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柏牧師:過去の礼拝説教

「死にて葬られ」

2018年03月25日 聖書:ヨハネによる福音書 19:31~42

先程ご一緒に、「使徒信条」を唱えました。その中で、私たちの主、イエス・キリストは、「死にて葬られ、陰府にくだり」と、心をこめて告白しました。

ある人が、この使徒信条の中で、私たちが、主イエスと、一緒の経験を、することが出来るのは、この部分だけである、と言っています。「死にて葬られ、陰府にくだる。」

ここにおいてのみ、主イエスと、私たちの歩みは、全く一つになる、と言うのです。

確かに、聖霊によりて宿ることも、処女マリアより生まれることも、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けることも、十字架に死ぬことも、私たちは、経験することが出来ません。

しかし、死にて葬られることは、私たちすべてについて、当てはまることです。

私たちも、すべて、死にて葬られ、という道を、主イエスと、全く同じように、辿ります。

ここで、主イエスの歩みと、私たちの歩みが、初めて一つとなります。

ここにおいて、主イエスは、私たちと、一緒になってくださった、と言うことが出来るのです。

まことの神である、主イエスが、私たちと同じ、まことの人として、死んでくださり、そして葬られた。教会は、この主イエスの埋葬を、決して小さな出来事とは、捉えていません。

主イエスの埋葬も、私たちの救いの出来事として、大きな意味を持っているのです。

主イエスは、確かに死なれました。埋葬されたことは、その確かな証しなのです。

本来、死ぬ必要のないお方が、私たちのために、私たちに代って、死んでくださった。

死人を甦らせる力を、お持ちの方が、死んでくださった。そして、暗い墓に葬られた。

しかし三日目に、その墓を打ち破り、復活してくださった。呪いの死を、滅ぼしてくださった。

だから、私たちは、もはや、滅びの死、呪いの死を、恐れなくても、良くなったのです。

今朝の御言葉には、この主イエスの、死と埋葬の出来事が、書かれています。

主イエスが、十字架の上で、息を引き取られたのは、金曜日の午後3時でした。

ユダヤの暦では、日が暮れると、次の日になってしまいます。

次の日は土曜日、ユダヤ教の安息日です。旧約聖書の律法では、処刑された死体を、呪いの木にかけたままで、聖なる安息日を、迎えることは、許されませんでした。

特に、これから迎える安息日は、過越の祭りの第一日目となる、特別の安息日です。

聖なる過越の祭りを、処刑された罪人を、木にかけたままで、祝う訳にはいかないのです。

そのため、ユダヤ人たちは、死刑囚の死を早めて、その日の内に、遺体を片付けられるようにして欲しい、とピラトに願い出ました。

十字架の死を、早めるための処置。それは、大きな鉄の金槌で、十字架にかけられた人のすねを、勢いよく打ち砕く、というものでした。すねを砕かれた死刑囚は、自分の体を支えられなくなり、窒息して、死に至るのだそうです。

ピラトの命令で、ローマの兵士たちは、他の二人の男の足を折って、その命を絶ちました。

その後、主イエスに近づいてみると、主イエスは、既に、息絶えておられました。

主イエスの死を早めたのは、裁判の時に受けた、あの惨たらしい、鞭打ちのためであった、と思われます。しかし、兵士たちは、念には念を入れようと、したのでしょう。

兵士の一人が、槍で主イエスの脇腹を、突き刺しました。

「すると、すぐ血と水とが流れ出た」、と御言葉は記しています。

この時、流れ出た血と水は、心臓が既に停止していた、という死の事実を、告げています。

しかし、それだけではありません。それ以上に、聖書が、私たちに、指し示していることがあります。

この時、流れ出た血は、私たちの罪を赦す、贖いの血潮なのです。ヘブライ書9章22節には、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」、と書かれています。

