「命を受けるか拒むか」
2019年01月06日 聖書:使徒言行録 13:44~52
最近は、それほど見なくなりましたが、以前は、お正月には、晴れ着を来た若い女性が、町に多く見られました。
今から、もう50年も前になりますが、私が、ある銀行の支店で働いていた頃は、1月4日の仕事始めの日には、女子行員の多くが、きれいな和服を着て、出勤していました。
普段は味気ない銀行の職場が、パッと花が咲いたように、明るくなったのを覚えています。
晴れ着に身を包むと、気分も晴れやかになるのでしょうか、着物を着た女子行員たちは、いつもよりも、更に明るく、活き活きとしていたように、見えました。
元旦礼拝で、イザヤ書61章が読まれました。その2節に、「主が恵みをお与えになる年」という御言葉があり、それが説教の題になりました。
新しい年、2019年は、主が恵みをお与えになる年である、という希望が与えられました。
そして、その先の10節の御言葉を、感謝をもって、聴きました。
「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」
御言葉は言っています。「主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる」。だから、私は、主によって、喜び楽しみ、私の魂は喜び躍るのだ。
主が恵みを与えられるこの年に、私たちは、恵みの晴れ着をまとって、喜び踊ることができる。その幻を与えられ、喜びに満たされ、主を賛美いたしました。
今朝の御言葉にも、喜びに満たされて、主を賛美した人たちのことが、書かれています。
48節は、こう言っています。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。」
ここで、喜び賛美したのは、異邦人たちです。彼らは、「これを聞いて喜び、主の言葉を賛美した」、と書かれています。
では、異邦人たちが聞いたのは、一体、どのような言葉であったのでしょうか。
彼らが聞いたのは、パウロが語る、主の言葉でした。彼らはそれを聞いて、喜び、賛美したのです。
ところが、ここに、全く正反対の、反応を示した人たちがいました。ユダヤ人たちです。
ユダヤ人たちは、同じパウロの言葉を聞きました。しかし、彼らは、パウロの言葉を、喜び、賛美したのではなくて、逆に、パウロの言葉に反対して、口汚くののしったのです。
パウロの語った言葉に対して、全く逆の反応を示した、2種類の人たちがいたのです。
では、パウロは、一体、何を語ったのでしょうか。
パウロは、ピシディアのアンティオキアの会堂で、説教をしました。その説教の内容が、16節から41節に亘って、記されていました。先週、ご一緒に聴いた箇所です。
パウロは、イスラエルの歴史から紐解き、ダビデの子孫から、救い主が生まれるという約束を、語りました。そして、その約束が、イエス・キリストにおいて成就した、と語ったのです。
しかし、エルサレムの人たちは、その主イエスを受け入れず、十字架につけて殺してしまったこと。けれども、神様は、主イエスを、復活させてくださったことを、続けて語りました。
更に、主イエスの十字架と復活によって、自分の罪が贖われ、赦されたことを、信じるならば、誰でも皆、救われて、神様の前に、正しい者と見做される。
この驚くべき恵みが、今や、実現しているのだ、とパウロは語ったのです。
アンティオキアの会堂に集まっていた人々は、このような恵みの言葉を、これまで聞いたことがありませんでした。
彼らは、救われるためには、割礼という儀式を受けて、モーセの律法を、生涯に亘って、忠実に守っていかなければならない、と教えられていました。それ以外には、救われる道はない、と教えられていました。
しかし、パウロは、律法を守ることによってではなく、また割礼を受けていなくても、イエス・キリストを信じるだけで、義とされ、救われる、と説いたのです。
彼らは、驚きをもって、パウロの語る、恵みの言葉を聞きました。そして、その話を、更に続けて聞きたい、と思いました。
