れることは、決してない。

私が、あなたの神であることは、決して変わらない。神様は、そう言われているのです。

そのような神様に呼ばれ、そのような神様を、私たちの神様と、させていただける幸いを、心から感謝したいと思います。