この御言葉の通り、まことの神であり、まことの人である、主イエスの血潮によらなければ、私たちの罪の赦しは、あり得ないのです。

罪のないお方が、私たちに代わって、流してくださった血潮。この血潮は、私たちに与えられた、神様の赦しを表しているのです。

また、血と共に流れ出た水は、主イエスの十字架によって、与えられる、新しい命を表わしています。主イエスの血潮によって、贖われた私たちは、新しい命に、生かされるのです。

主イエスは、ヤコブの井戸のほとりで、サマリアの女に、こう約束されました。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

主イエスが与えてくださる水は、私たちの内で泉となって、そこから命の水が流れ出るのです。この時、主イエスの御体から流れ出た水は、永遠の命の水を、表しているのです。

岩渕まことさんという福音歌手がいます。岩渕さんは、十字架から溢れ流れる水に、もう一つの意味を見出しています。この水は、父の涙ではないだろうか、と示されたのです。

岩渕さんには、亜希子ちゃんという、愛する娘さんがいました。その亜希子ちゃんに、脳腫瘍が発見されました。小学校1年生の時でした。

1年2ヶ月に亘る、闘病の末に、亜希子ちゃんは、遂に、天に召されて行きました。

岩渕さんは、愛する娘さんを失った悲しみで、素直に祈ることもできないほど、心が塞がれました。悲しみのあまり、信仰を失いそうになりました。

しかし、その悲しみの只中で、岩渕さんは、見たのです。十字架につけられた、愛する独り子を、じっと見つめている、父なる神様のお姿を、心の目で見たのです。

その父なる神様が、流されている涙を、見たのです。そして、その涙が、この私を赦すために、流された涙だと知ったのです。

その時、岩渕さんの口に、一つの歌が、生まれました。それが、「父の涙」という歌です。

【父の涙】    作詞・作曲 岩渕まこと

『心に迫る父の悲しみ/愛するひとり子を十字架につけた/人の罪は燃える火のよう/愛を知らずに今日も過ぎて行く/十字架からあふれ流れる泉/それは父の涙/十字架からあふれ流れる泉/それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは/愛するひとり子の傷ついた姿/人の罪をその身に背負い/父よ、かれらを赦してほしいと/十字架からあふれ流れる泉/それは父の涙/十字架からあふれ流れる泉/それはイエスの愛』

岩淵さんは、父なる神様も、愛する子を失う悲しみに、涙したことを、示されたのです。

しかし、また、岩渕さんは、もう一つのことを、示されました。

亜希子ちゃんの死は、避けることが出来なかった。でも、父なる神様は、愛する独り子を、十字架から下ろそうと思えば、できたのです。でも、父なる神様は、そうされませんでした。