42節を見ると、彼らは、次の安息日にも、同じことを話してくれるように頼んだ、とあります。
次の聖日にも同じことを話してください。これは説教者にとって、大きな励ましの言葉です。
説教者は、いつも、主イエスの十字架の恵みと、復活の希望を語ります。繰り返して、同じことを語ります。なぜなら、それが、福音の本質だからです。
しかし、時々、迷うことがあります。いつも、同じことを、語っていて良いのだろうか。
皆さんから、飽きられてしまうのではないだろうか。「同じような説教はしないでください」。「あの話は、もう何回も聞きました」、と言われないだろうか。そういう不安を持ちます。
でも、人々は、ここで、「次の安息日にも同じことを話してください」、と願っている。
そうなのだ、福音は、繰り返して、語っていいのだ。いや、繰り返して、語らなければ、いけないのだ。42節の御言葉は、そのような、励ましと、導きを、説教者に与えてくれます。
十字架の恵みと、復活の希望は、繰り返して語らなければならないのです。
でも、全く同じことを、何回も繰り返すようになったら、それは、認知症を疑わなければなりません。もし、私がそうなったら、どうか、忠告していただきたいと思います。
さて、44節には、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」とあります。
「ほとんど町中の人」、というのは、いささか誇張した、言い方だと思いますが、そう思う程、多くの人たちが集まって、会堂が溢れるようになった、ということだと思います。
ところが、ユダヤ人たちは、この事態を見て、パウロのことを、口汚くののしって、反対しだしたのです。何故そうなったのでしょうか。その原因は、彼らの「ねたみ」だったのです。
恐らく、ユダヤ人たちは、自分たちが独占していると思っていた、神様の祝福が、異邦人にも与えられる、とパウロが言ったことに、腹を立てたのだと思います。
自分たちだけが、神の民であり、救いに与る者だ、というユダヤ人たちの誇りを、パウロが打砕いたのです。
ユダヤ人たちの誇り。それは、自分たちには、モーセの律法が、与えられている。そして、その律法を守ることによってのみ、救いが与えられる、ということでした。
ところが、パウロは、ただ主イエスを信じる、信仰によって救われるのだ、と説きました。
それは、ユダヤ人にとっては、救いの外にいると思って、見下していた異邦人と、自分たちとの、区別が取り払われ、自分たちの誇りを、否定されることだったのです。
ですから、ユダヤ人たちは、パウロが語った、恵みの言葉を、受け入れることができませんでした。
彼らは、異邦人と自分たちは違う、という優越感の下に、生き続けようとしたのです。
選ばれた民としての、自分たちの誇りに、固執しようとしたのです。
皆さん、このユダヤ人たちの姿は、私たちの姿でもある、と言えるのではないでしょうか。
私たちも、十字架の救いの恵みに、自分の心を、完全に明け渡すことができずに、尚も、自分の中にある、つまらない誇りに、しがみ付いている、ということはないでしょうか。
主イエスの福音の恵みは、私たちが持っている、自負や誇りを、打ち砕く力があります。
ですから、それが迫って来る時には、心の中に、葛藤や、抵抗が、生まれます。
ユダヤ人だけでなく、私たち一人一人の心の中にも、そのような戦いが、起きるのです。
後生大事に守っている、つまらない誇りを捨て去って、神様の恵みを、第一として生きるか、それとも、その誇りに、尚も、しがみついて生きていくか。
そういう二者択一を、迫られるのです。
実は、ここで、自分の誇りを捨てて、主イエスの恵みの下に生きる様にと、勧めているパウロ自身も、かつては、ユダヤ人としての誇りを、何よりも大切にして、生きていた人でした。
しかし、主イエスに出会って、その救いの素晴らしさ、その価値の大きさを知らされ、自分の誇りや能力など、何の価値もないことに、気付かされたのです。
その事を、パウロは、フィリピの信徒への手紙3章にて語っています。
