「約束の時、約束の救い」
2017年12月24日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 4:1~7
16日に、キッズ・チャーチの「子どもためのクリスマス」、が行われました。
初めに礼拝が献げられましたが、その礼拝で、子ども讃美歌の「神さまのお約束」を、皆で、賛美しました。恵泉幼稚園でも歌っている讃美歌なので、子どもたちもよく知っていました。
1節はこう歌っています。 『昔ユダヤの 人々は/神様からの お約束/尊い方の お生まれを/嬉しく待って おりました。』
2節、 『尊い方の お生まれを/みんなで楽しく 祝おうと/その日数えて 待つうちに/何百年も 経ちました。』
そして3節、 『ある日天の 御使いは/喜びなさい 神の子が/みんなのために お生まれと/高いお空で 告げました。』
この讃美歌で、子どもたちが歌っていたのは、こういうことです。
ユダヤの人たちは、尊いお方がお生まれになって、自分たちを救ってくださるという、神様の嬉しい約束の実現を、ひたすら待っていました。
しかし、その時が、なかなか訪れず、とうとう何百年も経ってしまいました。
ところが、ある日突然、天に御使いが現れて、神の御子がお生まれになったという、喜びの知らせを告げました。
子どもたちが歌っていた、救い主が来られる、という神様のお約束。それは、旧約聖書を通して、繰り返して、告げられていた約束です。
この約束は、人間の行いや功績に関係なく、神様の方から、先立って、与えられました。
聖書は言っています。人間が救われるのは、神様が、あなたを救うと、約束してくださった。その約束の実現によるだけなのだ。だから、その約束を信じて、待ちなさい。
そして事実、その約束は、空しくはならなかったのです。反故にはならなかったのです。
その約束を反故にしないために、神様の方から、手を打たれました。それが、主イエスのご降誕の出来事、クリスマスです。
そうであれば、キリスト者にとって、最も大切なことは、私たちも、この神様の約束を、反故にしない、ということです。この約束を、無意味なものとしない、ということです。
この約束は、人類全体に与えられたものですが、また、私たち一人一人にも、それぞれに、与えられています。
私たち一人一人に、約束された救いと、その約束が実現する、約束の時があるのです。
約束された救いの出来事は、私たち全てに、共通しています。しかし、約束の時は、皆、それぞれに、異なっています。
今朝、この礼拝に於いて、平野恵美子さんが、バプテスマを受けられます。恵美子さんが、初めて教会に来られてから、実に30年が経ちました。
教会に来られて直ぐに、バプテスマを受けられる方もおられます。一方では、30年という長い準備の時を経て、バプテスマを受けられる方もおられます。
約束の時は、様々です。でも、神様は、お一人お一人に、最も善い「約束の時を」、用意してくださっているのです。
私の友人に、人生の最晩年に、バプテスマを受けられた方がおられます。
奥様は、若い時からのクリスチャンで、ご主人の救いのために、長い間、本当に真剣に祈っておられました。しかし、ずっとご一緒に、礼拝を守っておられるのに、そのご主人は、なかなか決断されません。そして、奥様が、ご病気で、先に召されました。
そのご葬儀の時です。ご主人が、涙ながらに挨拶されました。
「今日私は、どれ程深く、家内に祈ってもらっていたかが、良く分かった。私も洗礼を受けて、残された日々を、家内と同じ信仰の道を、歩んでいきたい。」
私は、ご葬儀の席上で、受洗を志願された方を、初めて見て、深い感動を覚えました。
しかし、その一方で、なぜ奥様がご存命中に、決意されなかったのか。奥様が、ご存命であったら、どれ程、喜ばれたことだろうか。それを思うと残念だ、という思いを持ちました。
しかし、神様は、その時を、その人にとっての、「約束の時」と、定めておられたのです。
それぞれの時は、神様が、「善し」とされた時です。神様が、善しとされない限り、何事も起りません。神様がなされることは、皆その時に適って、美しいのです。
それは、私たちが、予側することが、出来る時ではありません。或いは、私たちの努力によって、早めることも、遅くすることも出来ない時です。
すべてが、神様ご自身のご計画に従って、起こされたことなのです。
そして、主イエスご自身も、神様が、善しと判断された時に、この世に来てくださいました。
今朝の御言葉の4節に、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」、とあります。
この御言葉は、使徒パウロによる、数少ないクリスマスの記述です。
神様は、約束の時に、約束の救いである、主イエスを、「女から、律法の下に生まれた者としてお遣わしになった」、と書かれています。
「女から」ということは、主イエスが、私たちと同じように、自然の肉体を取って、来られたことを意味しています。神の御子が、生身の人間の生を、生きられたということです。
目に見えるお姿で、お生まれになった。誰にでも認識できるお姿で、生まれてくださった、ということです。
しかも、「律法の下」に、生まれてくださった、というのです。
律法に支配され、自由を失っているイスラエルの中に、ご自身を置いてくださった。