「なぜ、私をお見捨てになるのですか」、という独り子の叫びを、お聞きになりながらも、じっとそれに、耐えておられたのです。

涙を流されつつ、独り子と共に、苦しまれたのです。この私たちを救うために、その耐え難い苦しみを、負ってくださったのです。

皆さん、私たちの神様とは、このようなお方なのです。このお方が、私たちの、神でいてくださることを、心から感謝したいと思います。

このお方が、今も、私たちと共にいて、私たちを、見つめていてくださるのです。

私たちは、このお方の、眼差しの中に、いつも留まり続けていたい、と願わされます。

38節からは、主イエスの葬りの出来事になります。

ここで、主イエスを葬ったのは、アリマタヤのヨセフとニコデモです。

マルコによる福音書によれば、このアリマタヤのヨセフは、身分の高い議員で、神の国を待ち望んでいた人である、とされています。

ヨセフは、主イエスの弟子でしたが、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していました。

主イエスの弟子であることが、公になることで、今の恵まれた立場を、損なうことを、恐れたのです。そのような弱さを持った人でした。

しかし、神様は、この人を用いられました。しかも、主イエスの葬りという、大切なご計画のために、この人を用いられたのです。

考えてみますと、この時は、ヨセフが、弟子として、名乗りを上げるには、最悪の時でした。

主イエスが、十字架刑で、殺された直後なのです。他の弟子たちは、皆、主イエスを見捨てて、逃げ去っていました。

ヨセフとしても、自分の身を、一番隠していたい時であった筈です。そういう最悪の状況の時に、この人は、名乗りを上げたのです。

マルコによる福音書には、この時、主イエスの十字架の死に立ち会った、ローマの百人隊長の言葉が記されています。

その百人隊長は、主イエスの死に、何か特別に神聖なものを、感じ取ったのだと思います。

ですから、「本当に、この人は神の子だった」、と思わず口にしたのです。

恐らくこの時、ヨセフも、この百人隊長と同じように、主イエスの死の気高さに、打たれたのではないかと思います。

罪なきお方が、人々の悪意と、妬みによって、なぶり者にされている。

しかし、その苦しみの只中で、このお方は、尚も、自分を十字架にかけた人たちのために、執り成しの祈りを、ささげておられる。隣で、十字架にかけられている、犯罪人の救いを、約束されている。そして、ご自分の母のことを、心にかけておられる。

ヨセフは、その十字架の主イエスに、言いようのない、神聖なものを、感じ取ったのです。

そして、もはや自分の信仰を、隠しておくことが、できなくなったのです。今こそ、神様が、自分を必要とされている、と示されたのではないでしょうか。ですから一歩踏み出したのです。

私たちにも、そのような時が、あるかも知れません。

今こそ、お前が、名乗りを上げる時だ。私は、お前を必要としている。私は、この時のために、お前をこの世に、生れさせたのだ。このような御声を、聞く時が、あるかも知れません。

そういう時は、このヨセフのように、「主よ、どうか、今こそ私を用いてください」、と言って、立ち上がり、一歩踏み出す者で、ありたいと思います。

今朝の御言葉には、もう一人、静かに立ち上がった人が、登場しています。ニコデモです。

ニコデモも、ヨセフと同じように、最高議会の議員でした。人々から、尊敬されていた人でした。そして、心の中で、主イエスのことを、秘かに求めていた、人であったのです。

ニコデモは、かつて、ユダヤ人の目を恐れて、夜中にこっそりと、主イエスを訪ねました。

そのことは、このヨハネによる福音書の3章に書かれています。その時、ニコデモとの対話の中で、主イエスは、あの有名な、3章16節の御言葉を、語られました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

ニコデモは、あの夜の、主イエスのお言葉と、主イエスの眼差しを、忘れることができなかったと思います。そして、十字架の主を見上げた時に、あの夜の、主イエスのお言葉の意味が、初めて分かったのではないかと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、というのは、このことだったのか、と示されたのです。まさに今、神様は、その独り子を、お与えになっておられる。

そのことが分って、ニコデモの全身を、衝撃が貫いたことだろうと思います。

そのニコデモが、ヨセフの大胆な行動に、誘われるようにして、一歩踏み出しました。

ある人が、「ヨセフの良き模範が、ニコデモの忠誠心を焚きつけた」、と言っています。

私たちにとっても、お互いの信仰を、高め合い、励まし合う、友の存在は、とても大切です。

自分だけでは、なかなか決断することが、できない時に、傍らで、誠実に励み、時には大胆に、時には熱く、そして愛をもって、主と教会に仕えている、信仰の友がいる。

その姿に、教えられ、励まされ、導かれることがあります。

茅ヶ崎恵泉教会が、そのように、お互いに励まし合い、助け合って、歩んでいく群れとなりますように、心から願っています。

この当時、十字架刑で処刑される人は、丁寧に葬られることは、なかったようです。

普通は、体を、引き摺り下ろして、捨てるだけであったようです。谷間に投げ捨てられて、野獣の餌食になることもありました。ですから、もし、この二人がいなかったら、主イエスのお体は、どこに葬られたかも、分からなくなっていたかも知れません。

そして、もしそうなっていたら、主イエスの復活の事実も、曖昧にされた可能性があります。

イースターの朝、墓が空であったということが、復活を裏付ける、重要な出来事となりました。しかし、主イエスが、どこに葬られたかも分からない、ということになれば、墓が空であった、という大切な出来事を、確認することも、できなくなってしまいます。