そこでパウロは、主イエスと出会う前に、自分が大切にしていた、数々の誇りを、並べ立てています。自分は、生粋のユダヤ人で、しかも、名門のベニヤミン族の出身。律法に関してはファリサイ派に属し、非の打ちどころがないほど、熱心に律法を守ってきた。
しかし、パウロは、自分の誇りであった、これらのことを、キリストの故に、損失と見做すようになった、と言っているのです。
価値を失ったどころではないのです。損失とさえ思うようになった、と言っているのです。
その様な誇りが、キリストの恵みを受け入れるのに、妨げになるなら、そんなものは、損失でしかない。無い方が良いのだ、と言っているのです。
そう言った後で、パウロは、更に、こう続けています。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
今まで、自分が、何よりも大切だと思って来た、数々の誇りや特権が、主イエスの恵みの素晴らしさの前には、塵あくたのように見える、と言っているのです。
福音の恵みは、そのような、価値の大転換を、私たちに迫るのです。
私の友人で、優れた医者として、人々の尊敬を集めていた人が、一介の牧師となって、地方の教会に遣わされていきました。
彼が、牧師になる、といった時、殆どの人が言った言葉は、「勿体ない」でした。
医師としての名声も、利益も投げ捨てて、小さな教会の牧師になる。世間的には、まことに勿体ない選択です。でも、彼には、勿体ない、という気持ちはありませんでした。
神様の恵みに応えることを、第一とするか、自分の誇りを大切にするか。その選択において、神様の恵みに応えることを、選んだだけであったのです。
クリスチャン作家の三浦綾子さんが、ある対談の中で、「プライドなんて、ごみ箱にポイよ」、と言っていました。ユダヤ人たちは、これができなかったのです。
プライドを、ごみ箱にポイと、捨てることができなかったのです。
ですから、パウロのことを、自分たちのプライドを、傷つける者として、口汚く罵ったのです。
このようなユダヤ人たちに対して、パウロとバルナバは、勇敢に語りました。
生ける神の言葉そのものである、主イエスは、先ずあなた方ユダヤ人に、示されたのです。
だから、この主イエスの恵みに、真っ先に与るようにと、招かれていたのは、実は、あなた方ユダヤ人なのです。
でも、あなた方は、自分たちの誇りに、固執してしまって、その招きを拒んでしまいました。
ですから、神の言葉は、これからは、異邦人たちに、もたらされることになります。
あなたたちではなく、異邦人たちが、永遠の命の救いに、与っていくことになります。
パウロは、イザヤ書の御言葉を引用して、神様が、永遠の命の救いを、民族・人種の枠を超えて、地の果てにまで、もたらすご計画を、持っておられることを、証ししました。
この言葉を聞いて、異邦人たちは、大いに喜び、主を賛美しました。
同じ福音を聞きながら、ユダヤ人たちは、ひどくねたみ、口汚く罵ったのに、異邦人たちは、喜びと賛美に、満たされたのです。一体、この違いは、どこから来るのでしょうか。
それは、自分の誇りに、飽く迄も固執している者と、与えられた神様の恵みを、素直に受け入れ、その恵みの下で、生きる者との違いです。
主イエスの福音が語られる時、人はそのように、二つに分けられるのです。
命の言葉を受け入れて、喜びと賛美に生きる者と、自分の誇りに、飽く迄も固執して、命の言葉を拒む者とに、分けられるのです。
私たちは、そのどちらの道を歩むのか、二者択一を迫られることに、なるのです。
先程、三浦綾子さんの、「プライドなんか、ごみ箱にポイよ」、という言葉を、紹介しました。
この言葉を語った三浦綾子さんは、ご自分のことを、「病気のデパート」だと、言っています。
誰も、自分のことを、「病気のデパート」などと、紹介したくはありません。
しかし、三浦さんは、それを言うことができました。しかも、恨み辛みの言葉としてではなく、喜んでそう言ったのです。なぜ、彼女は、そう言えたのでしょうか。
それは、神様の恵みの素晴らしさ、神様の愛の大きさを、知っていたからです。