そして律法が、私たちに負わせる罪の責任を、私たちに代わって、負ってくださり、十字架に死んでくださった。
4節の御言葉は、パウロによる、クリスマスの恵みの要約である、と言うことができます。
今朝は、ここで言われている律法を、今の私たちに適応して、もう少し広く、捉えてみたいと思います。今、私たちを縛り付け、自由な喜びに生きることを、妨げているもの。
それは、一体何でしょうか。先ず、考えられるのが、世間体とか見栄ではないでしょうか。
私たちは、世間体を気にしたり、見栄を張ったりすることによって、自由に生きることが、できなくなっています。
クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「自分の中から、世間体を取り去ったら、殆どの悩みは解決する」、と言っています。本当に、その通りだと思います。
また、不必要な見栄を張ることによって、自分自身を、不自由な世界に追い込んで、ますます苦しくなってしまう、ということもよくあります。
或いは、世の中の価値観や、社会通念に振り回されて、自由に生きられない、ということもあります。良い親とは、こうあらねばならない。優れた社会人とは、こうあらねばならない。
社会が作った、そういう基準に、合わせなければならない。その様に生きる時、私たちは、自由を失っています。
世間体、見栄、世の価値観や社会通念。そのようなものは、現代において、私たちを、縛り付けている律法である、とも言えるのではないでしょうか。
パウロが3節で言っている、「世を支配する諸霊」というのは、そのようなものを指す、と言っても良いと思います。
この世には、人間を縛っている、様々な決まりや、しがらみがあり、それらを司っている、霊があるというのです。それが、「律法」と同じように、人間を支配している、というのです。
生身の人間は、皆、そのような「諸霊の下」にいる、ということができると思います。
それらの諸霊に縛られて、不自由な奴隷の状態にある、と言えます。
クリスマス以前の人間の現実、主イエスに出会う前の、私たちの現実。それは、そのように自由を失い、抑圧された生き方を、生きていた姿でした。
主イエスは、そのような律法の束縛や、様々な社会のしがらみの、只中にお生まれになりました。主イエスが、「飼い葉桶」の中に、誕生されたということは、「律法の下」に生まれた、ということを表しています。
人間の、不自由な奴隷状態の中に、主イエスは、お生まれになられたのです。
それには、はっきりとした目的がありました。5節が、その目的を、明らかにしています。
「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。
「律法の支配下にある者を贖い出す」ために、主イエスご自身が、「律法の下」に生まれてくださらなければ、ならなかったのです。
律法の下に生まれて、初めて、その支配から、贖い出すことが、出来るからです。
マタイによる福音書の冒頭に、主イエスの家系が、記されています。聞き慣れない、カタカナの名前が、延々と記されていて、読むのに苦労します。
なぜ、このような家系が、冒頭に記されているのでしょうか。
主イエスが、ダビデの家系から、お生まれになった。そのことを証明したい、という意図もあるでしょう。しかし、聖書は、主イエスは、ヨセフの子としてではなく、マリアが聖霊によって、身籠った子として、お生まれになった、と記しています。
ですから、長々と家系を記すことは、必ずしも必要ではない筈です。では、どうして、家系が記されているのでしょうか。
それは、主イエスが、この家系から、生まれたことを、証明するため、というよりは、主イエスが、この家系へと、生まれてくださった、ということを、伝えたかったからだと思います。
主イエスは、この家系が示しているような、この世の現実へと、生まれてくださったのです。
この家系には、世間体や、見栄や、人間の欲望によって、自由を失い、人間としての、本来の生き方を、生きることができなかった、多くの人の名前が、記されています。
家督を奪うために、兄を騙したヤコブ。姑のユダによって、子どもを得たタマル。遊女のラハブ。異邦人のルツ。家来の妻を横取りしたダビデ。
数え上げれば、キリがないほど、スキャンダルに満ちた家系です。この家系は、まさに、人間社会の縮図である、と言えます。
主イエスは、このような人間の現実の、只中へと生まれてくださったのです。それは、私たちを、律法の呪いから、贖い出してくださるためでした。
こうして、私たちは、奴隷の状態から、「神の子」とされたのです。
そのためのクリスマス。そのための主イエスの、ご降誕でした。
私たちは、主イエスが来られなかったなら、奴隷状態のままであったのです。
クリスマスは、私たちを、「律法の支配」から贖い出し、「世を支配する霊」から救い出してくださった、神の出来事なのです。
そして、更に、クリスマスの出来事は、「わたしたちを神の子とする」、というのです。
神の子とされる、ということは、もはや奴隷ではない、ということです。
神の子とされる、ということに、自由があります。平安があります。
神の子とされることこそが、最高の救いなのです。
これ以上大きなこと、これ以上すばらしいことは、考えられません。「神の子とされた」、ということが分かったら、救いが分かった、ということです。