その意味でも、ヨセフとニコデモによる葬りの業は、非常に大切なことであったのです。

二人は、午後3時から、日没までの、短い時間に、一生懸命に働きました。

恐らく、このヨセフとニコデモの行動を、マグダラのマリアやその他の婦人たちは、心からの感謝をもって、見詰めていたと思います。

何度も、何度も、心の中で、手を合わせて、「ヨセフさん、ありがとうございます。ニコデモさん、ありがとうございます」と、言ったに違いありません。

それは、主イエスの弟子たちも、同じであったと思います。この時、逃げ隠れていた弟子たちは、後になって、このことを知らされ、恥ずかしい思いと共に、何と言って良いか、分からないほどの、深い感謝の思いを、この二人に抱いたと思います。

私たちも、もし、天国で、このアリマタヤのヨセフや、ニコデモに出会ったなら、思わず手を取って、「ありがとう」と、言いたくなると思います。

この時、ヨセフが、主イエスの遺体を納めたのは、自分のために用意してあった、新しい墓です。ヨセフは、図らずも、主イエスを、自分の墓に納めたのです。

でも、主イエスのご遺体は、このヨセフの墓には、長くは入っていませんでした。

三日目の朝には、甦って、墓から出られたからです。しかし、例え僅かな時間でも、主イエスが、自分の墓におられた、ということは、ヨセフにとっては、大きな喜びであったと思います。

しかも、主イエスは、その墓から甦ってくださったのです。そこに、自分も、いつかは身を横たえることになる。この墓から、主イエスは、甦ってくださった。そこに、自分も葬られる。

こんな大きな喜びは、ないのではないでしょうか。

主イエスが、ヨセフの墓に、入られたということは、私たちの墓にも入ってくださる、ということです。私たちも死んで、いずれ墓に入ります。しかし、そこは、既に、主イエスが、入ってくださったところなのです。

主イエスは、私たちが、いつ、どこにいようとも、共にいてくださるために、御自身が死んで、葬られてくださったのです。そして、そこから、甦ってくださいました。

私たちも、いつか、主イエスと共に葬られ、主イエスと共に、甦らせていただくのです。

いつか、主イエスが、私たちの名前を呼んで、「さぁ、起きなさい」と言って、手を取って起こしてくださる。その日を待ち望みながら、私たちは、眠りにつくことが出来るのです。

主イエスが、私たちと同じように、墓の中に、身を横たえてくださったからです。

そのようにして、主イエスは、どんな時にも、主でいてくださいます。生きている時も、死んでからも、私たちの主でいてくださいます。そこに、私たちの希望があります。

ある神学者が、東日本大震災直後に、「土曜日のキリスト」、と題して説教しました。

「土曜日のキリスト」というのは、面白い表現です。

主イエスは、金曜日の朝に、十字架にかかられました。金曜日のキリストは、まさに苦難の僕として、どこまでも私たちに、寄り添ってくださるお方です。

そして、金曜日の午後、キリストは息を引き取られ、墓に納められました。

土曜日のキリストは、まさに死者たちと共に、暗闇に横たわる冷たい骸(むくろ)です。

けれども、その「土曜日のキリスト」は、そのままで、終ってしまうのではありません。

「土曜日のキリスト」は、復活の日曜日の朝を、もたらせてくださるお方なのです。

まだ、光は射し込んではいません。でも、暗闇の向こうには、確かに明日があるのです。

土曜日の闇は、日曜日の光へと続く闇なのです。

金曜日の十字架において、どこまでも寄り添ってくださることを、確かに示してくださった主は、決して無力で、何もされないお方ではありません。

土曜日の暗闇の中にも、復活の朝の光を、指し示してくださるお方なのです。

私たちは、その希望に生かされながら、この世における、信仰の歩みを、続けていきたいと思います。