彼女は、よく、「私は、神様に、えこひいきされている」、と言っていました。神様は、自分を、えこひいきするような、愛を注いでくださっている。
だから、病気の中にも、必ず恵みを用意して下さっている、と信じていたのです。
ですから、自分は「病気のデパート」なんです、と喜んで言うことができたのです。
プライドをごみ箱にポイと投げ捨てて、神様の恵みを受け入れ、喜びと賛美に生きた人の生き様が、ここに示されています。
自分の誇りに固執して、神様の恵みを拒む人は、その誇りが失われると、立って居られなくなります。そのような生き方は、強そうに見えても、非常にもろいのです。
皆さん、私たちは、どちらの生き方を、選択すべきでしょうか。
さて、48節に、少し気になる言葉があります。「永遠の命に定められている人は皆、信仰に入った」、という言葉です。
この言葉を、神様は、ある人を救いへ、ある人を滅びへと、予め定めておられると、捉えると分からなくなります。
もし、生まれる前から、神様によって、救われるか、滅びるかが、定められてしまっているなら、私たちが、何を努力しても無駄だということになります。伝道も無意味になります。
しかし、この言葉を、その様に捉えることは、正しくありません。ここで「定められている人」、と書かれている言葉は、むしろ、「導かれた人」と捉えるべきだと思います。
神様によって「永遠の命に導かれた人は皆、信仰に入った」と捉えた方が良いと思います。
私たちが、信仰に入れられたのは、思いがけない、出会いによることが、多いと思います。
その出会いは、家族であったり、友人であったり、学校の先生であったり、と様々です。
或いは、何気なく、ふと教会に足を踏み入れた、ということも、あるかも知れません。
しかし、いずれも、自分で一生懸命努力した結果、救いを獲得した、というのではなくて、たまたまそういう機会が、与えられた、ということが多いと思います。
それを世間では、偶然と言いますが、信仰の目から見れば、それは神様の導きです。
自分が決断するより前に、神様が、そのように、導いて下さっていたのです。
ある本に、次のような話が、書かれていました。
ある牧師が、教会案内のポスターを、村中に貼って回りました。
疲れ果てて、最後に残った一枚を、家もないような、山のなかに貼りました。
ところが、その山の中に貼ったポスターを見て、84歳の男性が、教会を訪ねてきました。
その男性は、若い頃に洗礼を受けた、クリスチャンでした。しかし、山奥に住んでいて、30年以上も礼拝に出席していなかった、というのです。
しかも、50年間連れ添った妻は、夫の願いにもかかわらず、信仰をもっていませんでした。
教会を訪れて2年後に、その男性は、地上の生涯を終えて、天に召されました。
葬儀の直後に行われた伝道集会に、その妻が出席し、キリストを信じるようになりました。
そして、山の中の家から、日曜日ごとに、教会の礼拝に、出席するようになったのです。
彼女は、その後16年間、熱心に信仰生活を続け、感謝しつつ、天に召されていきました。
この女性の、キリストとの出会いは、最も身近にいた、夫すらも、予想できませんでした。
まさしく、神様が、不思議なご計画をもって、この女性を、主イエスのもとへと、導いてくださったのです。
アンティオキアの異邦人たちも、神様が、パウロの言葉を通して、救いへと、導いて下さいました。彼らが、特別な努力をした訳ではありません。
神様が、彼らを導き、救いへと招き入れてくださったのです。
彼らは、その神様の導きを、喜び、感謝しました。そして、パウロとバルナバが、次の町へと旅立った後も、喜びと聖霊に満たされていた、と御言葉は伝えています。
愛する兄弟姉妹、新しく与えられた2019年、私たちも、自分のような者をも、救いへと招き入れてくださった、神様の導きに感謝し、喜びと賛美の日々を、生きていきたいと思います。
つまらないプライドを、投げ捨てて、神様の恵みを第一として、生きていきたいと思います。
命の御言葉を、拒むのではなく、素直に受け入れ、御言葉に生かされて、歩んでいきたいと思います。