「神の子とされた」、ということは、人間誰しも、生まれながらに神の子である、ということではない、ということを表しています。
そうではなくて、およそあり得ないこと、驚くべきことが、クリスマスに起こったのです。
誰だって自分を見て、自分は神の子だ、などとは言えないと思います。皆さんの中で、自信をもって、そう言える人は、おられるでしょうか。
しかし、そのような私たちが、それにもかかわらず、神の子とされたのです。
自分が変わったからではありません。主イエスが、来て下さったからです。
神の独り子が、飼い葉桶に生まれてくださり、そして、十字架にかかられたことで、私たちは、「神の子」とされたのです。だからもう、私たちは奴隷ではない、と言われているのです。
もはや「世を支配する諸霊」や、「律法」の奴隷ではない。神の子とされているというのです。
そのことが、よく分かる事実がある、と聖書は語っています。
その事実とは、私たちが祈っている、「祈り」だというのです。あなた方は、「父なる神様」と、祈っているではないか、というのです。
「天にまします、我らの父よ」と、呼び掛けているではないか。「アッバ、父よ」と、祈っているではないか、というのです。
「アッバ」というのは、主イエスが、普段話されていた、アラム語の言葉です。
これは、小さな子どもが、お父さんを呼ぶ時の言葉です。子どもは、大好きなお父さんに、親しみを込めて、この呼び名で呼ぶのです。「アッバ」と、呼び掛けるのです。
私たちに当てはめれば、「パパ」とか、「お父ちゃん」、という呼び方です。
そういう呼びかけで、主イエスは、父なる神様に、親しく祈ったのです。
更に、そのように祈ることを、弟子たちに許してくださり、勧めてくださったのです。
しかし、もともとユダヤ人は、こういう呼びかけで、祈ることはなかった、と言われています。
ですから、主イエスが、「アッバ、お父ちゃん」、と呼び掛けて、祈られた時、それを聞いたユダヤ人たちは、びっくりしたと思います。
皆さん、どうでしょうか。私たちは、神様のことを、「天の父なる神様」、と呼び掛けて祈ります。でも、その時、子どもが、大好きなお父さんを、「パパ、お父ちゃん」、と呼ぶような、親しみを込めて、祈っているでしょうか。
神様のことは、大好きだけれども、「パパ」とか、「お父ちゃん」と呼ぶのは、余りに畏れ多い。そんなことは、許されない。そう思うのではないでしょうか。その気持ちは、良く分かります。
でも、主イエスは、言われています。
「良いのだよ。そう呼び掛けて良いのだ。私は、そのために、来たのだ。あなた方を、神の子とするために、私は命をささげたのだ。
だから、遠慮なく、パパ、お父ちゃんと呼んだら良い。そう呼ぶのを、ためらうことは、私の救いが、まだ分かっていないからではないか。私の救いの大きさを、信じていないからではないか。あなた方は、自分が、神の子とされたことを、本当に分かっているのか。十字架の意味を、本当に分かっているのか。」
主イエスは、弟子たちに、「アッバ」と呼び掛けて、祈って良いのだよ、と言われました。
同じように、今、主エスは、私たちに、「パパ、お父ちゃん」と、呼び掛けて、祈って良いのだよ、と言ってくださっているのです。
私たちは、主イエスによって、神様のことを、「パパ、お父ちゃん」、と呼ぶことができるような、親しい交わりに、入れられたのです。
私たちが、「パパ、お父ちゃん」、と祈ることが、できるようになった出来事。
それが、クリスマスなのです。
クリスマスには、「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」(いと高きところには、神に栄光があるように)。この歌声が響きます。しかし、それだけではありません。
同じように、「アッバ」の呼び声も、クリスマスの歌声として響くのです。
「アッバ、父よ」の祈りは、「喜びの祈り」です。私たちは、ともすると、祈れなくなる時があります。苦しいのに祈れない。辛いのに祈れない。そういうことが、しばしばあります。
いえ、苦し過ぎて、祈れないのです。辛過ぎて、祈れないのです。
そんな時、どうしたらよいのでしょうか。無理やり、祈らなければならないのでしょうか。
そうではありません。「ねばならない」は、「アッバ」の祈りではありません。
子どもは、本当に辛い時、本当に苦しい時、ただ「パパ」、としか言えません。
それで良いのです。父なる神様は、「何も言わなくても良いのだよ」と言って、私たちを抱きしめてくださいます。
ですから、「アッバ」の祈りは、どんな時にも、祈れます。どんな時にも、祈って良いのです。
祈らなければならない、のではなく、祈って良いのです。命じられているのでなく、祈ることが許されているのです。どんな時にも、「父よ」と、呼び掛けて、祈ってよいのです。
なぜなら、クリスマスの出来事によって、私たちは、どんな時にも、神の子とされているからです。主イエスが、飼い葉桶に生まれてくださり、十字架に死んでくださった。その恵みの故に、神の子とされているからです。これが、クリスマスの恵みです。
神様は、約束の時に、約束の救いを、実現してくださいました。
世を支配する諸霊によって、捕らわれ、自由を奪われている、私たちを贖い出すために、独り子を、遣わしてくださいました。
クリスマスの出来事に込められた、この大いなる恵みに、心から感謝しつつ、喜びつつ、共に歩んでまいりましょう。